2005年12月31日

アグリツーリズム 「サンタ・ヴィットリア」

 イタリアでもトップランクのオリーブオイルを生産するSanta Vittoria(サンタ・ヴィットリア)農園はアレッツォから南へ25KmほどのところにあるFoiano della Chianaにあります。オーナーは弁護士で仕事というよりも趣味みたいに楽しんでいるので、量よりも質と徹底しています。その甲斐合って毎年SOLなどいろいろなコンテストで賞をとっています。
オリーブのほかにワインも造っていますが、このワインも素晴らしいものばかりです。一昨年のヴィニタリー(毎年、ヴェローナで開催されるイタリアワインの博覧会)ではシチリア原産のネロ・ダヴォラを使って原産地顔負けのワインを作っていました。近年の地球温暖化でイギリスでも賞を取るようなおいしいワインが作られているそうですから、トスカーナでシチリア原産の葡萄が作られてもおかしくはありませんね。
 サンタ・ヴィットリアのアグリトゥリズモはキッチン付きの家を貸しているだけでレストラン設備などはありません。もちろん、自慢のオリーブオイルやワインは買えますから、のんびりとトスカーナの優雅な休日をエンジョイしたい方にはお薦めの宿です。それぞれ部屋によって壁の色彩やデザインが異なっていて、オーナーの一人娘マルタさんが運営を任されていますが、マルタさんのお母さんは趣味とは言えないほどの腕前の画家で、彼女が描いた絵が壁面や家具を彩っています。
 1泊の料金は4室あってベッド数によって70ユーロから135ユーロ、1週間単位なら400ユーロから900ユーロ前後で利用できます。フィレンツェに住んでいる日本人のパートナーがいるオーナーの友人が予約の代行をしてくれますので、問い合わせなども日本語で大丈夫です。
e-mail:italiabussan@libero.it(Andrea Battaglini)。直接コンタクトを取りたい方はhttp://www.fattoriasantavittoria.comサイトを見てください。

イタリアでもトップランクのオリーブオイル。オリーブオイルの品質の高さを示す目安となる総合酸度が0.10%以下という驚異的な数字です。殺虫剤など農薬を使用しないオリーブ園は標高300mの丘陵にあり、11月までに収穫され、48時間以内に搾油されます。非常に繊細でエレガントな味わいながら1,2年を経過しても風味が変わらないのは酸度が低いからこその高品質だからです。


サンタ・ヴィットリアのオリーブ。葡萄はあるていど寒さに強いが、オリーブの栄養源はとにかく太陽。1985年にトスカーナを襲った寒波でほぼ全滅した木を新たに植林し、現在は2400本が栽培されている。

サンタ・ヴィットリアが生産するワインの代表的存在、グレケット種で作られる白ワイン。その他の白ワインにはトレッビアーノ、マルヴァジアがあります。赤ワインにはサンジョヴェーゼ種、カベルネ・ソーヴィニョン種、メルロ種、ネロ・ダヴォラ種を使用した赤ワインがあり、いずれも秀逸です。

2005年12月28日

歴史とみどころ ~バッサーノ・デル・グラッパ~

 世界一の生産量を誇るワイン王国であるイタリア、そのワインを造るために果汁を搾り取った後の葡萄の皮、いわゆる絞り粕を発酵させ蒸留するとグラッパが出来ます。バッサーノは正式名称をバッサーノ・デル・グラッパと言いますが、そのグラッパの生産地としても名高いヴェネト州にある町です。アルプスから水を集めアドリア海のヴェネツィア近郊の町、キオッジャに河口があるブレンタ川がバッサーノの町の真中を流れています。その川の上にはルネサンス時代の天才建築家、アンドレア・パッラーディオが設計した屋根のついた木造の橋、アルピーニ橋が架かっています。また、その橋のたもとには地元の老舗のグラッパ蒸留会社、ナルディーニが運営するバールがあります。
 バッサーノ・デル・グラッパはグラッパだけでなく陶器の町としても知られ、ストゥルム館には紀元前から現代までのさまざまな陶器が展示されています。また、市立美術館には地元出身のヤコポ・デル・バッサーノや優美なヴィーナス像で知られる18世紀の彫刻家、カノーヴァの作品などが観賞できます。アルピーニ橋は最初1569年に建造されましたが、その後は戦災などで4度も再建されています。屋根のある橋と言えば、映画にもなったアメリカの小説「マディソン郡の橋」を思い出しますが、この橋はその元祖ですね。橋は車も通れる幅があり、人々はこの橋で待ち合わせをしたり、川を眺めながらパニーニを食べたり、ちょっとした広場のような役目もあります。橋からは正面にグラッパ山が見えます。


アルピーニ橋のたもとにあるバルトロ・ナルディーニのバール。ブレンタ川に面した壁面にはナポレオン戦争時代の弾痕が生々しく残っている。ヘミングウェイもしばしばこのバールを訪れグラッパを味わったそうだが、彼の小説「川を渡って木立の中へ」にもこのバールは登場する。


ワインのための果汁が絞られた葡萄の皮の山。すでに発酵しはじめて発熱し湯気がたっている。アランビックと呼ばれる蒸留器の源はアラビア人が発明したもので、イタリアには中世に錬金術師がその製法を伝えた。蒸留器で生まれたばかりのグラッパのアルコール度数は80度以上。それを精製水で50度前後に割る。


ナルディーニのグラッパは中世以来の名前「アックア・ヴィーテ」がラベルに印刷されている。初代のバルトロ・ナルディーニによって1779年に創業した。ルタやチェードロなど薬草や果物を漬け込んだものもある。そもそもは薬草酒を作るためのアルコールでもあったのだ。

2005年12月26日

ワインと食 「イタリアワインのコルク」

 ワインを保存する容器と言えば、ガラス瓶ですが、このガラス製の容器が使われ始めたのは15世紀前後。ガラスの製法は10世紀頃からヴェネツィア人がシリアなどから職人を連れてきて、当時は秘法として独占化して製造していましたが、15世紀ごろになるとフランスやドイツ、オランダにも知られていきます。それまで陶器製の容器に入れられたワインもガラス製容器が使われるようになりましたが、当時はまだ壊れ易く、今でも時折見るキャンティのフィアスコ瓶のように藁で編んだ網に入れたりして保護していました。16世紀から17世紀頃にガラス瓶が普及し始めると、その栓としてコルク製の栓が使われるようになりましたが、コルクの栓はすでにローマ時代には使われていたそうです。

 コルクはコルク樫という木の表皮から作られますが、この表皮は樹齢が15年から20年ほどのものでないと十分な厚みになりません。また、最初の1,2回に向いた表皮は固く、コルク栓にはむかないので、建築資材などに使われたりします。コルクの表皮が再生するまでには10年から15年は必要です。今日、コルクの生産地としてはポルトガル、スペイン、イタリアのサルデーニャのほか、北アフリカのチュニジアなどが知られていますが、急速なワイン・ブームの影響で需要が高まり、生産が追いつかないほどです。そこで近年はシリコンなどの合成樹脂製のものが登場したり、お酒やウィスキーのキャップのようなスクリュータイプのものが使われ始めていますが、できれば天然コルクの方が、ワインを飲むときの儀式としてもよいのではないかと思います。

 ただ、近年の乱獲でコルクの質が低下し、本来は建築資材程度しか使われないようなものまでワインのコルク栓として使われるので、せっかくのワインを台無しにする問題も少なくありません。一番多い問題はカビ臭で、これはコルク樫が育っている土地の土の中に生息するカビなどの影響が大きいです。そこで地面に近い部分は建築資材などに、そして地面から少なくとも1m以上高い部分のものをワインやオリーブオイルなど食品のコルク栓として使うとリスクはかなり少なくなります。この写真はシチリアのスーゲリ・ブーア(Sugheri Bua)というコルク栓製造会社を取材した時に撮影したものですが、世界的に有名なバルバレスコの生産者であるアンジェロ・ガイヤでさえもシチリア産のコルク栓を知りませんでした。この会社を知ったのはヴェローナで毎年開催されるイタリアワインの博覧会場で出会ったモンテ・オリンポというワイナリーのワインが使っているコルクがとても素晴らしいものだったので、そのワイナリーのオーナーを訪ねたときにブーア一家とも出会いました。



収穫したコルク樫の表皮は2年から3年、天日干しされる。

天日干しされたコルクを沸騰したお湯の中で2時間ほど煮沸し、雑菌やアクなどを取り除きます。その後、柔らかくなったコルクを積み重ね2トンの重石を載せて、3日間をかけて水分を搾ると同時に湾曲を修正します。平らな板状になった表皮を適度な大きさにカットしてから栓の形に切り抜きます。


カットされたコルク表皮から切り抜かれたコルク。未使用の状態では直径が26mm前後あり、それを機械で瞬時に縮めてボトルに詰めます。コルクには漂白したものと、してないナチュラルのもの、コルク製造時に穴が多いものは粉砕され合成樹脂で固められて再生されたものなどがありますが、ナチュラルで長いものほど高級品です。ワインの品質を保つ重要なものなので、ワイン生産者は出来る限り高品質のコルクを使用するべきですね。

2005年12月23日

歴史とみどころ ~イタリアのクリスマス~


 12月25日はクリスマス。カトリックの総本山、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の広場には巨大なプレゼーピオともみの木が飾られ、街のかしこにクリスマス飾りが施されます。プレゼーピオはキリスト生誕の場面などを人形などで再現したもので、家庭の中にも飾ったりします。そして新年の1月6日のエピファニア(救世主の御公現)の日まで飾ります。クリスマスの日には、東方から来た3人の博士がそれぞれ贈り物を持参したという言い伝えにちなんで、家族はそれぞれプレゼントを贈り合うのですが、それを開けるのはこのエピファニアの日で、それまでは飾りつけたツリーの下に並べておきます。
 近年のイタリアのクリスマスにはサンタ・クロースが当たり前のように登場しますが、伝統的にはベファーナと呼ばれる魔女がやってきて、良い子にはプレゼントを悪い子には炭を贈るという風習がありました。絵本に出てくる箒を持った魔法使いのおばあさんみたいな格好をしています。ローマのナヴォナ広場などにはクリスマス飾りなどを売る屋台が並びますがベファーナの人形も売っています。また、山から炭焼き人たちが、下りてきて笛を吹きながら門付けをして歩いたりします。
ところで、イエス・キリストは実は12月25日生まれではないって、ご存知ですか?正確にはいつだか分っていなくて、紀元4世紀のユリウス一世が当時のローマ暦の冬至をキリスト生誕の日、イタリアでは誕生を意味するNatale(ナターレ)といいますが、冬至の日は農耕の神様、サトゥルヌスと祭りであり、また太陽が生まれた日とも言われているので、ユリウス一世はその民衆の古い信仰をキリスト教の重要な記念日として利用したわけです。
 イタリアではイブの24日からエピファニアまでクリスマス休暇になるようです。クリスマスは家族で祝うのが慣わしで、日本のようにあちこちのレストランでクリスマス・ディナーを楽しんでパーティということはないし、元日は店もどこも休みになるのでこの間にイタリア旅行する方は寂しい思いをしないように覚悟したほうがいいですね。

サン・ピエトロ大聖堂の広場に飾られたプレゼーピオ



ローマの街のクリスマス飾り。人々はクリスマス・プレゼントやディナーのための買い物に繰り出し、知り合いと出会い分かれるときにはブオン・ナターレ、よいクリスマスを!と挨拶をかわします。ディナーには七面鳥やカピトーネという大鰻のぶつ切りのから揚げを食べたりします。また、パネトーネというドライフルーツなどが入ったパンをスプマンテで食べたりします。僕もミラノの空港でTre Marie(3人のマリア)というブランドのパネトーネを買いました。11.5ユーロでしたがこれが日本に入ると4千円前後にはなるのでしょうね。



この写真はエミリア・ロマーニャ州の小さな教会で撮ったもので、クリスマスの時のものではありませんが、12月24日の夜はバチカンのサン・ピエトロ大聖堂などイタリア中の教会でこのようなミサが行われます。普段、あまり熱心な信者ではなくても、この日ばかりは教会に行く人も少なくありません。

2005年12月21日

居酒屋 「ベンティゴーディ」


 ユダヤ人の居留地をゲットーと言うのはご存知ですよね。その語源がヴェネツィアに発しているのです。ヴェネツィアの鉄道の駅に近いカンナレージョ地区にゲットーがあるのですが、かつてはここに鋳物の鋳造工場がありました。ヴェネツィアは密集した町ですから火災が一番恐いので火を使う工場はみんな町の外れの海沿いにありましたが、イタリア語で鋳造することをジェッターレ(Gettare)と言いますが、この鋳造工場のあったところに16世紀初頭からユダヤ人たちが強制的に住まわされることになったのです。
 その歴史などはまた別のところでお話しますが、このゲットーの入り口付近に「ベンティゴーディ」という名前の居酒屋があります。現在は今のオーナーの名前をとって、「ダ・アンドレア」という名前も看板の下に書かれていますが、昔からベンティゴーディという名前で親しまれていました。この名前はユダヤ人の名前ですから、この店がもともとはユダヤ人が経営していたわけです。ヴェネツィアでは居酒屋の名前にも町の歴史が刻まれています。
 今のオーナーのアンドレアはとても料理の評判がよく、この店は奥さんに任されて、数年前からアンドレアはリアルトの市場があるサン・ジャコモ広場に「バンコジーロ」という店を出しました。こちらもすぐに人気になるほど料理が美味しい店です。


ヴェネツィアのゲットーの中にはシナゴーグと呼ばれるユダヤ教会があったり、みやげ物店にはユダヤ教に関する宗教的な飾り物なども売っています。絵葉書などにはヘブライ語で説明が書かれたものもあります。また、広場の一角には第二次世界大戦の時にアウシュビッツで虐殺された同胞を追悼しこの悲劇を忘れないようにと収容所へ運ばれるユダヤ人たちの姿を描いたレリーフが飾られたりしています。暗い過去の歴史を振り返ると重苦しい気持ちになるのですが、ゲットーの広場には光が溢れ、毎日、観光客が訪れています。ヴェネツィアに行ったときにはぜひ訪れてみてください。

2005年12月19日

歴史とみどころ ~ミラノのナヴィリオ運河~


イタリアでファッションをモーダといいますが、ミラノはイタリア・モーダの代名詞でもあります。パリ・コレを手本に誕生したミラ・コレですが今や世界のファッション界の双璧をなしています。そのお洒落な町ミラノで僕が最も好きな界隈がここナヴィリオです。かのレオナルド・ダ・ヴィンチがミラノに呼ばれ、城壁やドゥオーモの建設にも天才的な知恵を発揮しましたが、この運河もそのひとつでダ・ヴィンチが設計したものです。このナヴィリオ・グランデと呼ばれる運河はアッビアーテグラッソという町まで続き、そこから建設用の石材の運送に使われていました。もうひとつの運河は修道院のあるパヴィアに繋がっています。ダ・ヴィンチはフィレンツェでメディチに雇われていた頃、マキャベッリと共同でアルノ川を利用して下流にあるピサを水攻めにする軍略を試みたことがあります。それは実現には至りませんでしたが、その時の研究がミラノで活かされたのです。一昔前のナヴィリオには画家など芸術家が好んで住んでいましたが、最近はレストランやピッツェリア、洒落たワイン・バーなどが増えて、一段と賑やかな雰囲気になっています。また、日曜日には骨董市なども運河沿いに立ちます。ナヴィリオを訪れるとしたら、夕食をこのあたりのレストランに予約して日が落ちる少し前の夕暮れの散策を楽しんではいかがでしょう。古きよき時代のミラノのもうひとつの顔を味わえるでしょう。

ミラノにはトラムと」呼ばれる路面電車が走っています。ナヴィリオ運河のあたりにも線路が縦横に敷かれ、夜の街燈に照らされて光っています。僕が生まれたのは東京の下町、飛鳥山公園の近くですが、そこには今も都電の荒川線が唯一残されて走っています。少年時代からそんな風景に親しんできたので、イタリアのローマやミラノで路面電車を見ると懐かしさが沸いてきます。東京は自動車が優先されいつのまにか消えてしまいましたが、ミラノでは車とトラムが今でも共存しているのです。

2005年12月16日

居酒屋 「アッラ・ボッテ」

 ヴェネツィアのリアルト橋をサン・マルコ側に降りてくると、サン・バルトロメオ広場に出ます。向かって左手の路地を入って行くと角にこの居酒屋「アッラ・ボッテ」〔ボッテは大樽という意味)があります。入り口はとても小さいのですが、入ると正面に大きな樽を伏せたような円形のカウンターがあって、ここの名物にもなってる、大人の太ももほどの大きさのボロニェーゼ・ハムが載ってます。右の奥にはテーブル席が並んでいて、間口の狭さからは想像の出来ない広さにちょっとびっくりするでしょう。ヴェネツィアにはこのように間口が狭いのに入ると意外に広かったり、部屋がいくつもある店が多いのです。
 ここは毎晩、ワインというよりもビールを飲む若者たちで溢れるほどですが、若者たちにとっては1杯のワインよりビールの方が量があって安いと思われているからでしょう。1杯のビールで1時間以上おしゃべりをしたりしています。夏などは中に入りきれず、外にまでグラスやジョッキーをもった若者たちが溢れ出ていることもあります。

夜には若者たちで賑わう「アッラ・ボッテ」ですが、朝は現役から引退した男たちの世界です。イタリアの人たちはお洒落ですが、ことにヴェネツィアの男たちは昔からシニョーリ、紳士と言われていた伝統があり、ちょっと居酒屋にワインを一杯飲みに出るときにも、ネクタイに帽子、冬なら上等なコートを着て出かけます。そして、旧友たちとのおしゃべりを楽しむのです。

2005年12月14日

ワインと食 「イタリアのワイン樽造り」

 イタリアワインは今はフランスに勝るとも劣らない品質と地位を確立したと言えますが、そのワイン造りにかかせないもののひとつに木樽があります。収穫して潰した葡萄を醗酵させるにはセメントのタンクやステンレスのタンク、ガラスと樹脂を合わせたもの、そしてオークや栗の木を使った樽が使用されます。大きな樽は伝統的にスロベニア産のオークがもっとも使われてきました。そして30年ほど前にフランスでよく使われていたバリックという225リットル容量のオークの樽が流行し始めると、どこの造り手もこれを使うようになり、一頃は樽を飲んでいるのか、葡萄を飲んでいるのか分らなくなるほど樽の香りを効かせたものが横行しました。いまだにその香りをワインの香りだと勘違いしている人が多くいますが、ワインは葡萄の香りが第一です。しかし、適度に上質のオークの樽を使用すると、それはまた葡萄の持っている香りや味わいにより広がりと深みを与えることは確かです。要は、「吾足るを知る」転じて「ワイン樽を知る」、そして樽の使い方は過剰にならずに「足る」を知るべしでしょう。この写真はピエモンテで有名な樽造りのGambaという会社で取材したものです。


木樽は形が仕上がると内面を焼いて、表面の雑菌を殺すとともに、焦がすことによって浮き上がってくる木の油性分を引き出したりして、香りの調整をします。この写真はちょうどバリックを焼いているところですが、コークスが燃えている火鉢のような物を真中に置いて、外枠が出来上がった樽を被せて強火の遠火で焦がすのです。樽の焼き加減はそれぞれのワイナリーから指定があるようですが、概ね30分前後で、ステーキのようにミディアム・ローストだそうです。

2005年12月12日

居酒屋「アイ・プロメッシ・スポージ」


 19世紀の著名なイタリアの作家アレッサンドロ・マンゾーニの長編小説「いいなずけ」という名作がありました。イタリア語では"I promessi sposi"、そしてのこのヴェネツィアの居酒屋の名前はこの小説の題名をヒントにしたというのですが、ちょうどこの店をふたりの共同経営者の若者が始めた頃、どちらも「いいなずけ」の彼女ができたばかりで、この小説の名前もヒントになって生まれたそうです。店の壁には輪になったロープが掛かっています。そして、その下にはヴェネツィア方言で、El xe per i disperai...ghe lo demo gratis sora al vin, ma fin'ora non lo g'ha mai usa nisun. Co i vien qua dentro ghe pasa tutte le malinconie"と書いてあります。簡単に訳せば「絶望せしものたちよ。ここに来たならばもうこんなロープは必要ないさ。ここでワインを楽しめばいっさいの憂いも消えてなくなる」。
 ヴェネツィアは路地の町です。バーカロの多くはそんな路地の奥にあって、この店もまた入り組んだ路地にあり、この町に慣れていないとなかなか出会えないかもしれません。でも、一度来たら、ヴェネツィアに訪れるたびに何度も来たくなるでしょう。一杯のワインのために。なぜなら、それは人生のどんな憂さも晴らしてくれるから。

Ai Promessi Sposi : Calle dell'Oca n.4367 Cannaregio



 アイ・プロメッシ・スポージに行き始めて10年余りになるが、この間に僕が知っているだけでも店長が4回変わってます。初めの写真のカップルは店の名前にもふさわしい感じでよかったのですが、そう長くはいませんでした。彼らは店の名前のとおりに「いいなずけ」だったのですが。今はこのお腹の大きなマルコがやっていますが、彼がオーナーなのです。昔は彼がこの店をやっていて、他にも店を出したり忙しくなったので人に任せたが結局自分が戻ってきたそうです。
 しかし、昔ながらの店の常連にとってはマルコが戻ってきたのを喜んでいるようで、連日、午前中から賑わっています。それもけっこうなお年のおじいちゃんやおばあちゃんたちが、昔馴染みとワインを飲みながら、すでに酔っ払っているおじいちゃんもいます。そして、「長生きはするもんだなぁ、こんなに楽しいのだから。ここに来ればいつだって青春さぁ」とゴキゲンです。ヴェネツィアの路地にはいつも変わらぬ昔が生きていますね。

2005年12月09日

猫のいる風景 その3

  
 このいかにもエレガントな姿態の白猫ちゃんがいる丘はイタリアのワインの中でも最も高貴なワイン、バローロの里のひとつセッラッルンガです。アルバの町からバローロやセッラルンガ、ラ・モッラ、ドリアーニなどのワインの名産地やチーズで有名なムラッツァーノなどワイン通やグルメなら思わず目を細める地名が居並ぶこの地方をランゲといいます。沢山の丘と谷が織り成す美しい地形は氷河期に形成され、ワインや高価な白トリュフ(イタリア語ではタルトゥーフォ)の名産地となりました。きっとこの猫もそんな大地で育ったのでこんなに真っ白で優雅になったのですね。

2005年12月07日

猫のいる風景 その2

 南イタリアのアドリア海側にあるプーリア州には壁面をしっくいで真っ白に塗られた家々がの町が多く点在します。オストゥーニ、ファサーノ、マルティーナ・フランカ、ロコロトンド、そしてとんがり帽子のような屋根の家で有名なアルベロベッロなど一度はぜひ行ってみたいところです。この猫たちはそんなメルヘンチックな町のひとつ、オストゥーニに暮らしています。紀元前からギリシア人が移住したり、2万4千年前に北方から人類の祖先が住んだ遺跡なども発掘されています。石灰質の大地には大きな洞穴も多く、そこにビザンチン時代の修道士が隠遁した痕跡として聖人の壁画が残されていたりします。そしてまたプーリア州はイタリアで最も多くオリーブのオイルを生産する農産王国でもあります。

2005年12月05日

猫のいる風景 その1

  

 イタリアの猫さまに道案内を頼んで歩く「歴史と見どころ」第2段、今日はまずリグーリアにある避暑地、チンクエテッレのひとつであるリオマジョーレから始まります。ユネスコの世界遺産にも登録されているチンクエテッレをご存知の方も多いかと思います。チンクエテッレはひとつの町の名前ではなく直訳すれば「5つの大地」という意味です。この名前を知っている方でもその5つの村の名前をガイドブックを見ないで全部挙げられる方はかなりのイタリア通か旅のベテランと言えるでしょう。チンクエテッレはジェノヴァから地中海沿岸を南下していくと、まずモンテロッソ・アル・マーレ、そしてヴェルナッツァ、コルニリア、マナローラ、リオマジョーレと続く五つの村とその一帯をさします。ブーツのように細長いイタリア半島を南部、中部、北部と3つに分けるとチンクエッテッレのあるリグーリア地方は北部に入ってしまうのですが、地中海に面した温暖な土地ですから、どちらかと言えば南イタリアのようなイメージがあります。しかし、それは夏のバカンスのシーズンだけでしょうね。どの漁村も19世紀の終わりに鉄道が通るまで船だけが交通手段で、自動車でそれぞれの村に行くことが出来るようになったのも20世紀に入ってだいぶ経ってからでした。まあ、そういう辺鄙なところだからこそ美しい自然と素朴な漁村の生活や文化が生き残れたわけです。
 モンテロッソの教会にはイタリアの偉大な詩人、モンターレが眠っていますし、トスカーナのサンジミニャーノの銘酒、ヴェルナッチャ・ディ・サンジミニャーノの葡萄は11世紀頃にサルデーニャのヴェルメンティーノ種がヴェルナッツァに入りそこからサンジミニャーノに着いたのでヴェルナッツァが訛ってヴェルナッチャと呼ばれるようになったという説があります。ワインと言えば、チンクエテッレを代表するデザート・ワイン、シャケットラがあります。また、丘の上にあるコルニリアではローマ時代にはすでに優秀なワインが造られポンペイにも輸出されていた記録があります。東リヴィエラとも呼ばれるこの海岸線には夏になるとイタリアの内外から避暑客がおしよせヴァカンスを楽しみます。1週間から2週間くらい長期に滞在して、こうして海岸にテーブルを置き、のんびりとカード遊びを楽しむなど、時間をゆったりと使うのが欧米流です。旅先ではどちらかというと買い物や食べ物ばかりに時間を費やす日本人もぜひ見習いたい”ほんとうの優雅さ”ですね。

2005年12月03日

歴史とみどころ ~ヴィジェーヴァノ~


 イタリアの旅の面白さはどんな小さな町や村に行っても何かしら歴史的な発見があることです。大地震で壊滅しないかぎり、イタリアには数百年、数千年の歴史を綿々と今に伝えるところが少なくありません。例えば、この町、ヴィジェーヴァノはミラノから車で30分ほどで行ける人口が6万人ほど町ですが、イタリアではこのドゥカーレ広場の美しさでよく知られているところです。ヴェジェーヴァノは13世紀にルキーノ・ヴィスコンティ公が城を建設し始めた頃から16世紀のルネサンス時代にもっとも栄えました。ドゥカーレ広場は1494年に完成しましたが、アーケードのある建物に囲まれ、ルネサンス期の調和と統一を求め絵画的な美しいデザインです。
 この広場に面して建てられているドゥオーモは16世紀に再建されたのですが、その時にバロック調のファサードが凹面に作られた珍しいデザインです。このドゥオーモの中にはマクリーノ・ダルバやベルナルド・フェッラーリなど当時の著名な画家の作品や、フィレンツェのヴェンベヌート・チェッリーニ工房で制作された金と銀の記念碑などがあります。またこの広場の外側にある城は15世紀末にミラノ公であるルドヴィーコ・スフォルツァがフィレンツェの大聖堂のドームを設計した名工ブラマンテに依頼して再建したものです。このような小さな町を訪ねても、当時のミラノの宮廷文化がレオナルド・ダ・ヴィンチやブラマンテなどの巨匠たちを招くほどの力があったことを知ることが出来るのです。


















ヴィジェーヴァノのドゥカーレ広場を囲む建物の壁面には美しい装飾画が描かれ、洒落たカッフェなどが入っている。

2005年12月01日

歴史とみどころ ~フィレンツェのヴェッキオ橋~

 イタリア観光で最も人気が高い都市はフィレンツェでしょう。かのメディチ家が擁護した芸術家や文人のお陰で今ではルネサンス美術の宝庫として世界各国から観光客を集めています。人口40万人ほどの町を訪れる年間の観光客はその5倍くらいになるのではないでしょうか。町のランドマーク、シンボル的な存在の建造物としては[花の大聖堂]として知られる、サンタ・マリア・デル・フィオーレ、そしてフィレンツェの行政の中枢であるヴェッキオ宮殿やウッフッツィ美術ピッティ宮殿などがありますが、一番親しみやすいのはこのアルノ川に架かるヴェッキオ橋でしょう。
 この橋はフィレンツェの人たちも待ち合わせの場所にしたりします。かの、ダンテもベアトリーチェとこの橋のたもとで出会ったという伝説もあります。橋の中央には胸像があり、東京で言えば渋谷のハチ公同様に待ち合わせに丁度良いところです。この胸像はベンヴェヌート・チェッリーニという人物で、16世紀、フィレンツェで最も著名な金細工士でした。
この胸像が出来たのは1900年ですが、チェッリー二の時代、この橋には肉屋やなめし皮業などがあって、悪臭を放つゴミを川へ投げ捨てていました。1593年にトスカーナ大公のフェルディナンド1世がそれらを一掃し、代わりに金細工屋を置きました。それ以来橋の上にはたくさんの貴金属店が軒を並べています。
 晩秋のフィレンツェは雨が多く、煌びやかなイメージのフィレンツェの町も冬はちょっと重苦しい感じになります。しかし、ウッフィツィ美術館や大聖堂などを訪れゆっくりと美術鑑賞を楽しめるのは、観光客が少ないこの季節かもしれません。町には焼き栗の香ばしい香りが漂い、クリスマスも近づいて、空は曇っていても人びとの心の中は温かそうです。


篠 利幸

1977年初渡欧、画家としてしばらく活動後、イタリアの写真を撮り始める。書籍、雑誌等で写真と文筆の両面で活動、「田園のイタリアへ!アグリトゥリズモの旅」(NTT出版)、「トスカーナの青い空」(東京書籍)など著書多数。 2004年11月、ヴェネツィアで写真展(www.toshi-shino.com)を開催した。

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