ヴェネツィアの印刷職人、ジャンニ・バッソ


ドイツのマインツで生まれたグーテンベルグが15世紀の中頃に活版印刷技術を発明すると、まもなくヴェネツィアが印刷と出版の中心地となりました。そこでは今日、出版業の祖と言われるようになったアルド・マヌーツィオが活躍していました。当時のヴェネツィアの民主的な政策は言論においても自由な気風があり、ローマ法王庁の検閲もあまり効力を持たなかったからです。

絵葉書やカードといっしょに貴重なアンティークの版木が壁一面に飾られています。棚の上には古いワインのボトルまで。お好みはピエモンテのバルバレスコのようです。

アルド・マヌーツィオが印刷工房と出版社を持っていた建物が今でも、サン・アゴスティン広場に残っています。当時のマヌーツィオの出版業は知識階級の富裕な貴族がスポンサーとなって注文された本を印刷し、スポンサーには必要数だけを納めれば、あとはマヌーツィオが何部刷って売ってもよいシステムでした。最初はギリシア哲学や宗教関連の書物が主体で、本がとても貴重な存在だった頃でしたから、スポンサーも贈答用に作ったものでした。マヌーツィオは徐々に小説や庶民でも受け入れられる料理本なども出版しました。マヌーツィオの本が売れた理由は本の内容の他に、それまでになかった持ち運べるサイズで作ったことも功を奏しています。そのために活字の発明、そして今日でも通用している”イタリック体”などが誕生しました。
ヴェネツィア本当とリド島の間にサン・ラザロという小さな島があります。18世紀の初頭からそこにはトルコでの迫害を逃れてきたアルメニア人の修道院が設立されました。彼らはそこに印刷所を創設し宗教書や学術書を印刷していました。その印刷所は20世紀まで続いていましたが、ヴェネツィア本島にはそこで少年時代から修行をしていたジャンニ・バッソが昔ながらの活版印刷の小さな工房を続けています。

僕がジャンニと出会ったのは1987年の夏で、友人とガラスの島、ムラノやレース網と漁師の島、ブラノに行こうとして、船着場へ向かっている時でした。細い路地を歩いていると窓にアンティークな雰囲気のイラストが描かれた名刺が並んでいました。中からは印刷機の音がガチャコン、ガチャコンと聞え、覗き込むとジャンニが笑顔で、どうぞ入ってと言ってくれたのです。印刷インクの匂いが立ちこめる工房に入ると、壁中にエエッチングの絵画や印刷見本の名刺、蔵書票などが並び、食い入るようにそれらを見つめていました。

ヴェネツィアの風景絵画をモチーフにしたエッチングの原版。

蔵書票などに使われる伝統的な絵柄の原版。

精緻な描写のエッチング作品。

これは”Ex Libris”、蔵書票です。

ジャンニがサン・ラザロで働いていたのは1969年、彼が15歳の時から今の工房を開くまでの15年間、30歳の時までです。工房には1800年代に作られた印刷機が2台、3台、所狭しと並んでいます。壊れたら修理も自分でやる。現代的なものはアンティークなラジオから流れる音楽やニュースだけ。頑固に活版印刷の技術を守りつづけています。名刺も一枚づつ手で刷ります。そんな彼の姿勢から生まれた名刺にはいつのまにか世界中にファンが生まれ今では日本人の注文も少なくありません。
100年以上も昔の印刷機。

小さな名刺の紙を一枚づつ手で置いて刷っている。

路地の名前が工房の壁の上に書いてある。

今では貴重な歴史的遺産となった古い印刷原版を見せながら、これが僕の宝物だよといいます。そして僕のデジタルカメラを指差しながら、「ここにはデジタルなものはひとつもない。携帯電話も持たない。毎日、毎日僕は同じことを続ける。でも、毎日が違って感じるし、新しく感じる。この仕事をやってけるのは幸せだね。」と語りました。スタンパトーレ、ジャンニ・バッソ、彼のところでは、会うたびにいつも日本では忘れかけてしまうような気持ちを思い出すことができます。
自分の生き方に自信を感じる顔。

木彫りのグーテンベルグの肖像の前に立つと嬉しそうな笑顔になった。





















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コメント (4)

vinoeformaggio:

篠さん、
すごい!すごいですね!
私、ヴェネツィアに行ったら、ここで古い印刷機を見てみたい!!
そして、ジャンにさんが一枚一枚手で刷っている作業を、その音を、匂いを感じてみたい!!!

いつか生まれ変わるとしたら、イタリアで何かの職人でありたいなぁ~。

http://ameblo.jp/vinoeformaggio/

旅人しのちゃん:

Vinoeformaggioさん、いいでしょ?彼の行き方。これがほんとの”オヤジ”の見せる姿勢ですよね。昔は、うちの父もそうだったし、回りにはいっぱいいました。職人のスピリットを持っている人。
いや、イタリアにはカメリエーレだって、バリスタだって職人魂みたいなのがありましたね。日本ではどうせアルバイトみたいな、ダラダラしてのが多くて嫌ですが。僕も見習わないと、職人魂!
インクの匂い、いいですよ、時々、ワインにも感じるときがあります。嫌な成分じゃなくてね。熟成されたワインだと。だから、ジャンニの工房にも古いバローロとかならんでいるのかなぁ・・・

maki:

初めまして。
印刷の仕事をしているので「印刷職人」というアンティークっぽさを探してたどり着きました。
本当に素敵な写真です。
何だか自分の仕事がものすごく好きになりそうな、そんな気持ちにさせられました。ありがとうございました。

makiさん、手仕事、職人仕事はどれをとっても魅力的ですね。時代がどんどん自動化され、お金を得ることさえも、物を作り出すことをせず、ヴァーチャルな世界でのやりとりで済ませてしまう。その結果の世界混乱を見ると、余計に何が大切なのか、ここらでちゃんと軌道修正しないと、人間であることの意味がなくなってしまうかもしれませんね。
畑を耕し、農作物を得、海に出て魚介を得る。大工仕事で家を建て、焼き物は必要な数だけ土を使う。経済効率を優先すると、それらのバランスや仕組みまでが狂ってきます。
変わるべきものと、変わってはならないものがあるはずです。昔の活版で印刷された本などを手に取ると、温もりさえ感じますね。いいお仕事を続けてください。

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篠 利幸

1977年初渡欧、画家としてしばらく活動後、イタリアの写真を撮り始める。書籍、雑誌等で写真と文筆の両面で活動、「田園のイタリアへ!アグリトゥリズモの旅」(NTT出版)、「トスカーナの青い空」(東京書籍)など著書多数。 新ブログスタートしました→http://blogs.yahoo.co.jp/fotombra

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