トリノのシンボル的な建造物と言えば現在、映画博物館になっているモーレ・アントネッリアーナであることは、この街を一望できるポー川沿いのカップッチーニ山にある国立モンターニャ・ドゥーカ・デリ・アブルツィ博物館前の広場に立てば一目瞭然である。前回のパノラマもここから撮影している。ちなみにこの博物館はヨーロッパ各地から収集された山岳関連の文化的資料を展示している。
さて、このモーレ・アンテネッリアーナだが、設計をしたのはアレッサンドロ・アントネッリで1798年にピエモンテ州ゲンメに生まれた建築家である。ゲンメはワインの生産地としても知られ、ロヴェロッティという生産者を日本にも紹介したことがあるが、ネッビオーロ種から作られる赤ワインは秀逸で、日本でももっと飲まれるべきワインだ。アントネッリの設計したものには高さ121mの巨大な天井を持つノヴァーラのサン・ガウデンツィオ聖堂がある。ロヴェロッティを訪ねたおりにこの聖堂も見に行ったが、正面からはその巨大な聖堂の全貌を見ることが不可能な引きのない場所に建てられている。
モンテベッロ通りから見上げたラ・モーレ・アントネッリアーナ
モーレ・アントネッリアーナは高さ165.15mで1863年に建設が始まり設計者のアントネッリが他界した翌年の1889年に完成した。始めは1863年にユダヤ人コミュニティーからユダヤ教会(シナゴーグ)として設計を依頼された。ところが、アントネッリが設計を度々変更し、そのため工期が延びて資金が続かなくなり、プロジェクトはトリノ市に譲渡された。トリノ市はヴィットリオ・エマヌエーレ二世の記念堂とする予定で工事が続けられたが、その間にも設計は変更され塔の高さもその都度引き上げられた。結局、設計者のアントネッリは完成を見ずして他界してしまったのだが、完成後も豪雨と強風で1953年には丈夫の47mが崩落し、1961年に再建されたが当初はレンガと石造りだったのが現在見るような金属製のドームに変わったのだった。
展望台へ上がるエレベータから見える内部
映画博物館としては1958年9月にオープンしたがその後火災に寄り長く閉鎖され、2000年に再オープンした。この時、中央にあったエレベーターは四方が透けて見えるスケルトンタイプになり、1階にあるカフェや2階、3階の映画上映スペースや展示風景も見えてなかなか面白い。2006年に日本でも公開されたイタリア映画「トリノ、24時の恋人たち(原題:Dopo Mezzanotte 真夜中過ぎ)」の舞台にもなり、現在のトリノの一面を見せるなかなかよい映画であった。
展望台はデートの場所にも人気?
エレベーターで地上85mの高さにある展望台に昇ったパノラマは圧巻である。ポー川、ドーラ川に挟まれているので春から秋口にかけては川から昇る靄、冬は立ち込める霧に包まれることが多いトリノだが、快晴に恵まれれば眼下の街並みはもちろん、周囲を囲むアルプスの山脈まで360度の景色を満喫できる。
アルプスの山々と右から左へ王宮、マダマ宮殿、カリニャーノ宮殿が見える
西側の眼下には右から王宮庭園の緑が広がり、王宮の白亜の正面とその後方にドゥオーモとその鐘楼が見える。そのまま視線を左に移動させるとサン・ロレンツォ教会の八角型の屋根やマダマ宮殿の4本の円筒型の塔がある。人間の眼の遠近感にほぼ近い中望遠レンズの30度ほどの画角で撮影した写真では左端にカリニャーノ宮も少し見えている。そのカリニャーノ宮をズーム・アップして見ると、カルロ・アルベルト広場に面し19世に改築された白亜のファサード部分のようすがよく分かるだろう。
カリニャーノ宮殿の建物はサヴォイア家の分家であるカリニャーノ家の館で1679~1685年にかけてグアリーノ・グアリーニの設計により建てられた。白亜のバロック様式のファサードは1864年から1871年にかけてガエターノ・フェッリのプロジェクトにより完成された。1848年から1865年までイタリア統一の前後を通じて国会議事堂して使われたこともあった。
白亜のファサードが美しいカリニャーノ宮殿
視線をさらに左へ向けると長方形の中央に円形の屋根を持った置時計のような形をした建物が見える。これはトリノの中央駅、ポルタ・ヌオーヴァ駅でイタリアが統一された1861年からアレッサンドロ・マズッケッティの設計により建設が着工され1868年に完成した。一日に約20万人,年にすると7千万人が利用し、ローマ、ミラノの次ぐ大きな駅である。
真ん中の円形の屋根が目を引くポルタ・ヌオーヴァ駅
場所を移って東側の眺めを見ると右手の小高い丘の上にドームの屋根の聖堂が見える。1703年、トリノを攻めていたフランス軍をヴィットリオ・アメディオ二世が破り、その勝利を記念して建てられたスペルガ聖堂で、1731年、フィリッポ・ユヴァッラの設計による。以前ここを訪れた時に撮影した写真を前回の記事で掲載したが、標高670mからの眺望はトリノの全貌を見渡すことができる。しかし、その高さ故に起きた悲劇もあった。1949年5月4日、ACトリノのサッカーチームはポルトガルのリスボンで開催されたベンフィカとの親善試合から帰国するところだった。ところが当日は激しい雷雨に見舞われ視界が悪く、彼らを乗せた飛行機はスペルガ聖堂の壁面に激突し、チームと乗員を含め31名全員の命が奪われた。
サヴォイア家の陵墓にもなっているスペルガ聖堂
スペルガを往復する鉄道のサッシ駅
駅を出るとすぐ急斜面を登る線路が続く
サッシ駅にはレストランもある
スペルガ聖堂に行くには麓のモデナ広場にあるサッシ駅からケーブルカーを利用できる。1884年4月26日に開通した路線で標高650mのところまで約3kmの距離を20分くらいかけてゆっくりと登って行く。サイトで調べた料金は片道2ユーロ、土曜・祝日は3.5ユーロだそうだ。
トリノのドゥオーモ、サン・ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者ヨハネ)大聖堂
さて、モーレ・アントネッリアーナの展望台から地上に降りて、トリノでは必見のドゥオーモに行ってみる。このドゥオーモを世界的に有名にしたのは、「聖骸布」があるからである。聖骸布とは磔刑されたキリストの遺骸を包んだ布にキリストの姿が写っていると信じられている布で、それ以前の記録は不明だが1353年にはフランスのリレのシャルニー家が所有していたものを、1453年にサヴォイ家が所有し、1578年、サヴォイ家がシャンベリからトリノに首都を移す際に、このサン・ジョヴァンニ大聖堂に運んだ。1898年にはイタリア人写真家、セコンド・ピアが初めて写真撮影に成功した。その真贋についてはいろいろと言われているが、興味のある方はいくつか本も出ているので読んでみるのも一興だろう。ドゥオーモで土産品として売られている小さな布にはセコンド・ピアが撮影した写真を利用してキリストと思しき顔が印刷されていた。2010年にはこの聖骸布が一般公開される。
シンドーネ礼拝堂の聖骸布のレプリカ

土産の聖骸布のキリストの顔
ドゥオーモの前の9月20日通り(Via XX Settmbre)を渡った向かい側を見ると、両端が円筒型になったレンガ造りの建物がある。これはポルタ・パラティーナと呼ばれ、ローマ時代の城門で、その下の広場にはジュリアス・シーザーのブロンズ像が立っている。カステッロ広場にあるマダマ宮殿もかつてはこの門と同じようなローマ時代の城門であったものを中世から徐々に現在のような姿に増改築をしてきたのだ。
パラティーナ門
パラティーナ門に立つシーザー像
トリノの市内地図や俯瞰図を見ると道路が整然と直角に交差した碁盤の目のように造られているが、それはポンペイやエルコラーノなどの古代ローマ都市の構造からも想像できるように、まさにローマ人が基礎を築いた都市なのである。18世紀にユヴァッラが設計したスペルガ大聖堂や19世紀にアントネッリが設計したモーレやポー川の岸辺にフェルディナンド・ボンシニョーレが設計したグラン・マードレ・ディ・ディオ教会を見れば、それらがローマのパンテオンなどの神殿を手本にしているのがよく分かる。
トリノは一見、近代的な産業都市のようなイメージがあるが、実はその下には古代ローマから中世の地層が幾重にも積み重ねられた古の都なのである。

