2010年02月12日

ヴェネツィアのカルネヴァーレ!

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冬の霧に包まれたカナル・グランデとヴェネツィアの町。サン・ジョルジョ・マジョーレ教会の鐘楼から

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リアルト橋にもカルネヴァーレの飾り

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サン・ジョルジョ・マジョーレ教会のある島を背景にポーズをとる、バウッダ(ドミノ仮面)の仮面の男

今、ヴェネツィアではカルネヴァーレ(「謝肉祭」)の真っ最中。サン・マルコ広場を中心に思い思いの仮装をした人たちが現れます。中世やルネッサンス風の豪華なドレスがやっぱり歴史的な街並みにはよく似合いますね。今年は今月10日から16日までがカルネヴァーレ期間ですが、ヴェネツィアではクリスマスを過ぎたあたりからもうカルネヴァーレ気分で、街中の飾りもカルネヴァーレの雰囲気です。また、お土産店や仮面の専門店では年中、仮面(マスケラ)を売っていますから、真夏でも観光客がカルネヴァーレの仮面姿で歩いていたりします。


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様々な仮面の下は、時には男性だったりすることも


カルネヴァーレに仮装して舞踏会に出るという風習はヴェネツィアが発祥だそうで、15世紀頃から始まりフランスやドイツなどヨーロッパ各地に広がりました。「謝肉祭」とか「仮装舞踏会」というタイトルの楽曲も多く作られています。ムード音楽のオーケストラで知られるマントヴァーニ楽団のアルバムに「ベニスの謝肉祭」というのがありましたが、その原曲がショパンが作曲した「ベニスの舟歌」でした。ショパンはイタリアに行ったことがなく、ずっと憧れを持っていたそうですが、この曲もそんな想いで作られたのですね。

オペラの巨匠、ジュゼッペ・ヴェルディも「仮面舞踏会」という作品を創っていますが、これは18世紀の終わりにスウェーデン国王グスタフ3世が仮面舞踏会に紛れ込んだ暗殺者に撃たれて死んだ事件をもとにしています。

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貴族制が廃止されてもコンテ、コンテッサなど称号は残るイタリアで、ヴェネツィアの貴族たちもカルネヴァーレはかつてのファミリーの栄光を楽しめるお祭だ

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ドゥカーレ宮殿の窓に登場した人たちはヴェネツィアの栄華な時代を思い起こさせる

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カルネヴァーレの衣装などを作っている店のオーナーが自らショーウィンドーの中に入って、道行く人を楽しませている

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ヴェネツィアで有名な仮面工房トラジ・コミカ(www.tragicomica.it)

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鏡の中のカップル

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道化師の衣装を着た可愛い赤ちゃんに周囲が注目


ヴェネツィアで仮面が流行したのは平民も貴族も身分を隠して自由に楽しめるからだそうですが、そのことで風紀や治安が乱れることにもなったようで、外国では禁止令を出したこともあります。ヴェネツィアでもペストが流行した18世紀から長く控えめになったり、世界大戦の影響で20世紀に入っても今ほど派手には楽しまれなかったようですが、イタリア経済が復興し、また観光立国として世界中から人々が訪れるようになると、ヴェネツィアでもより観光客を呼び寄せるプロジェクトとしてカルネヴァーレの期間中に様々なイベントが企画されたり、毎年異なるテーマ性を持ったお祭に変化し、年々、盛大になってきました。

今年はチョコレートを楽しむこともテーマのひとつのようで、プログラムを見るとカフェや舞踏会でチョコレートを使った様々なメニューが宣伝されています。また、いくつかの歴史的な館の中ではドレス・コードはカルネヴァーレ衣装ということで、舞踏会も開催されていますが、あの世紀のプレイボーイと呼ばれたカサノバをテーマにしたような仮装舞踏会もありちょっと怪しげです。カルネヴァーレが一番盛り上がるのは、やはり週末で今日から3日間は舞踏会やコンサートなど様々なイベントが開催されています。

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昨年の12月上旬に出会ったグループ。結婚目前の友人を祝福する独身最後のドンチャン騒ぎでもカルネヴァーレの仮面を被っている

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サント・ステファノ広場にあるちょっと変わったブティック

2010年01月26日

あれから15年、忘れえぬトスカーナの日々

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「トスカーナの青い空」の取材がきっかけで知り合ったアレ。最近は世界各地の旅を楽しんでいるらしい。相変わらず働く必要のない優雅な日々を送っている。昨年の暮れにもインドからクリスマスメールが届いた。

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かつてアレのファミリーが所有していた館の屋上から見た夜のドゥオーモ。


2010年になって半月以上が過ぎてしまった。昨年末のピエモンテ~ヴェネツィアのツアーの後、年末年始も多忙な日々が続き、イタリア紀行のブログ更新がだいぶ遅れてしまった。1月17日は朝からテレビではどの局も15年前の関西の大地震の追悼番組を繰り返していた。それは僕にとっても忘れえぬ過去であり、同時に大事な思い出の年でもあった。

初めてイタリアの大地を踏んで18年目にして、最初の著書「トスカーナの青い空」を出版した年で、1月から6月にかけてイタリアを往復した、その間にはフィレンツェに部屋を借りて住んだ。1月17日、まさにイタリアに出発した日に神戸の地震は起きていた。更にその年の3月20日にはオーム真理教による地下鉄サリン事件も起こった。帰国して、「トスカーナの青い空」の原稿を書きつつも、この2つの大きな出来事は現在進行形となり身近な関心ごとであり、その数年後、「住宅建築」という雑誌の取材で神戸を訪れたときにも大きな傷跡の残る街並みを見た。世界に眼を向けるとボスニアの紛争も激しさを増すばかりであったし、中東、中近東も未来の不穏な気配を孕んでいた。

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アルノ川の堰で日光浴をする人々。1995年は初夏まで天候不順で長雨が続いたが、初夏になると素晴らしい晴天が秋まで続き、この年のワインの出来も上々だった。

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フィレンツェに住んでいた頃、毎日のように行ってワインを楽しんだ店のひとつ、ヴェッラッツァーノのワイン・バー

大げさな言い方かもしれないが、日本も世界もそんな激動の時代にありながら、僕はトスカーナでタイムスリップしたように中世からルネッサンス時代の余韻の中を漂っていたのだ。ロベルト・ベニーニとマッシモ・トロージが共演した映画「もう泣くっきゃない(Non ci rest che piangere)」みたいな体験だった。しかし、そのお陰で、この本がその後の生き方の方向付けにもなったのだ。あれから15年、出版界にも写真の世界にも大きな変化があり、時代は新たな方向に向かっている。不易流行、進歩と発展は否定せず、むしろ積極的に受け入れ、しかし、初心忘るべからず、そんな気持ちを込めて今は絶版となった「トスカーナの青い空」のあとがきを読み直し、2010年のスタートしたい。読者の皆さん、今年もご愛読のほどよろしくお願いします。


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1995年5月上旬に撮影したコル・ドルチャの糸杉とその12年後の2007年6月上旬に撮影した同じ糸杉。


『「トスカーナの青い空」
1995年の夏に出版した本の《あとがき》

今年の一月にイタリアへ発った日は、神戸の大震災の翌日だった。ローマのホテルでテレビ報道を見ながら、日毎に増大していく被害の大きさを知って驚愕し、胸が痛んだ。見知らぬイタリア人からも日本人と分かると「あなたの町は大丈夫か」と心配してくれるのだった。この本の取材のために四月から六月にかけてイタリアを旅していたときには、ある宗教集団が前代未聞の事件を起こし、日々露呈する組織の全貌に呆れるほどであったが、それで日本人の私が白い目で見られるようなことは一度もなかった。宗教が時には暴走するものであることを、歴史の中で繰り返し体験していたからかも知れない。それよりもアドリア海の対岸のボスニア紛争の方がよっぽど深刻な問題だった。

私が部屋を借りた家の大家さんは、スロヴェニア生まれのイタリア人だったし、アリナーリ画伯の家へ案内してくれたアイーダもボスニアのヴァニャルーカ出身だった。二章にも書いたマケドニアのミルチなど、私はイタリア滞在中に何人もの旧ユーゴスラビア出身者と出会った。イタリアにとってこの国のことは隣の県のように身近なものなのである。第二次世界大戦が終決して五十年が過ぎたが、太平洋戦争だけが戦場ではなかった。それどころか日本はイタリア、ドイツと同盟まで結んでいたのだ。日米だけでは捉えられない世界史をもっと知りたいと思った。特にこの三つの国の戦後の在り方を。 歴史の本を繙けば、人間とは戦争をするために存在するのだろうか、と思うほどに争いを繰り返している。諍いごとのない日常がいいに決まっている。人間は歴史にいったい何を学んできたのだろうか。旅の間ずっとそんなことを考えながら歩いていて、それだからこそ出会う人々との交感が記憶のなかに強く刻まれた。ことにヴィンチ村の帰りに、バスの中で話し掛けてきた小学生たちの無垢な眼と好奇心いっぱいの質問ぜめにあったとき、すべてはここから始まるのだと実感した。つまりどんな教育をしたらいいのか、一歩誤れば大変恐いことになる。日々の命の尊さを知るこどもならきっとよい子に育つだろう、あのピノッキオのように。

住んでみなければ解らないことがあり、住み慣れて見え難くなることもある。初めてイタリアを訪れてからの十八年の歳月を、片時もこの国のことを忘れず旅を重ねてきたことで、そのどちらでもない眼を持つことになった。多くのイタリアの友人との出会い、またともにイタリアを愛する日本の、そして外国の友人との交友がなければ、この本は生まれなかったであろう。文中に登場した友人の他にも挙げきれない方々のお世話になってきた。はじめは誰でも未知から出発している。未知(道)に迷う楽しさと思いがけぬ出会いの喜びを知れば、イタリアの旅はもっと面白くなる。そんなさまざまな出会いが物語になればいいと夢を見ていた。

                  一九九五年、八月の光の中で、篠 利幸」』
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2009年12月09日

ピエモンテからヴェネツィア、そしてミラノ

11月中旬から下旬にかけてピエモンテからヴェネツィア、そしてミラノまで旅をした。ピエモンテからヴェネツィアまでは私が企画した「芸術と美食の旅」で8名の友人たちとの楽しい旅であった。成田からアリタリア機でミラノ、マルペンサ空港へ飛び、そこから出迎えの専用バスでピエモンテ州カネッリ郊外にあるアグリトゥリズモ、ルペストルに到着。そして、オーナーの友人、ジョルジョ・チリオが用意してくれたチーズや生ハム、サラミなどで彼の作ったドルチェットやモスカートのワインで軽い夕食。日本から12時間の空路とマルペンサから2時間半ほどのバス移動にも関わらず、一同元気にワインやチーズを楽しんだ。チーズは今回の旅でも訪問予定の工房が作るヤギのチーズ、ロビオラ・ディ・ロッカヴェラーノを熟成違いの3,4種を味わった。栄養価が高く消化しやすいチーズは旅の疲れをとるには一番だ。

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アグリトゥリズモ、ルペストルの2階の部屋の窓からテラス越しに見えた風景。

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ガヴィのレストランのカンティーナで撮影した1952年と1964年のバローロ。

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ネイヴェで極上バルバレスコを生産するエリオ・フィリッピーノ夫妻。

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トリノ、王宮広場の夜。

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オルトレポー・パヴェーゼのワイナリー、カステッロ・ディ・ルッツァーノの葡萄畑の紅葉。

今回の旅は4月の取材でもここぞと思ったガヴィやモンフォルテ・ダルバのレストランでピエモンテ料理の真髄を味わい、ガヴィ、バルバレスコ、バローロのワイン生産者を訪ね、そしてトリノではカフェ文化とフランスの影響を受けたエレガントな街並み散歩を楽しみ、続いて、ロンバルディアのオルトレポー・パヴェーゼにある2つのワイナリー、アルバーニとカステッロ・ディ・ルッツァーノを訪ねてからヴェローナに入り1泊、ヴェネトを代表するヴァルポリチェッラやソアーヴェのワイナリーを訪れてから、ヴェネツィアで2泊してバーカロをハシゴしながら冬のヴェネツィアをたっぷり味わうという日程。日程的にはあと2日あるともう少しゆったりと歩けるのだが、主に現役の第一線で活躍するメンバーのグループだったので最初のアグリトゥリズモと最後のヴェネツィアだけが2泊であとはトリノとヴェローナに1泊づつというコンパクトなもの。しかし、季節はピエモンテでは白トリュフが旬であり、ロンバルディアやヴェネトでも秋の味わいを満喫した。

私はこのグループとの旅の後、ミラノで少し取材する必要があり、ひとり残り4泊ほどミラノに滞在し、路面電車のトラムを活用しながらミラノを歩いた。

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ヴェネツィアで写真家を撮る。ドイツ人らしいがリンホフという4x5インチ判フイルムを使うカメラ。題して“Fotografo fotografa fotografo!(写真家が写真家を撮る)”。

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写真家が撮影していた先に見える島の教会、サン・ジョルジョ・マジョーレの鐘楼からのパノラマ。この季節は霧に包まれることが多い北イタリアだ。

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夜になると霧はますます深くたちこめ、サン・マルコ広場もご覧の通り。

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ツアーのメンバーを空港まで見送り、馴染みの店のひとつ、“Al Milion”で独りランチ。そして慌しくミラノに列車移動。

イタリア旅行中に家人や友人に国際ローミングの携帯電話で写メールしたのだが、2,3年前にヴェローナからワイン博、VinItalyの記事を送った時にもその料金にびっくりしたが、今回はその倍になっていてより驚いた。原因は新しく買い換えたSoftbankの携帯が1千万画素、送信用に自動サイズダウンしても写真1つが295kb、その割にはパソコンで見るとせいぜいご覧のような程度。最近はコンパクトデジカメでも高画素を売りにするが、もともと受光素子が小さなところに画素数だけ無理に増やすのはあまり意味ないようだ。旅全体はとても満足したが、この写メだけは反省点。もともとアナログ人間ゆえの失敗。今後はよりデジタル人間を目差すか・・・

今回の旅の報告は一眼レフで撮影した写真とともに、近々、連載する予定だが、とりあえずはちょっと物足りないが携帯で撮影した写真で予告編。

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ミラノの親友、サンドロのアパートからは右手に中央駅が見える。

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ミラノに着いて初めて一日中太陽が輝き、青空が広がった。徒歩とトラムで夕方まで市内を歩いた。

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中央駅左側のトラムのターミナル。夜空には三日月も見えた。


2009年11月16日

「トスカーナの青い空」復刻

 もう、かれこれ15年ほど前になるが「トスカーナの青い空」という本を出版した。10年間発行され続け、4,5年前に絶版となったが、自分にとってはイタリアとの関係をより深めるきっかけにもなった思い出深い本である。

 その本を書くために1995年の1月から6月まで2回に分けてフィレンツェに暮らしたのだが、それまで閉鎖的に感じてきたこの町の人々との交流により、旅人としてではなくフィレンツェやトスカーナ各地を見ることが出来た。

もっとも、そこの何十年も暮らしている日本人の友人たちに比べれば、まだまだ知らないことばかりなのだが、生きるための基本姿勢としては、「住めば都」、「住みづらいからこそ詩が生まれ、画が出来る」という考え方を支えとしている。

すると、このトスカーナの、ことにフィレンツェという町の人々が、わが町、東京生まれの人々のように親しみを感じてくるのである。

本を書く仕事をしていると、自分の本でありながら出来上がってしまったものを、再び手に取り読み直すということはほとんどない。この「トスカーナの青い空」のように15年も前のものであれば尚更であるが、最近、これを復刻してみようかという思いになるきっかけがあり、久々にいくつかの章を読んでみた。そして、いまだにこの本をよろこんでくれる読者もいるようなので、今日は、その序章だけを紹介してみる。

序章 トスカーナへの誘い

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 トスカーナ、この美しい響きをもった地名をどれだけの人々が憧れてきただろうか。ヨーロッパの北からは太陽の光とレモンやオレンジの香りを求めて、イギリスやフランスからは食卓に置かれた葡萄酒やオリーブ油の生まれた故郷をひとめ見たくて、またスペインやポルトガルからも同じ神と学問の流れを育んできた兄弟の土地を訪ねるように、この地に向かって旅に出た。二十世紀に入ってもっとも盛んにイタリアを訪れてきたのはアメリカ人だろう。なんといっても新世界を「発見」したコロンブスはジェノヴァに生まれたイタリア人だということを知らぬ者はない。フィレンツェに生まれたイタリアン・モードを支えてきたのもアメリカだった。

 フランス料理がフィレンツェのカトリーヌ・メディチがフランスに嫁いだときに持ち込んだというのはよく知られた話。ガラスは東方からヴェネツィアを通ってヨーロッパに広まったが、その中身のワインや香水そしてさまざま薬も毒もルネサンスの時代にフィレンツェで盛んに研究されてヨーロッパに広まっていたもの。柔らかで、エレガントな革のバッグや靴、そして何よりもミケランジェロやダ・ヴィンチ、ラファエロ、ボティチェルリなどの絵画の名作、オペラの発祥もフィレンツェを中心にこのトスカーナで生まれ育ったものばかり。

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 麗しきトスカーナ、オリーブの葉は銀に輝き、甘い葡萄の汁は樽の中で熟成の眠りをむさぼり、糸杉の梢はヤマバトやクロツグミの羽を休ませ、若草の野はアフロディーテがいましがたまで横たわっていたかのように、やわらかくうねり、甘い香りを漂わせている。なだらかな丘に羊飼いと農夫の小屋があり、そのまわりには真っ赤なケシやアイリスが咲いている。そこに住む人々は、悠久の日々をあたかも毛糸を紡ぐようにゆったりとしかし休むことなく生きている。

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 シエナやルッカ、フィレンツエのような町の生活もある。そこには酔い潰れた飲んだくれもいれば、気位の高い貴婦人や、河の流れに涙する詩人もいる。鼠はその河の両岸を往き来して右と左の情報を流しては、朝の鶏がそれを町中に知らせる。もう何百年もそんな毎日が飽きもせずに続き、積み重ねられ、いっそう珈琲色に艶々と照り、調合の秘密を明かさぬ香油のように、うっとりと夢想の世界に誘いこみ、道に迷った旅人をどうにでもしてくれとすべての拘束から解き放つ。

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 トスカーナの臍はどこにあるのだ。フィレンツェこそトスカーナの臍に違いない。そこからシエナの丘を越えて南の草原、マレンマの湿地帯に遊べば、エルバやジリオの島々はもうすぐそこの、青々としたティレニア海に見えるだろう。フィレンツェはトスカーナだけでなくイタリアの臍でもある。臍はちょっと窪んでいる。フィレンツエも町の周りを山に囲まれ、真ん中をアルノという河が流れている。大昔はピサから船でこの町に入った時代もあっただろうが、現代は鉄道を利用すれば、急行でローマから二時間半、ミラノからボローニャ経由で三時間、ヴェネツィアからニ時間程で着く。フィレンツェにも飛行場があるから飛行機を利用すればミラノ、ローマ、ヴェネツィアのどこからでも一時間で市内に入ることができる。

 私がいつもフィレンツェに入るときはローマからアッシジやペルージアなどのウンブリアの町を旅してからか、ミラノからヴェネツィアをゆっくり楽しんでからにしている。どちらにも古くからの友人がいるので、いきなりフィレンツェに行ってしまうと怒られる。ゆっくりと鉄道で移動する旅情もいいものだ。時間が無いときはもちろん飛行機を使う。いずれにせよフィレンツェにいればどこに出るにも都合が良い。

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 船や馬車で訪れた昔から比べれば、今では飛行機が世界のどこからでも運んでくれる。思いついたら吉日、その日の夜にはトスカーナのどこかのホテルのベッドで旅の疲れを癒すことが出来るのだ。いつかフィレンツェの中華料理の店で働く中国人に、北京へはどうやっていくかと訪ねたら、カンポ・ディ・マルテから乗ればいいと答えた。フィレンツェのふたつ手前のローカル駅だ。世界はこんなにも小さくなった。恐れることも、迷うこともない、トスカーナの魅力に誘われたあとは近くの旅行代理店へ行ってキップを手に入れさえすればいい。旅に出るより簡単な決断はない。いざ、ボン・ヴィアッジョ!

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2009年10月29日

ワインのあるべき姿、カステッジョのアルバーニ

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アルバーニのワイナリーで試飲の準備を整えたリッカルド・アルバーニ

●ミラノからポー河を越えて
オルトレ・ポー・パヴェーゼ(ポー河の向こうにあるパヴィアの地)、ミラノから車で1時間弱南下しポー河を越えたヴォゲーラの近くにカステッジョという小さな町がある。そこからもう少し南の丘陵地帯に入って行くサン・ヴィアージョ通り沿いに小さな田舎家のワイナリー、アルバーニがある。ワイナリーとしてはイタリアによくある家族経営の小さな葡萄農家だが、畑はその家や酒蔵を囲んだ周囲に広がり、ジープで左右に大きく揺られながら案内されると、サン・ヴィアージョ通りを挟んで、ここも、あそこもとびっくりする。

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サン・ヴィアージョ通りから見たアルバーニのワイナリー。建物の裏手に葡萄畑が広がる

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ワイナリーの前の道路の向かいにも葡萄畑が広がる

明るく陽光に照らされた丘の斜面の畑にはバルベーラ、ボナルダ、クロアティーナ、ウーヴァ・ラーラ、ヴェスポリーナ、ピノ・ネーロ、リースリングと様々な品種の葡萄が畑の微妙に異なる土質や日当たりの具合により区分けされ栽培されている。クロアティーナ、ウーヴァ・ラーラはボナルダと同系の葡萄である。ヴェスポリーナは別名ウゲッタとも呼ばれるが、ピノ・ネーロ、リースリング以外はいずれもこの地方のみではなくピエモンテのノヴァーラ周辺やロンバルディアからエミリア・ロマーニャ西部で広く栽培される葡萄でいずれもローマ時代からこの土地に存在する土着品種である。

オルトレ・ポー・パヴェーゼのワインでは10年ほど前にカステッジョから東へ30キロほど車を走らせたロヴェスカラにあるカステッロ・ディ・ルッツァーノという由緒あるワイナリーを訪ね、アグリトゥリズモとしても日本に紹介しているが、トスカーナやピエモンテ、ヴェネトなどに比べ日本ではあまり知られていない地味なイメージのワイン産地であった。しかし、ワイン生産としての歴史はローマ時代まで遡り、あまり流行にも乗らずに地元の人々に愛されてきたせいもあり、伝統的でいかにもイタリアのワインと感じさせる銘酒が数多くある。

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リッカルド・アルバーニの婚約者のクリスティーナさん


●アブルッツォのペペを彷彿とさせるワイン
ヴィニタリーの会場でイタリアの友人から興味深いワインがあるから飲んでみないかと誘われて行き紹介されたのがリッカルド・アルバーニであった。大柄の無骨な感じの男で、大きく見開いた眼でしっかりとこちらを見つめ、ゆっくり味わってくれと椅子を勧めるとすぐに10本ほどのワインをずらりと並べた。今年の春もヴィニタリーの会場で彼を訪ねるとすぐに、「さあ、座ってテイスティングをしてくれ。今日は“Costa del Morone”の02,03,04,05を飲み比べてもらうよ」とさっそくボトルを並べた。昨年飲んで大変気に入った99年物はすでに在庫稀少で出ていなかった。リッカルドは02年のワインをグラスに少し注ぎ、注意深く回しながらグラス全体にワインを馴染ませ、それを捨ててから改めて、ゆっくりと、慎重にワインを注ぎ、こちらに渡す。その仕草と真剣な眼差しを黙って見つめながら、彼の生涯を掛けた仕事を全身で受ける心地でグラスを手に取った。

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ヴェローナのヴィニタリーのブースでサービスをするリッカルド

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ワイナリーの試飲でリースリングを注ぐリッカルド

“Costa del Morone”はバルベーラ種を65%にクロアティーナ、ピノ・ネーロ、ウーヴァ・ラーラ、ヴェスポリーナを少しづつ混ぜて造られている。このように4,5種の葡萄を混合して造るのはこの辺りでは普通に行われてきた伝統的方法で、イタリアのワイン法でのDOCに認定されている。昨年の春もその“Costa del Morone”を99年から順に飲みはじめたとき、おや、これはどこかで飲んだことがあるワインだなと感じていた。翌年、リッカルド・アルバーニから送ってもらったサンプルの02年を友人のインポーターAVICOの阿掛氏と飲んでいたときにもそのイメージが蘇り、同時に「これはペペだね」と言葉がついて出た。

ペペとはアブルッツォで頑なに伝統的な造りを守りつつ銘酒の誉れ高いモンテプルチャーノを作っているエミディオ・ペペのことである。バルベーラやボナルダ系の葡萄からえもいわれぬフルーティ且つ、晩秋の森の濡れた枯葉のような熟成香を芳醇に漂わすのは、葡萄の違いというよりも、むしろ葡萄という数千年の歴史を重ねた果実が共通に持っている要素が、大樽の中で醸されることにより、その自然の持ち味を自由に出し切ったところから生まれるものだろう。近代イタリアワインはブルゴーニュのピノ・ノワールから造られるワインを手本に長熟で複雑な味わいのワインに発展してきたと言えるが、より多種多様な葡萄を有するイタリアではフランス以上に幅広く、奥行きのあるワイン世界を更に期待させる。こうしたワインは20年、30年と長期熟成させてからじっくりと味わうワインなのだ。少なくとも10年は待って味わいたいものである。

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アルバーニの葡萄畑でAVICOの阿掛社長と記念写真を撮影

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たった12本だけ在庫があり日本に輸入できた1999年のVigne Della Casonaの貴重な1本

余談だが、オルトレ・ポー・パヴェーゼのピノ・ネーロはスプマンテが2007年にDOCGに認定されている。元来フランスのブルゴーニュ地方の葡萄であるピノ・ノワールだが、ナポレオンの時代にイタリアに入り、ピノ・ネーロとして栽培されてきた。現在ではピエモンテ州からマルケ州まで北を中心に多く栽培され、それぞれの土地を反映した興味深いイタリアのピノ・ネーロ種からはスプマンテやスティル・ワインが造られている。ことにフランチャコルタのスプマンテはフランスのシャンパーニュにも負けぬ味わいがある。スティル・タイプならば、ピエモンテではマルケージ・ディ・アルフィエーリのサン・ジェルマーノ、マルケではルイジ・マンチーニの赤ワインが素晴らしい。


●酸化防止剤すら使わないアルバーニのワイン
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ワイナリーの樽の前に立つリッカルド・アルバーニ

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春の陽光を浴びる葡萄畑

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とても優しいリッカルドのお母さん


アルバーニでは“Costa del Morone”とほぼ同じ組み合わせの葡萄から畑違いの“Vigne della Casona”を造っているが、この畑はアルバーニが先祖代々受け継いできた大事な畑である。半世紀ほど自分のところや友人、知人のためだけにワインを造るだけであったが、1991年からリッカルドが本格的にワイナリー経営に再挑戦し、当初は4,5ヘクタールだった葡萄畑も現在は20ヘクタールに拡大している。リッカルドのモットーは葡萄と自然の持つ力を信じ、畑には化学肥料や殺虫剤、除草剤などの浸透性農薬の一切を排除し、またワインの製造およびボトリング時にも二酸化硫黄などの化学的酸化防止剤、防腐剤など一切の薬品を使用しないということである。
葡萄の発酵も大量に収穫し厳選した房を大きなタンクに入れて、その自重によって搾り出る果汁のみを葡萄に付着している自然酵母のみで発酵させる、いわゆるフリーラン製法を取っている。畑とならぶ草地には養蜂箱がならんでいるが、葡萄の花の受粉をミツバチが行うためである。繊細な命のミツバチを守るためにも農薬はやっかいな存在なのである。近年、世界的にそのミツバチの生存が危機に晒されている。イタリアでは古来からワインは神の手によって作られ、グラッパは人の手に寄り作られるという諺があるが、アルバーニのようなワインを飲むと、これがワインの本来あるべき姿であろうと実感する。

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葡萄畑の周囲には様々な種類の木々の森があり、草地にはミツバチの養蜂箱が並んでいる


●まだまだ知られぬロンバルディアのワイン
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パヴィア近郊のアグリトゥリズモで飲んだ“Buttafuoco”.はサラミやハム、肉のローストなどに良く合うしっかりしたボディのワインであった

オルトレ・ポー・パヴェーゼのワインは日本ではまだまだ多く知られておらず、アルバーニと同じカステッジョ近郊からはリーノ・マーガが知る人ぞ知るという程度だが、ロンバルディア全体を見ても、山岳部のヴァルテッリーナ、ブレーシャ周辺で生産されるスプマンテのフランチャコルタが日本では良く知られているほうだ。かつてアグリトゥリズモの取材をしていたときに、“Buttafuoco”を飲んだが、やはりバルベーラ主体にボナルダやピノ・ネーロなどから構成されるもので、大変しっかりしたボディのあるワインであった。

■イタリア文化講座開講します。詳しくはこちらのURLから:http://www.bellitalia.jp/popup/mangekyo_shino.htm


篠 利幸

1977年初渡欧、画家としてしばらく活動後、イタリアの写真を撮り始める。書籍、雑誌等で写真と文筆の両面で活動、「田園のイタリアへ!アグリトゥリズモの旅」(NTT出版)、「トスカーナの青い空」(東京書籍)など著書多数。 新ブログスタートしました→http://blogs.yahoo.co.jp/fotombra

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