2010年08月27日

ヴィーナスの港、ポルト・ヴェーネレ

地中海に太陽が輝き、青空が大きく広がる爽やかな朝、サンタ・マルゲリータ・リグレを出発し、ポルト・ヴェーネレを目指す。古くから軍港の町として知られるラ・スペツィアの手前、車窓から、丘の上に美しい小邑を望む。運転手も名前が分からず、グーグルの地図で探してもどこか検討がつかず、帰国してからインペリアのワイナリーVisAmorisのロベルトに写真を送って尋ねたが、彼らもなかなか分からなかったが数週間後、やっとそれがVezzano Ligure(ヴェッツァーノ・リグレ)という町だと連絡があった。「名も知れぬ美しき丘の上の町」に憧れのような想いを抱きつつ車はいつのまにかラ・スペツィアの街中を抜けてポルト・ヴェーネレに近づいていた。

ポルト・ヴェーネレ、美の女神、ビーナスの港と呼ばれるこの小さな漁村を訪れる日をずっと待ち焦がれていた。今より15年以上も前にジェノヴァからチンクエテッレの旅をしたのだが、その時に何故訪れていなかったのだろうかと小さな棘のような後悔があった。

町の中心に入る手前で車を降り、潮風の匂いの吹いてくる方向を目指して歩いていくと、前方にパステル・カラーの家々の連なりが現れた。こちらでは“Palazzata”(パラッツァータ)と呼ばれているが、イタリア語でPalazzo(パラッツォ)は建物、館だから、そこから派生したこの土地独特の呼び名だ。

ポルト・ヴェーネレの歴史は紀元150年のローマ時代まで遡る。ラテン語でポルトゥス・ヴェネリスと呼ばれいたが、現在サン・ピエトロ教会の建つとろこに女神ヴィーナスを祀る神殿があったそうだ。また、ローマ時代から漁村としても栄え、海上に浮かぶティノ島に隠遁していた聖ヴェネリウスに由来するという説もある。イタリアの漁村では漁から帰る船が港や自分の家の位置を分かりやすくするために、それぞれの家をカラフルに塗り分けたりする。ヴェネツィアのブラーノ島やナポリ湾のプロチダ島など。しかし、リグリア沿岸では後で紹介するカモッリやポルトフィーノ、そしてチンクエテッレの入り江に面した漁村のそれぞれの建物が色とりどりに塗り分けられ、まさに絵画的な美しさを見せる。

港では漁師が網の手入れをし、幼い娘がそれを手伝う光景を見ると思えば、砂浜では観光客の子供たちが無心に砂遊びをしている。


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ヴェッツァーノ・リグレ

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カラフルなポルト・ヴェーネレの家並み

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めったに撮れないセルフ・ポートレート

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漁師の父の手伝いをする少女

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無心に砂浜で遊ぶ観光客の子供たち


西ローマ帝国が滅びるとポルト・ヴェーネレはビザンチン帝国の軍港となるが、それも643年にはロンバルドに滅ぼされ、以後も再三、サラセンの侵入に脅かされる。12世紀なり漸く強固な城砦と城壁を構築した。そしてしばらくヴェッツァーノの貴族の領地となっていたが、1494年、ジェノヴァと戦っていたアラゴンの戦艦の砲撃を受け沿岸は大打撃を被る。そこには1198年にサン・ピエトロ教会が建立されていたところであり、1340年の火災とその後のアラゴンの攻撃による損壊の後、1582年に修復された。

初期のローマンスタイルから後のゴシックの様式を併せ持つ現在のスタイルとなり、リグリア地方の教会ではしばしば見られる白と黒の横縞模様はサラセン文化の影響と言われる。


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サン・ピエトロ教会

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サン・ピエトロ教会の主祭壇

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サン・ピエトロ教会の聖母マリアの祭壇

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サン・ピエトロ像

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アーチ型の開口部からの眺め

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ドリア城が見える。ドリアはルネサンス時代のジェノヴァ総督の名前


港に沿って立ち並ぶカラフルな家々、パラッツァータの東側の端にローマ門があり、そこからサン・ピエトロ教会のあるスパッランツァーニ広場(P.zza Spallanzani)までカペッリーニ通りという小路が続く。土産物店や花屋、レストラン、パン屋などが並び観光客を楽しませる。地元ではカルージョ(Carugio)と呼ばれるらしいが、その一角に古い井戸があり、その脇にラ・メドゥーサ(La Medusa)というレストランが美味しそうな雰囲気を漂わせていたので、そこで昼食を摂った。

海辺の町らしく、オーダーしたメニューは全て魚介料理の数々であったが、家庭的な味わいのパスタやリゾット、そして魚介のフリットなど、軽快な飲み心地の白ワインとともにポルト・ヴェーネレを胃袋でも満喫できた。


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Via Capellini(カペッリーニ通り)

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カペッリーニ通りの花屋の店先

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カルージョ(Carugio)の井戸がある広場

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カルージョにあるリストランテ、ラ・メドゥーサ(La Medusa)

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自家製のラビオリを箱詰めするおばあちゃん、92歳とか。

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スカンピとトマトソースのペンネ

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海の幸のスパゲッティ

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魚介のリゾット

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ハウスワイン(Vino della Casa)

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海の幸のフリット・ミスト

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スカンピのオーブン焼


昼食を満喫して小路を歩き始めるとグリーンの看板が目立つ店があった。近づいてみるとバジリコを植えたプランターがあちこちに並べてあり、店の中を覗くと美味しそうなフォカッチャやパン、瓶詰めのジェノヴェーゼ・ソースなどが並んでいる。“Bajeico”、こちらの方言でバジリコを指すことばだが、それがこの店の名前で、自家製のジェノヴェーゼ・ソースが売りの店らしい。オリーブの実やトマトなどを焼きこんだフォカッチャも魅力的だったが、何しろ昼食で満腹になったばかり、ジェノヴァ風パネットーネというのを土産に買った。女主人のラウラ・マッサさんはとても気さくで「日本の雑誌やテレビにも紹介されたことがあるよ」と嬉しそうだった。確かに、ポルトヴェーネレでは一番目に付きそうな店だから日本のテレビや雑誌の取材も来れば必ずや訪れるに違いない。その後2週間ばかり北イタリアを取材して帰国した後にこのジェノヴァ風パネットーネを食したが、ほんのりと甘みがあるが、いつも馴染んでいるパネットーネのようなしっとりした食感はなく、ちょっと乾いた食感と香辛料のほのかな香りからしても、その昔、長い航海でも日持ちするように工夫された船乗りのパンであったのだろう。


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“Bajeico”La Bottega del Pesco

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鮮やかなグリーンのバジリコ

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フォカッチャいろいろ

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絞りたて、タジャスカ主100%のオリーブ油

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Bajeicoの主人ラウラ・マッサさんとジェノヴァ風パネットーネ


カルージョの小路から港に降りると路面に大きなチェスの盤面で遊ぶ人がいた。1997年にチンクエテッレとともに世界遺産に認定されたポルト・ヴェーネレ。この港からチンクテッレ巡りの船も出ている正真正銘の観光名所だ。しかし、朝に着いて、昼食を摂り、まだ陽も高いうちに立ち去るには惜しい気もした。旅の日程もあり仕方ないのだが、午後になり逆光の中に浮かぶパラッツァータの家並みに名残り惜しさを秘めつつ港を後にした。

これから、いよいよチンクエテッレのひとつ、リオ・マジョーレに行くのだが、その前にラ・スペツィアの町を見下ろすところで写真を撮った。ラ・スペツィアは現在もイタリア海軍の軍港として知られるが、かつて天橋立を訪れた時に遊歩道に明治時代に輸入されたカノン砲が展示されており、その砲身にはLA SPEZIAと刻印されていたのを思い出した。砲の説明書きには英国製と記してあったのだが、砲身には確かにラ・スペツィアで製造と鋳造されたときの刻印があったのだ。開国期の日本はイタリアとも様々な関わりと持ち、今回も訪ねる事ができなかったが、ジェノヴァにはキオッソーネ東洋美術館がある。キオッソーネは明治初期に来日し財務省紙幣局で16年間も紙幣製造のための版画指導を行い、当時の西洋美術の文化を日本に伝えた芸術家である。次にリグリアを訪れる機会があれば、必ずやジェノヴァのこの美術館も訪れてみよう。



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Carugioから港へ降りる路地

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海岸通りにあった大きなチェス

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ポルト・ヴェーネレの港

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昼下がりのポルト・ヴェーネレ

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日帰りでは名残惜しい・・・

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ラ・スペツィアの眺望

2010年07月05日

リグリアのワイナリー、VisAmoris訪問記

■リグリア・ワインの代名詞、ピガート

 今年の4月上旬、久々にコート・ダジュールを旅してからイタリア入りした。その最初に訪れたのがフランス国境を越えてすぐのインペリアにあるワイナリーヴィサモリス(VisAmoris)である。フランスと国境を接するイタリアの町、ヴェンティミリアから1時間足らずでインペリアに到着したが、そこからワイナリーにたどり着く道が分かりにくく我ら一行を乗せた小型バスのドライバーもワイナリーからの出迎えでようやく目的の場所に到着。ここで造っているのはピガートと言うリグリア特産の白葡萄のワインである。ピガート種はこのインペリア近郊のアルベンガという土地に十数世紀前から既に存在していた固有種で、古いリグリア方言で染みや斑点を“ピガ”というそうで、葡萄が熟成すると実の表面に褐色の斑点が現れることから“ピガート”と名付けられたのだ。

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コート・ダジュールのイタリアに最も近い町、マントン。

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国境を越えると風景も似て非なる雰囲気を感じる。

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国境の町、ヴェンティミリアの道路標識。

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ヴィサモリスの葡萄畑からインペリアを遠望。

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リグリアの葡萄畑は地中海に面して陽光には恵まれるが急斜面での農作業はとてもハードだ。

■美味しいワインは“愛の力”から生まれる

 ヴィサモリスのオーナー、ロベルトとロッサーナの夫婦がここでワイン造りを始めたのは2004年で、“Dome(ワイナリーがある土地の名前から取った)”というステンレスタンクのみで8ヶ月熟成させて仕上げられた白ワインとステンレスタンクで熟成させた後、更にオークの小樽で6ヶ月熟成させた“Sogno(夢)”の2種類の白ワインの他、リグリア特産のオリーブ、タジャスカ種100%のオイルも生産している。イタリアではある程度事業などに成功したりするとワイナリー経営をしてみたいという夢や計画を抱く人が少なくないようだが、それを成功させるには相当な覚悟と情熱がいる。また、白ワインの醸造にはコンピューターで温度管理されたステンレスタンクなど先行の設備投資も赤ワイン以上という。もちろん、まず肝心なのは良い葡萄畑を手に入れることだが、ロベルトはこの土地を代々持っていたがちょうどタイミング良く農夫の現役を退いたマリオさんから譲り受けた。また、オリーブ栽培についてはやはり土地っ子のジーノというパートナーにも出会えた。そして何よりもロベルトの、というより夫婦ふたりの夢を実現するために、いつも一緒に仕事をしてくれるロッサーナという妻の愛、その夫婦の愛と夢が困難な土地での厳しい仕事を楽しいものにさせている。ちなみに、VisAmorisというのはラテン語の“愛の力“という意味だそうで、ワイナリーのロゴマークにもハートと組み合わせてデザインされている。

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“ヴィサモリス、愛の力“という名前に相応しい熱々の夫婦

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まだ高校生の次男のピエロ君はニューヨークに行くことを夢に見ている。できればアメリカに留学したいそうだ。その手にしているのは野生のアスパラガス。

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イタリアでは春になると野生のアスパラガスがあちこちに生えてくるが、ことに葡萄畑やオリーブ畑ではしばしば見つける。それを茹でてオリーブオイルだけで食す。

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ヴィサモリスが生産している2種類の白ワイン。日本にはAvico(www.avico.jp)が輸入している。地中海に面した土地柄ゆえ、魚介料理にはぴったりのワイン。蒸し暑い日本の気候で、夏ばて美味の身体にはこのピガートで夏牡蠣やヒラメのカルパッチョ、あるいはアクア・パッツァなどを味わってはどうだろう。

■延々5時間、長い昼食

 ヴィサモリスを訪ねたのは私が企画したツアーに参加した総勢14名。コート・ダジュールからしばしば道路工事などで渋滞があったり、前述したようにインペリアに着いてからも道に迷ったりで到着予定時間を2時間も過ぎてしまった。これはさぞや迷惑を掛けてしまったなと不安を抱えながらワイナリーに入ったのだが、出迎えたロベルトとロッサーナのふたりの笑顔でそんな心配はいつの間にか消えて、早速、冷えた白ワインを味わっていた。家の周囲は緩やかな斜面が囲み、オリーブ林や葡萄畑が見える。庭には大きな素焼きの壷が置いてあり、それを見てすぐにその上にボトルとワイングラスを置いて撮りたいとイメージが湧いた。

 皆さん、食事の準備が出来ましたよと家の中に招かれると長細く大きなテーブルには真っ赤なクロスが敷かれ、鰯のマリネや干した鱈を水で戻して柔らかく調理してからマッシュポテトと合せるリグリア風のバッカラやボリジというコバルト・ブルーの美しい花のサラダやテーブル・クロスの赤にも負けない真っ赤に熟したトマトのスライスなどが並んでいた。圧巻はロベルトが自ら腕を奮って作った魚介のパスタ。スカンピやムール貝、アサリ、トゥリッリャなどをじっくりと煮込んだ濃厚なスープにトマトを加えて仕上げたソースのリングイネは何度もお変わりを頂いた。

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これほど大人数を招いた食卓はワイナリー始まって以来だとロベルトもロッサーナも大喜びだったそうだ。人をもてなす喜びをまた喜ぶのがイタリア人。

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魚介のスープを作るロベルト。イタリア男は料理の腕前もなくてはモテない。

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目の前は地中海という恵まれた土地だからこそ生まれた魚介料理の典型。

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出来上がった魚介のパスタの大きな鍋を嬉しそうに披露するロベルト。その右にいるのがオリーブ農園を運営するパートナーのジーノ。

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鰯のマリネ、鰯の新鮮さが命だが、こんなに新鮮で美味しいマリネは初めてだ。そこに使われた自社製のオリーブオイルだからこそ出せる味わいだ。

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リグリア風バッカラ。干し鱈はヨーロッパではどこでも食べるが、調理方法は地方ごとに異なる。ヴェネツィアのバッカラ・マンテカートはオリーブオイルでペースト状に仕上げたものだが、リグリア風はジャガイモが一緒になっている。これもまた大変美味。

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その形から“牛の心臓”と呼ばれる大きなトマトとボリジの花。

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美しいブルーの花、ボリジ。古代ギリシア人やローマ時代から健胃効果のある薬草としても利用されていると知ってはいたが、サラダで食べたのは初めて。小さな固い毛のようなものが生えていて口に入れると少しチクチクする感じだが、慣れると後を引く。

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小麦粉と蜂蜜にオリーブオイルで焼き上げたお菓子。リグリアの伝統的な保存食だそうだ。

■急斜面の葡萄畑を散策して消化促進

 ゆっくりと2時間あまり昼食と歓談の後、ロベルトが「さあ、葡萄畑を見に行こう」と声を掛ける。庭先からロベルトが指差す方を見上げると葡萄畑とオリーブの林の上にはまだ充分に明るい太陽と青空が広がっているのだが、その急な斜面に一瞬、皆、ここを登るのぉ・・・と怖気づく。しかし、地中海から吹き上がる風を感じながら斜面をゆっくり登り始めると、誰もがその心地よさに笑顔となり、たくさん食べたからバスに乗って移動する前にはこのくらいの運動はちょうどよいと楽しんだ。こういうところには必ず野生のアスパラガスが生えているはずだと私が言うと、一緒に着いて来たロベルトの次男のピエロがすかさずオリーブの木の根元などから数本の野生のアスパラガスを取ってきてくれた。

 ロベルトが開墾したばかりの畑を示しながら「こんなに大きな石がごろごろしているから、本当に仕事はきついよ。しかし、かつては海の底だった土地だから、ミネラルはたっぷりだし、丁寧に葡萄を育てれれば良質のワインになることは確信できる。だからこそがんばれるんだね。」と笑った。小1時間ばかり葡萄畑やオリーブの木立の間を歩き回ってから、また車に乗って醸造所に移動し、まだステンレスタンクの中の2009年のワインを味わった。田園を散策した後のこの1杯もまた歓喜の味わいだ。

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昼食の後、時刻は既に午後5時近くになっていたが4月上旬の空はまだまだ明るく、オリーブの林の上には青空が広がっている。

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ロベルトがステンレスタンクから“Dame”をグラスに注いでくれる。

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葡萄畑の中にぽつんと目立つ松の木。まだまだ若いがワイナリーの成長と伴にこの松も大木になるに違いない。

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日が沈み始めた頃、インペリアからサンタ・マルゲリータ・リグレに向かった。その途中のアウトストラーダはほとんどが長いトンネルだ。それだけリグリアの海岸線はリアス式に入り組んでいる。

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ヴィサモリスと訪ねたあと、リグリアの代表的な観光地のひとつサンタ・マルゲリータ・リグレで朝を迎えた。

■ヴェローナのワイン博、ヴィニタリーで再会

 ロベルトとロッサーナの二人にはリグリアの旅の数日後、ヴェローナで毎年開催されるイタリア最大のワイン博覧会ヴィニタリー(VinItaly)で再会した。日本の輸入元であるアビコの社長夫妻と一緒に夕食に招かれ、再会と美味しい夕食を楽しんだ。ワイナリーでは撮影するのを忘れてしまったオリーブオイルのボトルをその時に撮影できたのだが、残念ながらこのオイルは他の高級オイルに比べても3割ばかり高値なのでまだ日本には輸入されていない。しかし、ユーロもだいぶ下がってきたから今年の分から少量でも輸入されると期待したい。

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ヴェローナのヴィニタリー会場、リグリア・ブースで再会したロッサーナとロベルト、そして友人のエノロゴ(醸造技師)。

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これがVisAmorisのオリーブ・オイル(250ml瓶)。タジャスカ種は最も繊細でエレガントな味わいと言われるオリーブだが、ヴィサモリスのオイルはまさに果実のような柔らかで優しい甘さを感じるオイルだ。

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ヴェローナのレストランで再会したロベルトとロッサーナ夫妻。

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2010年02月12日

ヴェネツィアのカルネヴァーレ!

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冬の霧に包まれたカナル・グランデとヴェネツィアの町。サン・ジョルジョ・マジョーレ教会の鐘楼から

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リアルト橋にもカルネヴァーレの飾り

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サン・ジョルジョ・マジョーレ教会のある島を背景にポーズをとる、バウッダ(ドミノ仮面)の仮面の男

今、ヴェネツィアではカルネヴァーレ(「謝肉祭」)の真っ最中。サン・マルコ広場を中心に思い思いの仮装をした人たちが現れます。中世やルネッサンス風の豪華なドレスがやっぱり歴史的な街並みにはよく似合いますね。今年は今月10日から16日までがカルネヴァーレ期間ですが、ヴェネツィアではクリスマスを過ぎたあたりからもうカルネヴァーレ気分で、街中の飾りもカルネヴァーレの雰囲気です。また、お土産店や仮面の専門店では年中、仮面(マスケラ)を売っていますから、真夏でも観光客がカルネヴァーレの仮面姿で歩いていたりします。


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様々な仮面の下は、時には男性だったりすることも


カルネヴァーレに仮装して舞踏会に出るという風習はヴェネツィアが発祥だそうで、15世紀頃から始まりフランスやドイツなどヨーロッパ各地に広がりました。「謝肉祭」とか「仮装舞踏会」というタイトルの楽曲も多く作られています。ムード音楽のオーケストラで知られるマントヴァーニ楽団のアルバムに「ベニスの謝肉祭」というのがありましたが、その原曲がショパンが作曲した「ベニスの舟歌」でした。ショパンはイタリアに行ったことがなく、ずっと憧れを持っていたそうですが、この曲もそんな想いで作られたのですね。

オペラの巨匠、ジュゼッペ・ヴェルディも「仮面舞踏会」という作品を創っていますが、これは18世紀の終わりにスウェーデン国王グスタフ3世が仮面舞踏会に紛れ込んだ暗殺者に撃たれて死んだ事件をもとにしています。

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貴族制が廃止されてもコンテ、コンテッサなど称号は残るイタリアで、ヴェネツィアの貴族たちもカルネヴァーレはかつてのファミリーの栄光を楽しめるお祭だ

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ドゥカーレ宮殿の窓に登場した人たちはヴェネツィアの栄華な時代を思い起こさせる

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カルネヴァーレの衣装などを作っている店のオーナーが自らショーウィンドーの中に入って、道行く人を楽しませている

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ヴェネツィアで有名な仮面工房トラジ・コミカ(www.tragicomica.it)

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鏡の中のカップル

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道化師の衣装を着た可愛い赤ちゃんに周囲が注目


ヴェネツィアで仮面が流行したのは平民も貴族も身分を隠して自由に楽しめるからだそうですが、そのことで風紀や治安が乱れることにもなったようで、外国では禁止令を出したこともあります。ヴェネツィアでもペストが流行した18世紀から長く控えめになったり、世界大戦の影響で20世紀に入っても今ほど派手には楽しまれなかったようですが、イタリア経済が復興し、また観光立国として世界中から人々が訪れるようになると、ヴェネツィアでもより観光客を呼び寄せるプロジェクトとしてカルネヴァーレの期間中に様々なイベントが企画されたり、毎年異なるテーマ性を持ったお祭に変化し、年々、盛大になってきました。

今年はチョコレートを楽しむこともテーマのひとつのようで、プログラムを見るとカフェや舞踏会でチョコレートを使った様々なメニューが宣伝されています。また、いくつかの歴史的な館の中ではドレス・コードはカルネヴァーレ衣装ということで、舞踏会も開催されていますが、あの世紀のプレイボーイと呼ばれたカサノバをテーマにしたような仮装舞踏会もありちょっと怪しげです。カルネヴァーレが一番盛り上がるのは、やはり週末で今日から3日間は舞踏会やコンサートなど様々なイベントが開催されています。

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昨年の12月上旬に出会ったグループ。結婚目前の友人を祝福する独身最後のドンチャン騒ぎでもカルネヴァーレの仮面を被っている

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サント・ステファノ広場にあるちょっと変わったブティック

2010年01月26日

あれから15年、忘れえぬトスカーナの日々

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「トスカーナの青い空」の取材がきっかけで知り合ったアレ。最近は世界各地の旅を楽しんでいるらしい。相変わらず働く必要のない優雅な日々を送っている。昨年の暮れにもインドからクリスマスメールが届いた。

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かつてアレのファミリーが所有していた館の屋上から見た夜のドゥオーモ。


2010年になって半月以上が過ぎてしまった。昨年末のピエモンテ~ヴェネツィアのツアーの後、年末年始も多忙な日々が続き、イタリア紀行のブログ更新がだいぶ遅れてしまった。1月17日は朝からテレビではどの局も15年前の関西の大地震の追悼番組を繰り返していた。それは僕にとっても忘れえぬ過去であり、同時に大事な思い出の年でもあった。

初めてイタリアの大地を踏んで18年目にして、最初の著書「トスカーナの青い空」を出版した年で、1月から6月にかけてイタリアを往復した、その間にはフィレンツェに部屋を借りて住んだ。1月17日、まさにイタリアに出発した日に神戸の地震は起きていた。更にその年の3月20日にはオーム真理教による地下鉄サリン事件も起こった。帰国して、「トスカーナの青い空」の原稿を書きつつも、この2つの大きな出来事は現在進行形となり身近な関心ごとであり、その数年後、「住宅建築」という雑誌の取材で神戸を訪れたときにも大きな傷跡の残る街並みを見た。世界に眼を向けるとボスニアの紛争も激しさを増すばかりであったし、中東、中近東も未来の不穏な気配を孕んでいた。

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アルノ川の堰で日光浴をする人々。1995年は初夏まで天候不順で長雨が続いたが、初夏になると素晴らしい晴天が秋まで続き、この年のワインの出来も上々だった。

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フィレンツェに住んでいた頃、毎日のように行ってワインを楽しんだ店のひとつ、ヴェッラッツァーノのワイン・バー

大げさな言い方かもしれないが、日本も世界もそんな激動の時代にありながら、僕はトスカーナでタイムスリップしたように中世からルネッサンス時代の余韻の中を漂っていたのだ。ロベルト・ベニーニとマッシモ・トロージが共演した映画「もう泣くっきゃない(Non ci rest che piangere)」みたいな体験だった。しかし、そのお陰で、この本がその後の生き方の方向付けにもなったのだ。あれから15年、出版界にも写真の世界にも大きな変化があり、時代は新たな方向に向かっている。不易流行、進歩と発展は否定せず、むしろ積極的に受け入れ、しかし、初心忘るべからず、そんな気持ちを込めて今は絶版となった「トスカーナの青い空」のあとがきを読み直し、2010年のスタートしたい。読者の皆さん、今年もご愛読のほどよろしくお願いします。


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1995年5月上旬に撮影したコル・ドルチャの糸杉とその12年後の2007年6月上旬に撮影した同じ糸杉。


『「トスカーナの青い空」
1995年の夏に出版した本の《あとがき》

今年の一月にイタリアへ発った日は、神戸の大震災の翌日だった。ローマのホテルでテレビ報道を見ながら、日毎に増大していく被害の大きさを知って驚愕し、胸が痛んだ。見知らぬイタリア人からも日本人と分かると「あなたの町は大丈夫か」と心配してくれるのだった。この本の取材のために四月から六月にかけてイタリアを旅していたときには、ある宗教集団が前代未聞の事件を起こし、日々露呈する組織の全貌に呆れるほどであったが、それで日本人の私が白い目で見られるようなことは一度もなかった。宗教が時には暴走するものであることを、歴史の中で繰り返し体験していたからかも知れない。それよりもアドリア海の対岸のボスニア紛争の方がよっぽど深刻な問題だった。

私が部屋を借りた家の大家さんは、スロヴェニア生まれのイタリア人だったし、アリナーリ画伯の家へ案内してくれたアイーダもボスニアのヴァニャルーカ出身だった。二章にも書いたマケドニアのミルチなど、私はイタリア滞在中に何人もの旧ユーゴスラビア出身者と出会った。イタリアにとってこの国のことは隣の県のように身近なものなのである。第二次世界大戦が終決して五十年が過ぎたが、太平洋戦争だけが戦場ではなかった。それどころか日本はイタリア、ドイツと同盟まで結んでいたのだ。日米だけでは捉えられない世界史をもっと知りたいと思った。特にこの三つの国の戦後の在り方を。 歴史の本を繙けば、人間とは戦争をするために存在するのだろうか、と思うほどに争いを繰り返している。諍いごとのない日常がいいに決まっている。人間は歴史にいったい何を学んできたのだろうか。旅の間ずっとそんなことを考えながら歩いていて、それだからこそ出会う人々との交感が記憶のなかに強く刻まれた。ことにヴィンチ村の帰りに、バスの中で話し掛けてきた小学生たちの無垢な眼と好奇心いっぱいの質問ぜめにあったとき、すべてはここから始まるのだと実感した。つまりどんな教育をしたらいいのか、一歩誤れば大変恐いことになる。日々の命の尊さを知るこどもならきっとよい子に育つだろう、あのピノッキオのように。

住んでみなければ解らないことがあり、住み慣れて見え難くなることもある。初めてイタリアを訪れてからの十八年の歳月を、片時もこの国のことを忘れず旅を重ねてきたことで、そのどちらでもない眼を持つことになった。多くのイタリアの友人との出会い、またともにイタリアを愛する日本の、そして外国の友人との交友がなければ、この本は生まれなかったであろう。文中に登場した友人の他にも挙げきれない方々のお世話になってきた。はじめは誰でも未知から出発している。未知(道)に迷う楽しさと思いがけぬ出会いの喜びを知れば、イタリアの旅はもっと面白くなる。そんなさまざまな出会いが物語になればいいと夢を見ていた。

                  一九九五年、八月の光の中で、篠 利幸」』
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2009年12月09日

ピエモンテからヴェネツィア、そしてミラノ

11月中旬から下旬にかけてピエモンテからヴェネツィア、そしてミラノまで旅をした。ピエモンテからヴェネツィアまでは私が企画した「芸術と美食の旅」で8名の友人たちとの楽しい旅であった。成田からアリタリア機でミラノ、マルペンサ空港へ飛び、そこから出迎えの専用バスでピエモンテ州カネッリ郊外にあるアグリトゥリズモ、ルペストルに到着。そして、オーナーの友人、ジョルジョ・チリオが用意してくれたチーズや生ハム、サラミなどで彼の作ったドルチェットやモスカートのワインで軽い夕食。日本から12時間の空路とマルペンサから2時間半ほどのバス移動にも関わらず、一同元気にワインやチーズを楽しんだ。チーズは今回の旅でも訪問予定の工房が作るヤギのチーズ、ロビオラ・ディ・ロッカヴェラーノを熟成違いの3,4種を味わった。栄養価が高く消化しやすいチーズは旅の疲れをとるには一番だ。

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アグリトゥリズモ、ルペストルの2階の部屋の窓からテラス越しに見えた風景。

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ガヴィのレストランのカンティーナで撮影した1952年と1964年のバローロ。

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ネイヴェで極上バルバレスコを生産するエリオ・フィリッピーノ夫妻。

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トリノ、王宮広場の夜。

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オルトレポー・パヴェーゼのワイナリー、カステッロ・ディ・ルッツァーノの葡萄畑の紅葉。

今回の旅は4月の取材でもここぞと思ったガヴィやモンフォルテ・ダルバのレストランでピエモンテ料理の真髄を味わい、ガヴィ、バルバレスコ、バローロのワイン生産者を訪ね、そしてトリノではカフェ文化とフランスの影響を受けたエレガントな街並み散歩を楽しみ、続いて、ロンバルディアのオルトレポー・パヴェーゼにある2つのワイナリー、アルバーニとカステッロ・ディ・ルッツァーノを訪ねてからヴェローナに入り1泊、ヴェネトを代表するヴァルポリチェッラやソアーヴェのワイナリーを訪れてから、ヴェネツィアで2泊してバーカロをハシゴしながら冬のヴェネツィアをたっぷり味わうという日程。日程的にはあと2日あるともう少しゆったりと歩けるのだが、主に現役の第一線で活躍するメンバーのグループだったので最初のアグリトゥリズモと最後のヴェネツィアだけが2泊であとはトリノとヴェローナに1泊づつというコンパクトなもの。しかし、季節はピエモンテでは白トリュフが旬であり、ロンバルディアやヴェネトでも秋の味わいを満喫した。

私はこのグループとの旅の後、ミラノで少し取材する必要があり、ひとり残り4泊ほどミラノに滞在し、路面電車のトラムを活用しながらミラノを歩いた。

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ヴェネツィアで写真家を撮る。ドイツ人らしいがリンホフという4x5インチ判フイルムを使うカメラ。題して“Fotografo fotografa fotografo!(写真家が写真家を撮る)”。

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写真家が撮影していた先に見える島の教会、サン・ジョルジョ・マジョーレの鐘楼からのパノラマ。この季節は霧に包まれることが多い北イタリアだ。

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夜になると霧はますます深くたちこめ、サン・マルコ広場もご覧の通り。

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ツアーのメンバーを空港まで見送り、馴染みの店のひとつ、“Al Milion”で独りランチ。そして慌しくミラノに列車移動。

イタリア旅行中に家人や友人に国際ローミングの携帯電話で写メールしたのだが、2,3年前にヴェローナからワイン博、VinItalyの記事を送った時にもその料金にびっくりしたが、今回はその倍になっていてより驚いた。原因は新しく買い換えたSoftbankの携帯が1千万画素、送信用に自動サイズダウンしても写真1つが295kb、その割にはパソコンで見るとせいぜいご覧のような程度。最近はコンパクトデジカメでも高画素を売りにするが、もともと受光素子が小さなところに画素数だけ無理に増やすのはあまり意味ないようだ。旅全体はとても満足したが、この写メだけは反省点。もともとアナログ人間ゆえの失敗。今後はよりデジタル人間を目差すか・・・

今回の旅の報告は一眼レフで撮影した写真とともに、近々、連載する予定だが、とりあえずはちょっと物足りないが携帯で撮影した写真で予告編。

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ミラノの親友、サンドロのアパートからは右手に中央駅が見える。

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ミラノに着いて初めて一日中太陽が輝き、青空が広がった。徒歩とトラムで夕方まで市内を歩いた。

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中央駅左側のトラムのターミナル。夜空には三日月も見えた。



篠 利幸

1977年初渡欧、画家としてしばらく活動後、イタリアの写真を撮り始める。書籍、雑誌等で写真と文筆の両面で活動、「田園のイタリアへ!アグリトゥリズモの旅」(NTT出版)、「トスカーナの青い空」(東京書籍)など著書多数。 新ブログスタートしました→http://blogs.yahoo.co.jp/fotombra

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