2009年04月16日

蘇ったド・スパーデ

昨年、ヴェネツィアの居酒屋を訪ねて路地を散策するガイド・ブックを作った。たいへん好評で初版部数は残り1割程度だそうで、台湾でも翻訳され出版されることになった。この本には私の20年来の思いがあり、漸く日の目を見ることが出来たので、待ちに待ったという感慨がある。近年、ヴェネツィアでは新たな居酒屋が増えて、リアルトの市場付近の夜は見違えるほど賑やかになっている。拙著もこの流れに合致したものだと感じている。ただ、ひとつだけ心残りだったのが、ド・スパーデ(Do Spade)という店を収録できなかったことである。

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夕暮れの市場界隈のバーカロ

ド・スパーデはリアルトの魚市場前にあるベカリエ広場に面した居酒屋ダ・ピントの真裏にある。そのダ・ピントの向って右に写真店があり、その右脇の端をふたつ左周りに渡って行くと、ド・スパーデのソット・ポルテゴ(潜り抜け)があり、その昼も薄暗い小路にカンティーナ・ド・スパーデ(Cantina Do Spade)がある。ド・スパーデとは”二本の剣”という意味で、由来は中世にこの潜り抜けのところに架かる小橋の上でひとりのコルティジャーナ(宮廷娼婦)を奪い合って騎士が決闘したという逸話にもとずく。以来、この橋はド・スパーデの橋と呼ばれ、この居酒屋はその名前をとっている。ド・スパーデはヴェネツィアの有名な放蕩男、カサノバが女性を伴って通い、当時は宿になっていた二階に上がったというエピソードも伝えられている。途中、近くにある聖マッティオ教会のふたりの尼僧が油を売る店を開いていた時代もあったそうだが、1970年にジョルジョという男が受け継ぎカサノバの時代のような居酒屋を始めた。もっとも2階はなかったが。

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ド・スパーデの朝

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ド・スパーデの夜

ジョルジョはフランスで取得したソムリエの資格も持っていて、90年初め頃、バーカロの本を作りたいと思い始めた私にヴェネツィアで飲まれるワインのことなどいろいろと教えてくれたことがある。ワインについて話し出すと客が来ても止まらないほど熱心だった。最初は無愛想な男だと思ったのだが、通ううちにオンブラをご馳走になる仲になった。数年前、突然にジョルジョが店を止めてしまった。この商売に疲れたといい、リアルトのアーケードの角に奥さんと雑貨屋を始めた。色とりどりのスカーフやアクセサリー、土産物などを並べた店に立つジョルジョはどこか居心地が悪そうで、多くは語らなかったが、「ま、人生ってわけさ」と肩をすくめた表情が未だに記憶にある。詳しい事情は聞かなかったがとにかくジョルジョのド・スパーデは閉めたまま、この路地はいっそう暗く、寂しいものになってしまった。

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2000年のガイドブックで紹介した時の4代前のジョルジョ。

しばらくして、サン・ポロの方にあるオステリア・ヴィヴァルディに行くと馴染みのエミリオが現在のオーナー、ピノに変わっていた。エミリオはどうしたのかと聞くとド・スパーデをやっているという。それはまた良いことだと喜んで行くと、店はかつてのジョルジョの時以上に満員だった。朝の9時過ぎにオンブラ片手のおやじたちがワイワイやり、エミリオも持ち前の陽気さで古い常連にオンブラを振舞っていた。ところが、それも長く続かぬままエミリオはいなくなり、しばらく閉めたままのド・スパーデはかつての居酒屋から普通のリストランテに変身していた。だが、客で溢れているのを見たことがなかったし、私もここに足を向けることがなくなっていた。だから、昨年の本にも紹介しなかった。エミリオはド・スパーデを止めてしばらく準備期間を持った後に、ヴィヴァルディで右腕だったブルーノとカンピエッロ・レメールを開いた。これは拙著にも紹介したが、ヴェネツィアっ子の人気の店として連日賑っている。

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蘇ったド・スパーデ

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新しいオーナー、セバスチャーノ

今年の4月、ヴィニタリーに行ったついでにヴェネツィアに寄り、友人とプロセッコを飲みながら最近のヴェネツィア事情を話していると、なんとド・スパーデがまた変わって、昔のようなオステリアになったという。たった24時間しか滞在する暇がなかったが、親友のジョヴァンニがいるダ・ピントや一番お気に入りのアラルコにも寄らず、ド・スパーデに向った。なるほど、数メートル先から雰囲気が昔のようになっているのを感じた。

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ヤリイカのフリット

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鰯のから揚げ

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ひき肉のポルペッティ(肉団子)

かつてのように、店の扉を押して入ると、顔を見知っている男たちが何人かいてオンブラの立ち飲みをしている。厨房にかっぷくのよい男がせっせと料理を作っていて、友人から聞いていたように、「セバスチャーノ?」と尋ねるとすぐに笑顔で「そう、俺だよ」と返事が返ってきた。「ド・スパーデが帰ってきたね。やっぱりこの店はこうでなくっちゃ。昔の姿が蘇ったようだ。」というと、セバスチャーノは「むしろ、前よりも良くなったんじゃないか」と半分本気で笑う。確かに、ヤリイカのフリットや鰯のから揚げなど料理も上々で、またまたヴェネツィアに来る楽しみが増えた。諸行無常、会者定離。人は変わっても時を重ねて築いたものの良さは必ずや人々の記憶に残り、きっと蘇ることが出来るのだと思った。それが文化というものだろう。 ただ、ヴェネツィアの家賃はかなり高いものだそうで、それが原因で経営が続かない店も多いとか。外資の力で新しい店が生まれたりして、かつてのヴェネツィアらしさが失われつつあるのではないかと危惧がないでもない。バンコ・ジーロのアンドレアのように味のある人間がこの街を離れつつあるのも現実だからだ。もっとも世代交代はいずこも避けられないが・・・

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この路地の先に小さな橋がある。

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リアルトの夜

2008年07月15日

ヴェネツィア カフェ&バーカロで巡る、12の迷宮路地散歩


サン・ジョルジョ・マジョーレの鐘楼から

ヴェネツィアの楽しさはアドリア海の水が入り込む大小の運河と無数の小さな島々を結ぶ橋と細い路地の織り成す迷路を歩くことでしょう。その路地にはカーニバルの仮面を売る店やアンティークの小物や昔ながらの皮や織物、手漉き紙を使った手仕事の工房、香辛料店や古びた薬局と珈琲店があり、それらは中世以来のオリエント交易の時代から異国情緒を醸し出す役割を担ってきました。


ジャ・スキアーヴィ


(左)ヴェネツィア カフェ&バーカロでめぐる、12の迷宮路地散歩 (右)アッラルコのオーナー、フランコ

他の都市と違って、車が走れないこともこの都市を特異な存在となることの大きな要因で、それは住民にとっては時代の流れに乗れず極めて不自由な生活をがまんすることになるのですが、観光客にとっては本来の人間のスピードで24時間を過ごすことを思い出させてくれる貴重な空間であり、またヴェネツィア人にとっても本当は自慢すべき“時代遅れ”だということなのだと思います。


(左)アッラルコ (真ん中)アッラ・ヴェドヴァのフェーガト・アッラ・ヴェネツィアーナ (右)グレゴレットのマンゾーニ・ビアンコ


ゴンドラの装飾

不自由さと便利さ、観光客が溢れる町に住むことの煩わしさと常に異国の文化と接するスリリングな空間。その空間の間にあるのが居酒屋やバールでしょう。酒好きな人にとって、その液体は喜怒哀楽という相反するものの間に存在し、それらを自分という空間の中で巧く折り合いを付けさせてくれる救いの飲み物でもあります。また、酒が飲めなくとも、美味なるもの、美しきものがその役割を十分に果たしてくれるはずで、それらを発見するにことかかないのがヴェネツィアという都市です。


はじめて、イタリアを訪れた時、そのきっかけともなった友人がヴェネツィア人であったことから、この町はことさらに親しく感じたのですが、あれから30年余り通い続けてみると、ほとんど住んでいることと同じほどの心情でこの都市を見つめ、抱かれ、とうとう離れられない愛着を感じてしまうのです。それらの思いを、写真家として、文筆家として、さらに一介のワイン好きな旅人として、ここに生きる人々との交流を重ねた結果、ようやく一冊の本にまとめることが出来ました。


「ヴェネツィア カフェ&バーカロでめぐる、12の迷宮路地散歩」、7月18日にダイアモンド社から出版されますこの本は、ある意味、僕の人生の半分以上を関わって来た、ヴェネツィアに対するオマージュの何物でもありません。今では、この町の迷路のほとんどを空で覚え、真夜中の暗闇でも歩けるようになりましたが、それでもしばしば狐につままれたように、自分の居場所が分からなくなることもあります。


(左)ゴンドラ、光と影 (右)アッラ・マスカレータの恋

自分の居場所を探る、この哲学的な命題を常に投げかけてくるヴェネツィアで、時間の限られた旅ならば、なるべく道に迷わず、また五感の欲求を満足させるための目標に無駄な労力を最小限にして達することが出来るように配慮して、詳細で分かり易い地図とふんだんな写真のイメージで作り上げたのがこのガイドブックです。あるいはガイドブックという体裁を持っていますが、実はこの町とこの町に生きる人々の物語であり、その温もりを感じて頂けるなら著者としてこの上ない喜びであります。

31年前に初めて歩いた懐かしの路地から、ついこの間もそのバンコ(カウンター)でワインを飲んでいた居酒屋まで、百数十頁の中に集約するには、相当数の割愛する写真や記憶の断片と連続があったことは言うまでもありません。これまで作ってきた10冊余りの本の中で思いのほか完成までに時間が掛かってしまったのも、それなりの思いの大きさゆえということが、完成した本を手に取り実感しました。


アル・ヴォルト

昨年、ソニー・マガジンズから出た「イタリア好き」はイタリアを総体的にとらえた上で抽出された思いの本であり、イタリアの南から北までの空間的な広がりを持つならば、このヴェネツィアの本は自分のこれまでの人生という時間軸に沿って重ねてきた思いの結晶と言えるでしょう。「イタリア好き」同様に多くの読者の方々に愛される本となることを願ってます。


ラ・フラスカのマリオとアメリカの学生たち

2006年12月04日

アル・マスカロン

友人からヴェネツィアに行ったときにどこで食べたらいいかと聞かれたら、まず最初に紹介するいくつかの店のひとつが “アル・マスカロン”です。ヴェネツィアというのは面白いところで、さほど大きくもない町の中で、地元の人は行きつけのバールや居酒屋がちゃんと決まっていて、歩いて10分ちょっとの距離でも生活範囲が小さいのか、他の店にはほとんどいかず自宅近辺で済ませるようです。

それと似たようなことが旅行者にも言えて、リピーターでも定宿というかお気に入りのホテルが定まると、そのホテルを中心とした範囲の店に通うようになるのです。もっとも、東京のような巨大な都市でも、飲みに行くとなると、1時間以上も時間を掛けてもわざわざ青山や恵比寿まで出て、しかも大体同じ行きつけの店ということになるわけですから、小さなヴェネツィアでも人間の習性は大差ないのでしょうね。

僕がかつて宿としたところはサン・マルコ広場周辺でした。その理由は朝早く起きて、ほとんど誰もいないサン・マルコ広場やピアッツェッタからサン・ジョルジョ・マジョーレを眺めながら日の出を楽しみにしていたからです。それがだんだんと遅くまで飲んで帰るようになると宿はお気に入りの居酒屋の近所が便利になります。宿が先か、行きつけの店が先か、どちらを優先するでもなく、自然と落ち着いてしまったのが、アル・マスカロンとその並びにある書店のルイジがやっているB&Bでした。もっとも、アル・マスカロンには85年か87年に初めて行って以来お気に入りの店になって、90年の春にヴェネツィアに長逗留していた時には毎日のように足繁く通いすでに常連となっていましたから、そこの同じ常連であったルイジと出会うのも必然だったわけです。ただ、ルイジのB&Bに泊るきっかけはずっと後で、 僕がアル・マスカロンに仕事の世話をした日本人青年T君の紹介でした。

アル・マスカロンは1970代初めにモミとジジという共同経営者によって始められました。店名のゆらいは店の近くの教会、サンタ・マリア・フォルモーザの鐘楼の下にある怪奇な顔(マスク)を看板にしたからです。イギリス映画の「007」、ジェームス・ボンド役がロジャー・ムーアだった頃、ヴェネツィアでのロケ中にムーアは日に何度もこの店に来てワインを一気飲みしてはさっと出て行ったそうです。アメリカ、フランス、イギリス、ドイツなど世界中で有名になっていて、最近ではお客の8割がたは外国の観光客になっています。だからと言って、この店が昔と大きく変わってしまったわけではありません。

(左)サンタ・マリア・フォルモーザ教会と鐘楼(右)アル・マスカロンの看板
鐘楼の下にある怪人マスクのレリーフ

ヴェネツィアの居酒屋のお手本のような店内

ヴェネツィアがほとんど観光収入で成り立つ都市であり、そのために地元の人間が住みづらくなっているということも事実です。しかし、だからこそまた地元の人が優先される部分もあるわけで、老舗の居酒屋にはそんな暗黙の了解のような粋な計らいもあります。つまり、同じ料理でも観光客からはメニューどおりの支払い、地元の人間や常連、友人たちからはその半分とか、ワイン代はとらなかったり、ましてやチップを置くと言うこともありません。レストランの中にはメニューはなく、マダムがその日その日の料理をペラペラ、しゃべって、わけが分からなくてただ頷いているうちに料理が2,3品出てきて、まあ、ヴェネツィアの郷土料理で味も悪くは無いが、支払いがずいぶんと高かったという話もよく聞きます。そんな店でも地元の人間と一緒だと支払いはかなりリーズナブルなものになります。
いつも豪快なジジと名シェフのカルロ

ヴェネツィアの家の主、本屋のルイジも常連。

アル・マスカロンをひとに薦めて後で感想を聞くと、凄くよかったというのと、とんでもないという二通りがあります。とんでもない結果の原因が、週末、土曜日の夜に予約もしないで、4,5人で行ってだいぶ待たされた上に、慌しい雰囲気の中で食事をしたので、じっくり味を楽しめなかったというわけです。あるいは、ここは居酒屋ですが、レストラン感覚で来ると、ウェイターたちの対応がぞんざい、粗野に感じたりするわけです。日本の月島や築地あたりの居酒屋に行ったときと同じと思えばいいのですが、言葉もあまり分らない。メニューの内容も分らない。空腹を我慢してなおかつ待たされていると、たいした問題でもないのに期待はずれだったと評価してしまうのですね。それが雑誌などの取材に来た人間だったりして、たった一度の不運な体験を書いて公表してしまうのですから残念なことです。

(左)ヴェネツィアでは「とりあえず、”プロセッコ”」そしてこの肴。小エビのマリネとアーティチョークのフォンド(ガクの底部)。(右)スカンピ、ムール貝、アサリたっぷり、トマト風味のスパゲッティーニ・アル・スコーリオ(磯作り)。

(左)左からマグロ、ヒメジ、イサキ、カレイ、タイのグリル(右)イタリアでは新しい法律で飲食店の中では禁煙になりました。

アル・マスカロンもまたヴェネツィアの時代とともに生きている店です。この島で生き抜くことの難しさを知っているジジとモミも世界中からやって来て勝手にガイドブックなどに紹介されて、観光客がどっと押し寄せ、地元の常連が入りづらくなることは百も承知です。だから、地元の人間や友人が来たときには、無理でもなんとか席を作ってくれるし、それなりのサービスもするわけです。水の都ですから、物事すべて”魚心あれば水心”です。日本人ならばよく理解できるでしょう。陰口を叩くような評論をサイトに載せる輩には理解できないハートがちゃんとこの店にはあるのです。

(左)アル・マルカロンで撮った、“決定的瞬間”。(右)観光客も地元の人にも大人気。

アル・マスカロンは店の雰囲気もいいし、料理も美味しいです。魚介が常に新鮮です。生牡蠣も安心して食べられるし、ワインのクオリティも高く、ちゃんと予約を入れてゆっくりと食事をすれば、この店の実力に納得できるはずです。その料理を作っているシェフのカルロは自分のサイトでレシピを紹介したりしています。ヴェネツィア弁まじりのイタリア語ですが、ぜひ、覗いて見て下さい。
数年前、この店で知り合った友人、ロベルト。

食べて、飲んでお腹が満足したらヴェネツィアの夜景を楽しむ。

http://www.giancarloseno.com
●アル・マスカロン Al Mascaron
住所:Calle Lunga Santa Maria Formosa

2006年12月01日

未亡人というなのトラットリア

“ヴェドヴァ”に初めて入ったのはかれこれ20年以上も前になります。フィレンツェから昼をだいぶ過ぎてヴェネツィアに着いたのですが、冷たい早春の雨が降る肌寒い日でした。宿は駅からも近いアマデウス。とりあえず荷物を部屋に下ろすと僕と家内は空腹をかかえてすぐに外へ出ました。目的の店はもう決めていて、道も迷わず、その路地の奥にある店の扉を押し開けました。というのも、77年に初めてヴェネツィアを訪れた時から、この店の明かりとその中で楽しそうに談笑しながらワインを飲んでいる客たちの雰囲気に惹かれていて、ずっと入ってみたいと思いつつも、常連の輪の中に入るのを躊躇してきたからです。それをやっと叶えることが出来ました。

店の中は昼食の時間のピークを少し過ぎた2時過ぎ。中年の女性と男性が忙しなく厨房やカウンターの上のケースに並んだ料理を盛った皿やワインをあちこちのテーブルに運び、また空になったボトルやグラス、皿を持って厨房へ行ったり来たり。入り口に立っている僕たちを見て、店のマダムらしき女性がここに座ってと言葉少なに空いたテーブルへ案内してくれましたが、それからまた数分待たされました。
この光に憧れ、この光に吸い込まれた。

朝から常連が立つバンコ(カウンター)

閉店までに昼食を無事に済ますことが出来るのだろうか、そんな心配が過ぎり始めた頃、彼女がテーブルにやってきて、テーブルに顎ひじを着き、僕らの顔を覗き込むように言いました。「何が食べたいの?」それはまるで母親が子供に聞くような優しい微笑でした。僕たちはとりあえずはパスタが食べたかったので、ボンゴレとハウスワインの白を注文しました。女性は「ヴァ、ベネ(いいわよ)」と言って厨房に行き、それからまたお皿をふたつ手に「これを食べてみて」と持ってきました。そこにはサルデ・イン・サオールとバッカラ・マンテカートにポレンタが添えてありました。僕らは昼の最後の客となり半リットルの白ワインとボリュームたっぷりの料理に大満足でした。そして、その日の夕食もこの店に来たのです。マダムの笑顔は一段とにこやかで温かなものでした。そしてミレッラという名前を知りました。今ではヴェネツィアに行けば必ず立ち寄る店のひとつになり、あの時に初めてあったミレッラや弟のレンツォとも友人になりました。
バッカラ・マンテカート(干鱈をオリーブ油で練り上げたペースト)とポレンタ(トウモロコシの粉を熱湯で溶いて作ったもの)

ラ・ヴェドヴァのソアーヴェはいつも美味しい。


(左)ミレッラ。たぶん、彼女を撮った最も美しいポートレートでしょう。(右)無口だけどひょうきんなレンツォ。4月25日は“ボッコロ”と言って、女性にバラの蕾を贈るヴェネツィアの粋な祝日。

(左)15世紀のゴシック建築の傑作、カ・ドーロ(黄金の家)。現在はフランケッティ美術館としてカルパッチョやティツィアーノの傑作を展示している。(右)女性の常連客も多い“未亡人”
この店がラ・ヴェドヴァ、“未亡人”と呼ばれるようになったのはミレッラたちの父親が他界して母親が未亡人となった時から常連たちがだれとなく“未亡人の店”と呼ぶようになってからで、正式な店の名前は近くにある歴史的な建築のカ・ドーロの名前をとって、“トラットリア・カ・ドーロ”といいます。この店はプーリアのブリンディシからヴェネツィアにやってきた彼らの曽祖父が130年ほど前に始め、1963年に父親のマリオ・ドーニが他界すると母親のロケーラが後を継ぎ、現在はミレッラとレンツォに受け継がれているのです。母のロケーラの時代から厨房を預かっていたのがアーダさんで、彼女の作るスカンピのリングイネは絶品です。アーダは数年前に引退しましたが、ミレッラは僕の顔を見ると必ずこの料理をだまってでも出してくれるし、その味はアーダがいた時のままです。
肝臓にもいいイカ墨のリングイネ

僕のマンマ、アーダ。


(左)サルデ・イン・サオール(鰯の南蛮漬け)(右)アーダの傑作料理、スカンピのスパゲッティは現在も受け継がれている。
弟のレンツォは写真が趣味でドイツの名機、ライカの愛好家です。僕はライカのライバル、コンタックスを使っているので、いつも会えばカメラの話に花を咲かせるのですが、レンツォはどちらかというと無口な割にひょうきんなところがあります。3年ばかり前の夏にミレッラが突然ひとりで日本へ旅行に来たのですが、着いたら僕に連絡しようと思ってバッグに入れたはずの僕の名刺を忘れてしまい結局会えませんでした。翌年の春にヴェネツィアで再会した時にその話を聞いたのですが、ミレッラはおでこを押さえながらなんてあたしは馬鹿なのと残念がっていました。僕はかねがね新橋あたりの日本の居酒屋の話をしていて日本に来たら案内すると言っていたのです。日本にもヴェネツィアのような居酒屋文化があることを知って欲しかったから。ミレッラはひとりで京都にも行って、すっかり日本びいきになったようです。

(左)蛸とジャガイモのマリネ(右)カルチョーフィのガクの下部を茹でた“フォンド”
トレヴィーゾ特産のラディッキオ(赤チシャ)のグリル

ヴェネツィアを初めて訪れて以来30年、“ラ・ヴェドヴァ”はいつも心の故郷みたいな店です。ヴェネツィアを想う時、いつもこの路地の奥にある店の夕暮れの明かりが目に浮かぶのです。
レースの覆いのランプが昼も薄くらいテーブルを照らす。

ランチタイムが終わる3時頃、店の入り口に椅子が置かれて夜までの休憩に入る。

2006年11月22日

悪魔と聖水

日も落ちて、街燈に明かりが灯り始める頃、リアルト橋を市場側に渡り、運河沿いに並ぶ観光客向けのレストランの呼び込みには耳を貸さず歩いていくと、右手に“カッレ・デッラ・マドンナ(マドンナの小路)”があります。ここには日本のたいがいのガイド・ブックに紹介されている”マドンナ”というレストランがありますが、それも通り過ぎて先へ行きます。すると店の外でグラスを片手に語り合う人たちが目に入り ます。グラスの中身はたいがい赤ワインです。この店の赤ワインは旨い。メルロ、カベルネ、近郊のトレヴィーゾ周辺で造られる、いわば地酒です。しっかりと濃厚な造りで、ゆっくりと談笑しながら味わえる。仕事帰りの職人、画家、写真家、いつもの顔が集まる。ヴェネツィアに来るたびにここに立ち寄って1杯、2杯と飲んでいるうちに、すっかり彼らの仲間になりました。写真家のカルロとはリアルトのアーケードの横丁にあるサクロ・エ・プロファーノで初めて出会って、以来、たいがいは一緒に2,3軒のハシゴをするようになりました。画家のフランコとはここで知り合い、彼をモデルにお気に入りの一枚の写真が撮れました。やがて、顔なじみが5人、6人と増えてひとしきり語り合った後、また次の店へぶらぶらと歩き始めます。
“アル・ディアボロ・エ・ラックアサンタ”があるカッレ・ディ・マドンナ(マドンナの小路)

いつもこの店で出会う友人たち。煙草に火をつけているのが画家のフランコ、その左は写真家のカルロ、右は貴族の末裔、ピエロ。

老舗が多いヴェネツィアの居酒屋の中で、ここはさほど古くはありません。1998年7月12日がこの店の誕生日。その翌年の春、いつものようにサクロ・エ・プロファーノに行って、八百屋のジョルジョにで出会うと「トシ、アックアサンテにはもう行ったか?シルヴァーノの店だ。え、まだ行ったことがない?新しくできた店でいいワインを飲ませるぞ」と言いつつ一緒に行きました。すでに顔なじみが何人もいて、店主のシルヴァーノ、カウンターで客の相手をしている息子のニコラを紹介してくれました。確かに、美味しい、上等のワイン。それ以来、ヴェネツィアに来ると必ずこの店に寄るようになりました。

シルヴァーノは代々船乗りの家柄に育ちました。店にはボガロンガ、レガッテ・ストリカなどヴェネツィアの船の競技や祭りや古いゴンドリエたちの写真などがたくさん飾ってあります。ゴンドリエの常連も多く、みんな父親の時代からの幼馴染み。店は新しいけれど、この店には古き良き時代のヴェネツィアが生きていて、もう何十年もやってきたかのような雰囲気があります。老舗の店でも経営者がころころと変わり、その都度店の雰囲気も客の顔ぶれも変わる店も少なくないヴェネツィアで、ここに来ると昔のヴェネツィアを感じることができるのです。この店で出す料理はすべてヴェネツィアの郷土料理。他の居酒屋ではピッツァを出すところもあるけれど、シルヴァーノはやらない。大勢の観光ブループのお客も丁重にお断り。グループならせいぜい5,6人にして欲しい。もちろん、外国の観光客が着てくれるのは嬉しい。しかし、何よりも地元の常連を大切にしたいし、自分の生まれ育ったヴェネツィアの伝統をしっかりと受け継いでいきたい。これがシルヴァーノがこの店をやり続けるエネルギーにもなっています。

(左)ヴェネツィアの船乗りの魂を内に秘めている亭主、シルヴァーノ。後ろに画家、フランコの作品がある。(右)シルヴァーノの奥さんとゴンドリエの友人たち。サン・マルコの船着場が彼らのテリトリー。
この店は小さな子供もいる家族でも楽しめる。ヴェネツィアっ子の常連、シルヴァーノの親類などがやってくる。

イタリアの子供は絵を描くのが大好き。


(左)左から干鱈のバッカラ・マンテカート、蛸のマリネ、鰯のサルデ・イン・サオール。どれもヴェネツィアの名物料理。(右)極旨のイカ墨のスパゲッティ。
ヤリイカ、ホタルイカ、アンコウのフリット。まさに天ぷら、日本人の口にも違和感はまったくない。

昔は当たり前だったけど、家族でやっている店は少なくなりました。顔なじみの居酒屋の30軒ばかりを思い浮べても、家族でやっているのはカ・ドーロの“ラ・ヴェドヴァ”リアルトの“アッラルコ”、そしてシルヴァーノの“アル・ディアヴォロ・エ・アックアサンタ”くらい。家族で経営していれば人件費を節約できる分だけ、 良質の食材やワインを使えます。それだけ味の良い店になります。何よりも店の雰囲気が温かい。イタリアは何よりも家族を大事にする国柄ですから、美味しい店、感じのいい店はたいがい、家族経営です。そうやってクオリティを高めればお客も増えて商売も繁盛するわけです。食べ物屋ばかりでなく、靴や衣服、家具など家族経営で世界に名を成しているブランド企業が成長しています。
この間、シルヴァーノ店に行ったら入り口にメニューが貼ってありました。イタリア語、英語の他に日本語も入っています。日本人のお客はマナーがよいと好感を持たれています。ガラスの店に行っても、アメリカの客はやたら商品を勝手に触って挙句の果てには落として壊したりする。でも、日本人は静かで、欲しいものはちゃんと聞いてから手に取ったりするからいいね、と聞いたことがあります。僕が昔、バーカリの本を出そうとしたとき、ヴェネツィア通と言われる学者やヴェネツィア在住の彼の友人から猛反対されたことがあります。曰く、日本人の観光客に荒らされるからと。僕は我慢してその企画を諦めました。すると、その学者が間もなく出した本にはしっかりと自分で紹介していました。今ではどんなガイドブックにもバーカリが紹介されるようになりましたが、日本人の観光客が荒らしているなんてことにはなっていません。むしろ、このような地元の庶民が来る店を分りにくい路地裏に求めて来るほどの日本人の観光客こそ、本当にイタリアを愛し、またイタリアに好かれる人たちで、居酒屋もちゃんと文化交流の場の役割を果たしています

サルデ・イン・サオール、バカラ・マンテカ、ビゴリ・イン・サルサ、ゴ、ビズィ・エ・リズィ、コテギン・エ・ファゾイ、フィガ・アッラ・ヴェネツィアーナ、 カノーチェ・エ・カペサンテ、カパロッソリ・アッラ・ヴェネツィアーナ、モエッケ、カストラウーラ、ポルペッタ、フォルピ、セペ・ネーレ、・・・さて、これらは何のことでしょう?ヴェネツィアのシルヴァーノの店に行ったら、メニューからこれらの料理を探して、オンブラと一緒に味わってみて下さい。回答は行ってからのお楽しみです。

2006年11月06日

絶品のチケーティ、アッラルコ

僕がヴェネツィア滞在中にはずせないバーカロのひとつがアッラルコです。イタリア語で書くと“All'Arco”。 Arcoはアーチのことで、店がある建物のところに隣の建物の倒壊を防ぐために造られたアーチがあるからです。ボローニャにも同名のトラットリアがあって、イタリアではたびたび見かける名前ですね。イタリアの建築にはエトルリア時代からアーチの技術がさまざまに普及していたからです。

さて、アッラルコにはしばしば朝起きると真っ先に来ることがあります。つまり目覚めの一杯、オンブラとチケーティを味わうために。朝食は大事ですね。朝食に美味しくて栄養たっぷりなものを摂れば元気な一日がスタートできますからね。アッラルコはそのためにあるようなもの。だから、朝早くから店の外に溢れるほど常連が次々と出入りします。土日にはここをスタートに朝からバーカリ巡りをする人も少なくありません。何故なら、ここのチケーティは絶品の味だから。ヴェネツィアではこうした居酒屋のカウンターで気軽に注文する小料理をチケーティといいます。たいがいは、一口で食べられるようになっています。酢漬けの野菜やサラミ、チーズ、アンチョビ、肉団子の揚げ物などが一般的ですが、アッラルコでは亭主のフランコがバンコ(カウンター)の脇にある小さなキッチンで、ひと手間加えたオリジナルのチケーティを作ってくれるのです。常連にはその日のお薦め食材が何か聞いてから注文する人もいます。僕はいつもお任せで、フランコは僕の顔を見ると写真に撮ることも含めて美味しいばかりでなくフォトジェニックな一品を作ってくれます。

(左)今日のソルプレーザはサンダニエーゼの生ハムに旬のイチジクと生のズッキーニにアジアーゴのバターを合わせて超贅沢なチケーティになりました。ワインはラボーゾです。
(右)サクッとしたトーストしたパンの香りの後に生ハムと淡い塩味とイチジクの優しい甘さをバターがさらにねっとりと口の中で溶け合います。時々、ズッキーニの歯ざわりがフレッシュ感を演出、小さなパンの上で絶妙なカルテットです。


(左)まだ、朝の9時前というのに、もうグラスを傾けている人たちがいる。かく言う僕もオンブラを一杯。
(右)70歳をとっくに過ぎているマンマ・マリア。僕の顔を見るといつもスペシャルの一品を作ってくれます。

春先なら何は無くてもカストラウーラですね。4月中旬から2週間くらいが旬です。これはサンテラズモというヴェネツィアの島で採れるアーティチョークのつぼみで、丸ごと食べられる柔らかさなのです。音楽に詳しい方ならカストラウーラの語源、想像つきますね。これはあの去勢された男性歌手、カストラートと同じ語源です。つぼみの内に摘み取るからですね。フランコはこれを生でペコリーノチーズのスライスと一緒にトーストに載せて、エキストラ・バージンのオリーブオイルをたっぷりをかけます。組み合わされた食材の言葉の意味を考えながら食べてみてくださいね。
市場でもサンテラズモ島のカストラウーラと明記して売っています。



(左上)サンテラズモ島のカルチョーフィ畑。カルチョーフィは株が大きい割には小さな蕾を収穫するだけなので、土地を広く使います。狭いヴェネツィアでは贅沢なことですね。(右上)これはヴェネツィアならではの名物料理のひとつ。カストラウーラ。(左)朝の一杯はまず、プロセッコから。シャワシャワと喉から胃袋を伝って全身を目覚ませてくれます。フランコが今朝のソルプレーザ(驚き)に何を作ろうか考えてます。

店の隅の窓際に古い新聞記事が貼られています。そこには1800年代にプーリア州のブリンディシから来た人たちが出身地のワインと一緒にこのような居酒屋を始めたと歴史を紹介しています。その写真の中にはフランコの祖父もいます。ピントさんといいます。そして、僕のお気に入りのもう一つの店、ダ・ピントの創業者なのです。ダ・ピントの今の亭主、ジョヴァンニもロコロトンドというプーリアの都市と同じ名前の姓が物語る通り、プーリア出身です。チケーティ(Cicheti)は少量のグラッパとかちょっと一杯のリキュールの意味で、それがこうしたつまみを指すようになったのでしょう。スペインのバルで食べる一口料理のピンチョにも似ていますね。プーリアでは15世紀から18世紀まで長くスペインの支配が続いたので、その影響を受けた文化がヴェネツィアにも入ったのかもしれません。ヴェネツィア方言では運河をリオ、路地をカッレとスペイン語と同じです。ヴェネツィアが海洋王国としてスペイン、ポルトガルなどと競った歴史を感じさせますね。
(左)店の片隅にはヴェネツィアのバーカロの歴史を紹介した新聞記事が貼ってあります。アッラルコの創業者でフランコの祖父のピント氏も写っている写真。
(右)奥にフランコとお母さんのマリアさん、そして一番手前から息子のマッテーオにフランコの相棒のロベルト。

2006年01月10日

居酒屋 「プロセッコ」

 ヴェネツィアにはたくさんの広場があり人々の憩いの場としていつもたくさんの人たちがバールや居酒屋に集まってきます。この店は「プロセッコ(Prosecco)」といいますが、プロセッコと言えばヴェネト州を代表する白葡萄で通常はスプマンテ(発泡酒)に造られますね。コネリアーノヴァルドッビアーデネのふたつのD.O.C.になっていますが、どちらのものも美味しいく僕が一番すきなスプマンテです。特にヴァルドッビアーデネ近郊のカルティッツェのものは秀逸ですが、産量が少ないので日本ではめったに飲めないでしょう。まあ、そんな素敵なスプマンテの名前を店名にしたのが「プロセッコ」で場所は、サン・ジャコモ・デロリオ(San Giacomo dell'Orio)教会のある広場にあります。ほぼ一日中日当たりがいいので、冬でもこの店の外のテーブルに座ってプロセッコを飲むのはとっても気分がいいですね。

日本では太陽が明るいうちにアルコール類を飲むのはちょっと気が引けるようですが、ヴェネツィアでは朝から飲むのが当たり前。特に寒い冬はちょっとお酒を入れて、体を温めてから仕事を始めるというのが日常です。

2005年12月21日

居酒屋 「ベンティゴーディ」


 ユダヤ人の居留地をゲットーと言うのはご存知ですよね。その語源がヴェネツィアに発しているのです。ヴェネツィアの鉄道の駅に近いカンナレージョ地区にゲットーがあるのですが、かつてはここに鋳物の鋳造工場がありました。ヴェネツィアは密集した町ですから火災が一番恐いので火を使う工場はみんな町の外れの海沿いにありましたが、イタリア語で鋳造することをジェッターレ(Gettare)と言いますが、この鋳造工場のあったところに16世紀初頭からユダヤ人たちが強制的に住まわされることになったのです。
 その歴史などはまた別のところでお話しますが、このゲットーの入り口付近に「ベンティゴーディ」という名前の居酒屋があります。現在は今のオーナーの名前をとって、「ダ・アンドレア」という名前も看板の下に書かれていますが、昔からベンティゴーディという名前で親しまれていました。この名前はユダヤ人の名前ですから、この店がもともとはユダヤ人が経営していたわけです。ヴェネツィアでは居酒屋の名前にも町の歴史が刻まれています。
 今のオーナーのアンドレアはとても料理の評判がよく、この店は奥さんに任されて、数年前からアンドレアはリアルトの市場があるサン・ジャコモ広場に「バンコジーロ」という店を出しました。こちらもすぐに人気になるほど料理が美味しい店です。


ヴェネツィアのゲットーの中にはシナゴーグと呼ばれるユダヤ教会があったり、みやげ物店にはユダヤ教に関する宗教的な飾り物なども売っています。絵葉書などにはヘブライ語で説明が書かれたものもあります。また、広場の一角には第二次世界大戦の時にアウシュビッツで虐殺された同胞を追悼しこの悲劇を忘れないようにと収容所へ運ばれるユダヤ人たちの姿を描いたレリーフが飾られたりしています。暗い過去の歴史を振り返ると重苦しい気持ちになるのですが、ゲットーの広場には光が溢れ、毎日、観光客が訪れています。ヴェネツィアに行ったときにはぜひ訪れてみてください。

2005年12月16日

居酒屋 「アッラ・ボッテ」

 ヴェネツィアのリアルト橋をサン・マルコ側に降りてくると、サン・バルトロメオ広場に出ます。向かって左手の路地を入って行くと角にこの居酒屋「アッラ・ボッテ」〔ボッテは大樽という意味)があります。入り口はとても小さいのですが、入ると正面に大きな樽を伏せたような円形のカウンターがあって、ここの名物にもなってる、大人の太ももほどの大きさのボロニェーゼ・ハムが載ってます。右の奥にはテーブル席が並んでいて、間口の狭さからは想像の出来ない広さにちょっとびっくりするでしょう。ヴェネツィアにはこのように間口が狭いのに入ると意外に広かったり、部屋がいくつもある店が多いのです。
 ここは毎晩、ワインというよりもビールを飲む若者たちで溢れるほどですが、若者たちにとっては1杯のワインよりビールの方が量があって安いと思われているからでしょう。1杯のビールで1時間以上おしゃべりをしたりしています。夏などは中に入りきれず、外にまでグラスやジョッキーをもった若者たちが溢れ出ていることもあります。

夜には若者たちで賑わう「アッラ・ボッテ」ですが、朝は現役から引退した男たちの世界です。イタリアの人たちはお洒落ですが、ことにヴェネツィアの男たちは昔からシニョーリ、紳士と言われていた伝統があり、ちょっと居酒屋にワインを一杯飲みに出るときにも、ネクタイに帽子、冬なら上等なコートを着て出かけます。そして、旧友たちとのおしゃべりを楽しむのです。

2005年12月12日

居酒屋「アイ・プロメッシ・スポージ」


 19世紀の著名なイタリアの作家アレッサンドロ・マンゾーニの長編小説「いいなずけ」という名作がありました。イタリア語では"I promessi sposi"、そしてのこのヴェネツィアの居酒屋の名前はこの小説の題名をヒントにしたというのですが、ちょうどこの店をふたりの共同経営者の若者が始めた頃、どちらも「いいなずけ」の彼女ができたばかりで、この小説の名前もヒントになって生まれたそうです。店の壁には輪になったロープが掛かっています。そして、その下にはヴェネツィア方言で、El xe per i disperai...ghe lo demo gratis sora al vin, ma fin'ora non lo g'ha mai usa nisun. Co i vien qua dentro ghe pasa tutte le malinconie"と書いてあります。簡単に訳せば「絶望せしものたちよ。ここに来たならばもうこんなロープは必要ないさ。ここでワインを楽しめばいっさいの憂いも消えてなくなる」。
 ヴェネツィアは路地の町です。バーカロの多くはそんな路地の奥にあって、この店もまた入り組んだ路地にあり、この町に慣れていないとなかなか出会えないかもしれません。でも、一度来たら、ヴェネツィアに訪れるたびに何度も来たくなるでしょう。一杯のワインのために。なぜなら、それは人生のどんな憂さも晴らしてくれるから。

Ai Promessi Sposi : Calle dell'Oca n.4367 Cannaregio



 アイ・プロメッシ・スポージに行き始めて10年余りになるが、この間に僕が知っているだけでも店長が4回変わってます。初めの写真のカップルは店の名前にもふさわしい感じでよかったのですが、そう長くはいませんでした。彼らは店の名前のとおりに「いいなずけ」だったのですが。今はこのお腹の大きなマルコがやっていますが、彼がオーナーなのです。昔は彼がこの店をやっていて、他にも店を出したり忙しくなったので人に任せたが結局自分が戻ってきたそうです。
 しかし、昔ながらの店の常連にとってはマルコが戻ってきたのを喜んでいるようで、連日、午前中から賑わっています。それもけっこうなお年のおじいちゃんやおばあちゃんたちが、昔馴染みとワインを飲みながら、すでに酔っ払っているおじいちゃんもいます。そして、「長生きはするもんだなぁ、こんなに楽しいのだから。ここに来ればいつだって青春さぁ」とゴキゲンです。ヴェネツィアの路地にはいつも変わらぬ昔が生きていますね。

2005年11月03日

居酒屋「アッラ・マスカレータ」


アル・マスカロンの姉妹店

 アル・マスカロンの姉妹店として数年前にオープンしたのが、このAlla Mascareta(アッラ・マスカレータ)です。しかし、当時流行りだしたワイン・バースタイルがなかなか上手く行かず、店長が2,3回変わったところで、一昨年あたりに今の経営者、アルフォンソに譲られました。アルフォンソは見かけも喜劇俳優のような面立ちと服装で目立ちます。どうじに、ひょうきんな応対で軽妙に客をさばき、また美味しい料理とワインのリストもなかなか魅力的で、どんどんとお客を増やし、今ではヴェネツィアでも有数の人気店となり、毎晩、外にも客が溢れるほどです。近年はヴェネツィアに行ったときにはツアーの同行以外は書店をやっている友人、ルイジ・フリッツォが貸している部屋に泊るか、一軒家を借りることにしていますが、アッラ・マスカレータのとなりにルイジの家があるのです。そんなわけでルイジともちょくちょくこの店にワインを飲みに入ります。また、かつてやはりマスカロンのジジとモミが持っていたヴェーチョ・フリトリンという店を1年ほど任されていたトレヴィーゾ近郊の若い兄弟たちがいましたが、彼らもこの店のお気に入りです。といっても今は故郷のジャヴェア・デル・モンテッロで創業1780年という老舗の有名レストラン“アニョレッティ”を譲り受けてがんばっているので、ここに来るのはたまに休日の時だけですが。アル・マスカロンにしろ、アッラ・マスカレータにしろ、他の店とちょっと違うのは仕事が終わった後の同業者のコックやバリスタが来ることでしょう。それだけプロも認める料理やワインの美味しさがここにあるし、やはり経営者の人柄が同業者にも好かれているからです。日本でも最近はヴェネツィアやフィレンツェの居酒屋を真似した造りの店が増えてきましたが、やはり大事なのは経営者や従業員が居酒屋に来るお客の心を理解したサービスをできるかどうかですね。
 

ジャヴェラ・デル・モンテッロの老舗レストラン、アニョレッティのシェフ、マッシモは牡蠣や生の貝が好物。ちょうど今ごろの季節から牡蠣が美味しいので、ヴェネトの山育ちの彼はヴェネツィアで牡蠣を食べるのを楽しみにしています。


さて、好物の生牡蠣を充分に食べるとこんな顔になるようです。背景の写真と牡蠣は関係ありませんが・・・

2005年11月01日

居酒屋「アルマスカロン」


 ヴェネツィアの居酒屋でもっとも人気がある店と言えば、このAl Mascaron(アル・マスカロン)でしょう。サンタ・マリア・フォルモーザという教会の広場から細い路地を入っていくと右側にあります。店の名前の由来はその教会の鐘楼の下にあるレリーフで、異様な怪人のマスク〔面)があります。路地にもCalle lunga S.Maria Formosaと名前が付いています。その先を抜けると病院のあるサン・ジョヴァンイ・エ・パオロ教会があるので狭い路地ながら人通りも多いところです。この店が出来たのは70年代初めで、ジジとモミという共同経営者が始めました。ヴェネツィアでイギリス映画「007」の撮影が行われ、その時にジェームズ・ボンド役だったロジャー・ムーアがこの店を気に入り、毎日のように通ってきたそうです。そのせいでしょうか、僕がこの店に行き始めた90年頃にはすでに海外でも知られていて、夜などは外国の観光客でいっぱいでした。それは今でも代わらないのですが、ランチタイムには地元の常連が決まって座るテーブルがあったりして、地元に人たちからも愛されています。写真に写っている大きなボトルがダミジャーナと呼ばれ50リットル入りのワインボトルです。料理も美味しく、ヴェネツィアに数日滞在できる時には一度は必ずここで食べます。


アル・マスカロンで撮ったお気に入りの一枚。彼らはヴェローナからヴェネツィア観光に来たカップル。ヴェローナと言えば、シェークスピアの「ロミオとジュリエッタ」の物語の舞台になった町。ヴェネツィアで存分に逢瀬を楽しんでいるのでしょう。こうしたドラマッチックなシーンがしばしば見られるのもヴェネツィアの居酒屋の楽しさです。

2005年10月30日

友人たち


バーカリで出会う人々

 ヴェネツィアの居酒屋の楽しみはいろいろな人たちと出会えることです。もっとも最初は地元の人たちばかりが集まっているので、当然、敷居は高く感じました。でも、まずは最初の一軒を見つけてそこの常連のようになれば、他の店に行ったときに「おや、さっきあそこで飲んでたね」なんて会話で始まり、そこへまた彼の友人が来て、お互いに名前を言って紹介しあうのです。日本では篠です、松本ですと、苗字で自己紹介しますが、イタリアではジーノだよ、僕はジョルジョ、と名前で紹介し合います。その方がより親近感が沸きますね。だから僕も利幸を縮めてToshiだよ、よろしくね、と自己紹介します。いまではヴェネツィアを歩いているとあちこちでチャオ、トシ!と声を掛けられるくらいに友人が増えました。そんな友人たちの紹介で昨年はヴェネツィアで念願の写真展を開催することも出来たのです。ここに写っている男たち、中央で煙草に火を着けようとしているのが画家のフランコ。左で手にカメラを持っているのが写真家のカルロ。赤いセーターを来ているのはピエロで、元貴族の家柄とか。みんな役者のように絵になりますね。

 この店は“Al Diavolo e L'acquaSanta”(悪魔と聖水)という名前のオステリア(居酒屋)で、リアルト橋に近い”Calle della Madonna(マドンナ小路)”にあります。ここに行けばきっと彼らに出会えるでしょう。


ヴェネツィアのサン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会の近くにある酒屋、“Al Canton del Vin”で出会った人たち。開店祝いの日には教会の修道士さんもワインを飲んで酔っ払っていました。ここではボトルのワインの他にもダミジャーナと呼ばれる50リットル入りの大きなガラス瓶から、灯油を入れるのに使うようなポンプでお客が持ってきたボトルやペットボトルに量り売りのワインを入れます。1リットルで2ユーロ前後、それがイタリアで日常飲むワインの値段です。





昨年11月にヴェネツィアで開催した写真展(www.toshi-shino.com)のきっかけを作ってくれた飲み友達と詩人のおばあちゃん。会場になったサン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャは「葡萄畑のサン・フランチェスコ」という意味で、教会の裏には一般には公開されない畑があって野菜や果実のほかにもワインを造る葡萄畑があります。僕の肩に手を掛けているのがブルーノでその隣の赤いスカーフをしているのがトニー。この二人がここで展覧会をやっているのを見て、僕もここでやりたいな、と言ったらその場で責任者に紹介してくれて、たまたま持っていたプリントのファイルを見せたら、即決で写真展が決まったのです。詩人のおばあちゃん、ルイーザは毎日のように写真展会場に来てくれました。

2005年10月06日

ダ・ピント

ヴェネツィアの居酒屋、ダ・ピントは観光客も多く通る魚市場の広場、カンポ・ディ・ベカリエに面しているので、外国人の観光客も多い店です。観光客が多いというと、たいがいは味も良くないし、なかには料金をぼったくったりする店もなくはないのですが、このダ・ピントはまったくそんな心配はいりません。最近のイタリアではユーロになったとたんに物価が2倍以上に跳ね上がって、通常のレストランで食事をしたら50~60ユーロは当たり前、物価が高いヴェネツィアでは居酒屋でもその位になることがあります。

 しかし、ジョヴァンニのダ・ピントなら30ユーロ前後で前菜、盛り合わせにパスタ、魚介のグリルとおいしいハウス・ワインを楽しめるでしょう。ちなみにイタリアでハウス・ワインをヴィーノ・デッラ・カーザといいますが、ダ・ピントのハウス・ワインはマクランという名門のワインを使っています。ヴェネツィアでは冬は特に冷えるので朝から”オンブラ”を飲む習慣があります。特に仕事が休みの土日には、朝の8時くらいになると開き始める店に客が5人、6人と集まり、カウンターも前に並び、店が溢れると外にグラスを持ってオンブラを飲みながら、友人たちと語り合っています。そして、必ず2,3軒はハシゴして歩きます。そんあヴェネツィアの居酒屋を現地では「バーカロ」と呼んでいます。

2005年10月04日

チャオ、オンブラ!

イタリアの水の都、ヴェネツィアではワインのことを「オンブラ」ともいいます。その昔、サン・マルコ広場の鐘楼の日陰にワイン売りの屋台が出ていました。太陽の動きにつれて日陰が動くと屋台も移動しました。イタリア語では「日陰」をオンブラと言いますが、ヴェネツィアっ子たちはワインが飲みたくなると「オンブラに行こう」と友人たちを誘い合い、いつのまにかオンブラと言えばワインを意味することになりました。今でもヴェネツィアの居酒屋ではオンブラと言えば、ワインが出てきます。後はロッソ(赤)かビアンコ(白)かを付け加えればいいのです。また、オンブラを動詞形にしてオンブラーレなどと言ったりもしているようです。

 ところで、日本でも挨拶の言葉としておなじみの「チャオ」ですが、これもヴェネツィアで生まれた言葉で、もともとの意味はスキアーヴォという奴隷(僕)を意味する言葉で、昔の奴隷が主人に対して「あなたのしもべです」という言葉が転じて「チャオ」になったそうです。今ではイタリアではどこでも友人たちと出会えばチャオ、別れるときにもチャオ。手紙はメールにも親しい友人どうしならチャオを使ってますね。ちょっと大人っぽい挨拶では「サルヴェ」を使います。
 ヴェネツィアに行ったら、居酒屋で「チャオ、オンブラ!」と言ってみてください。
そして、この写真のお店は、ヴェネツィアの魚市場の前の広場に面しところにあるダ・ピント(Da Pinto)です。創業は1890年からというからなかなかの老舗。Pintoは初代亭主の苗字ですが、現在はこの窓の向こうからワインを注いでいる、ジョヴァンニがやっています。

2005年09月22日

ヴェネツィアの居酒屋、バーカロ巡り

 世界中どこへ行ってもその国、その土地ならではの酒がありますね。日本なら米から作る酒、イギリスならウイスキー、メキシコならテキーラ、中国は老酒とか、ドイツやベルギーではビールが主流。そしてイタリアはワインです。ただ、朝からワインを飲むという習慣はイタリアでもヴェネツィアとその近郊の町やピエモンテ州のトリノ周辺くらいなものでしょう。やはり、冬になると寒くなるので、体を温めるためにワインを飲むわけです。アルプスの山岳警備隊などはワインよりアルコール度数が強いグラッパを飲んだりします。イタリアでは全土で素晴らしいワインを生産していますが、南部はもちろん、ローマやフィレンツェでも朝からワインを飲むというのはあまり見られません。その代わりにバールでエスプレッソですね。北イタリアでもミラノとなると、やはり朝はコーヒーが多いようですから、ワインを飲むというのはヴェネツィア独特ですね。

 ヴェネツィアでは居酒屋を「バーカロ」と呼んだりしますが、この言葉は1800年代に生まれたものです。そもそもワインの歴史は古代ローマ時代以前からイタリア半島にありまして、先住民族のエトルリア人もワインを飲んでいたそうですし、ポンペイの遺跡には多くの居酒屋の跡が見られます。ヴェネツィアで現存する最古の居酒屋としてはリアルト地区にあるド・モーリ(Do Mori)で正式な文書に残る記録では創業が1462年というから老舗中の老舗ですね。

 ド・モーリの正式名称はカンティーナ・ド・モーリ、カンティーナというとイタリア語ではワイン倉庫や一般住宅での納屋的な意味合いがあります。酒を飲むだけでなく、売ったりもしています。ド・モーリでもボトルのワインの他、一般的にはヴィノ・スフーゾ(vino sfuso)と言って量り売りのワインがあります。ペットボトルなどを持って1リットル単位で家庭用に買って行ったりします。

さて、前にも書いたように、ヴェネツィアでは朝からワイン好きな男たち(たまには女性も)がバーカロをはしごして、写真のような光景が見られるわけですが、このバーカロの始まりは1800年代の後半にヴェネツィアがオーストリアと戦争をしていた時代まで遡ります。当時は傭兵が当たり前だったようですが、プーリア州のトラーニという町から傭兵として来ていたパンタレオ・ファビアーノという男が、戦争が終わって荒廃したヴェネツィアで故郷のトラーニから仕入れたワインで居酒屋の商売を始めました。その時に、客としてゴンドリエ(ゴンドラ漕ぎ)の一群がやってきてワインを一口飲んだところ、そのあまりの旨さに「これこそがバーカロのワインだ!」と叫んだのです。ものの本によると、このゴンドリエはワインを飲んでドンチャン騒ぎをするという意味があるバーカラと言ったところをバーカロと聞いた店の亭主が、その次の店を出したときに、店名に「バーカロ・グランデ」と名づけたと書いています。ギリシア神話の酒の神、バッカスをイタリア語ではバッコといいますが、そのバッカスが語源で、酒宴で騒ぐことをバッカナーレといいます。もっとも、イタリアではワインを飲みすぎて歩けないほど酔っ払っているなんて光景はあまり見たことがありません。ましてやヴェネツィアで一歩間違えれば運河に落ちかねないのですから、そこまで酔う前に家へ帰ります。

 右の写真の店はアンティコ・ドーロ(Antico Dolo)といいます。Doloはヴェネツィア近郊、本土側にある古い町で、周辺ではワインを作る農家がたくさんありました。料理も美味しく地元でも人気の見せですが、席数が少ないので夜は予約の観光客ですぐに満席になります。土地っ子は朝のオンブラーレで楽しみます。


篠 利幸

1977年初渡欧、画家としてしばらく活動後、イタリアの写真を撮り始める。書籍、雑誌等で写真と文筆の両面で活動、「田園のイタリアへ!アグリトゥリズモの旅」(NTT出版)、「トスカーナの青い空」(東京書籍)など著書多数。 2004年11月、ヴェネツィアで写真展(www.toshi-shino.com)を開催した。

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