2008年12月10日

ヴェネツィアのアックア・アルタ

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11月30日のタオルミーナ

11月末、10日間ちょっとですが、シチリアからミラノ、ヴェネツィア、そしてマルケの名ワイン、ロッソ・コーネロの郷を回って来ました。シチリアは前々回に紹介したコースで、1日だけ、シロッコが吹き荒れた大風と翌日は集中豪雨に見舞われました、全体的には素晴らしい晴天に恵まれました。その報告はまた改めてしますが、そのシチリアのタオルミーナを月30日に発ち、夕方にミラノに着いたときにはみぞれ混じりの冷たい雨。タオルミーナでは気温が23度で、日向では25,6度にもなるほどだったのに、ミラノでは8度、その気温差はなんと15度以上。ミラノは1泊で、翌日の昼にはピエモンテのネイヴェでバルバレスコを作っている友人、エリオ・フィリッピーノ夫妻とヴェネツィアに行く予定でしたが、その日も朝から小雨模様で吐息が白くなる寒さ。車で走行中のラジオのニュースでヴェネツィアではアックア・アルタ(高潮)が記録的な高さだと聞いて、エリオの奥さんのミリアムがヴェネツィアに入れるのかと心配顔。途中、パドヴァのカフェ、ペドロッキでお茶をして休憩しているうちに、外はだいぶ暗くなり午後7時近くに漸くヴェネツィアに到着。 アックア・アルタは引き潮とともにすでになくなっていましたが、定宿であるアックア・アルタ書店のルイジ・フリッツォの家に着くまでの道のあちこちには浸水で駄目になった物が積まれ、ミリアムがこれじゃまるでナポリだわとびっくり。翌朝、サン・マルコからリアルト界隈を歩いたのですが、朝、サイレンがなりまたもやアックア・アルタ警報がありましたが、この日は前日ほどではなく、既に冬の名物として知られている洪水を初めて体験するエリオもミリアムも面白がっていました。リアルトはリーヴォ・アルタ、高い岸と昔から呼ばれて洪水の被害にはあいにくいところだからこそ、ヴェネツィアの中心として発展してきたのですが、昨日ほどではないといっても、そのリアルトの大運河に沿ったワイン河岸はすっかり水に覆われています。もちろん、洪水で歩けなくなったところは歩行用の台を並べて歩道を作るので、動きが取れなくなるという心配はありませんが、回り道などは仕方ないし、もしこれが大きな荷物を持っていたりすればさぞかし不自由なことだと思います。

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11月30日の夜のミラノ

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アックア・アルタのサン・マルコ広場

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リアルトのワイン河岸

今回のアックア・アルタは一番高いところでは1メートル60センチにもなったと聞きます。1966年に記録的な高潮で大被害がありましたが、今回もそれに匹敵するほどの高さだったそうで、翌日、12月1日の新聞でもサン・マルコ広場をボートで移動するシーンなどが載っていました。実は僕も思わぬ被害を受けたのです。というのも、8月に出した新刊の「ヴェネツィア」をルイジの書店に預けてあったのですが、それが全て水没してしまいました。取材をさせてもらった80件ほどのオステリアやショップの皆さんにお礼かたがた本を届けるつもりで当初は80冊を1度に送るつもりでしたが、結局は1冊づつここに送り、住所が定かではなかったところの6冊分だけを預けておいたのが被害を受けたので、不幸中の幸いと言えるかも知れませんね。それにしても、ルイジの書店にはゴンドラやカヌーを置いてその上に本を積んで相当な重さだったのにもかかわらず、それらが上がった水で浮き上がり転覆したそうで、水というのは予期せぬ被害をもたらすものです。アックア・アルタに慣れているはずのヴェネツィアっ子もさすがに今回はその後始末でへとへとになっていました。地球の温暖化でシロッコやアックア・アルタなどもこれまで以上に強烈なものになりがちです。これからイタリア旅行を予定している方は気をつけて下さいね。といっても、何をどう気をつければいいのか分からないので、とりあえずは雨具や防寒具通常の旅支度どおりにして、肝心なのは何か突発的な事が起こっても、慌てず、騒がず、冷静に、そうすれば、シロッコの強風もアックア・アルタの洪水も日本にいては体験できない面白い現象として楽しめ、良い想い出になるはずです。

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66年の記録的な水位を示す書店のルイジ

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浸水で大混乱のルイジの書店内

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書店内のカヌーの上に積んであった拙著「ヴェネツィア」も全滅

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2008年12月1日の朝刊には156cmを記録したと報道された

2008年10月18日

世界遺産の洞窟住居都市、マテーラ


アルベルゴ・イタリアの部屋から見た風景

今年の春、プーリアの各地を回ってから洞窟住居群で知られる世界遺産の都市、マテーラを訪れました。先史時代から石灰岩質の岩山をくり貫き洞窟住居が造られて都市を築いてきましたが、1950年代にイタリアの貧困の象徴になってしまうという理由で、先祖代々この洞窟住居に住んできた人々は別の地区に強制移動させられ近代化に相応しい生活を再スタートしました。そして洞窟住居の都市は廃墟同然となっていましたが、1993年にユネスコの世界遺産に登録され、洞窟住居群と岩窟教会や内部の壁画などの保護政策が促進され観光地として注目を集めています。


サッシの町、マテーラ

サンタ・マリア・デ・イドリス教会

サンタ・マリア・デ・イドニス教会内部

ドゥオーモ

宿泊したホテル、アルベルゴ・イタリアは小さなホテルですが、各部屋からはこの町の様々な表情を楽しむことができます。ちょうど夕暮れ近くに着いたので、洞窟住居群に明かりが点り始め、その光景を夢中になって撮影しました。ちょうど僕の部屋の前にはエッローネ山の上に十字を戴くサンタ・マリア・デ・イドリス教会が見え、その左下にはサン・ピエトロ・カヴェオーゾ教会がひときわ明るくライトアップされていました。別の部屋の正面にはプルガトリオ教会が優美な曲面に似合わない髑髏のレリーフを見せていました。
ホテルでなかなか美味しい夕食とワインを楽しんだ後、散策に出ましたが、オレンジ色の街灯に照らされたリドラ通りには若い人たちが行き交い、思いのほか夜の活気も感じました。どこかバールに入ろうとリドラ通り脇を少し下がったバールに入りましたが、入り口にある看板を見てびっくりしました。そこには”Bar Shibuya”と刻まれていたのです。旅の仲間たちとスプマンテを飲みながら気さくな店のオーナーやスタッフたちとおしゃべりを楽しみ、店の名前について聞いてみると、日本へ行ったことのあるオーナーの友人から東京で一番若者が集まり人気がある街が渋谷だと聞いたのでそれにあやかってこの名前にしたそうです。この街の人たちはとても気さくで、1,2泊の滞在ではもったいない、もう少し長く滞在したいと思いました。


サン・ピエトロ・カヴェオーゾ教会

サン・フランチェスコ・ダッシージ教会

プルガトリオ教会

マテーラの住居内部1

マテーラの住居内部2 ベッドが高い


翌日は素晴らしい晴天に恵まれ洞窟住居群のある迷路の散策を楽しみました。岩窟教会は7世紀から13世紀ごろに修道士たちが隠遁したあとだそうで、壁面にはビザンチン風の宗教画が描かれていました。また、つい50年ほど前まで使われていた洞窟の住居が当時のままに保存され見学することができましたが、トイレはおまる、またロバや馬などの家畜も一緒に住んでいたようで、確かに衛生面などを考えるとその当時のままの生活はさぞや不便、あるいは辛いものであったと思います。もっとも、家畜などの臭いは酪農家の宿に泊まったときの体験では十分に慣れてしまえるものだとも思いましたから、数百年、あるいは数千年の歴史を重ねた生活習慣は傍が思うほど苦ではなかったかも知れません。近年はこうした洞窟住居に現代的な設備を施しがホテルが誕生し、その自然の風合いの洞窟の室内などなかなか雰囲気があり次回はそういうホテルにも泊まってみたいですね。


ロバなど家畜も一緒に暮らしていた

キッチン

自宅の中庭で遊ぶ子供たち

マテーラの路地

帰国する日は何故か日の出前に目覚めてしまったので、窓からだんだんと明けていく空に浮かぶ三日月と街明かりを眺めながら、また撮影に夢中になりました。帰国して半年ばかり過ぎた9月、晴海の国際展示場で開催され世界観光博に行ったらマテーラのブースがあり、市の観光局の人たちと知り合うことなりました。マテーラにはこちらの人と結婚した日本人女性が現地の旅行代理店で働いており、イタリア語が出来なくても日本語でガイドもしてもらえるようです。これまでイタリア30以上の世界遺産を訪ねてきました、今年、ようやくこの街を訪ねることができました。イタリアは古いものを上手に残し、歴史的な景観を次世代に受け継ぐことに力を入れていますから、日本各地で世界遺産を望んでいる市町村の皆さんにもマテーラを訪れて、その歴史的な価値などをどう保存し、また未来に伝えるか参考になるでしょう。


洞窟住居を改装したカフェ

バール・シブヤ

Bar Shibuyaの人たち

マテーラの夜明け

リドラ通りとパラッツォ・ランファンキ(美術館)

世界旅行博でのマテーラ観光局の人たち

2008年09月05日

シチリアの旅 その4


アルキメデ広場

パレルモを出発して西から東へ、地中海沿岸からイオニオ海に沿ってシチリアの都市や小さな村を訪ねて来ましたこの旅は今回で一応完結です。ラグーサからモディカ、ノートとバロック建築美で知られる都市を経由し、あのシチリアを代表する黒葡萄、ネロ・ダヴォラの発祥の地アヴォラを過ぎれば、シラクーサです。紀元前700代からギリシア人が入植し都市建設が始まりました。イオニオ海を望む丘の斜面には当時の古代劇場があります。町の南にはオルティージャという小さな島があり、橋で結ばれています。シラクーサは「アルキメデスの原理」の発見者、アルキメデスの生誕地でオルティージャ島の中心には大きな噴水があるアルキメデス広場や内部に古代ギリシア神殿を内包して建てられた大聖堂、美しいイオニオ海に面したプロムナードや路地など、訪れて期待を裏切られないところですね。映画「マレーナ」の舞台としても知られるようになり、近年はアレトゥーザの泉の側にエトランジェ・エ・ミラマーレという大きなホテルなどが出来たり、街のあちこちに観光客を楽しませる伝統的なパピルスの繊維を使った手漉き紙工房とかブティックが増えています。そうそう、エトランジェ・エ・ミラマーレのホテルには大学時代に日本に留学し、日本語が上手な従業員もいました。


シラクーサのドゥオーモ広場

夏は海のリゾートとして賑わうオルティージャ. 路地からイオニオ海の水平線が見える.

シラクーサを出発してさらに海岸線を東へ進むと、シチリアのもうひとつの州都とも言われる大都市、カターニアがあります。エトナ山の噴火で流れ出た溶岩の大地に築かれた都市で、町は大理石の白と溶岩を建材とした黒とがいかにもシチリアの強烈な太陽がもたらす光と影のようなコントラストを感じさせます。聖アガタを祀ったドゥオーモのファサードはまさにその石の白と黒とが組み合わされた18世紀バロックの傑作ですね。広場には溶岩で造られた黒い象を台にしたオベリスクも立っています。カターニアでもうひとつの見どころは市場ですね。山盛りにしたウニや大きなカジキまぐろをさばく魚屋や肉屋の店先には羊の頭部、牛や豚の内臓などギョッとするものも並んでいますが、インドのいちぢじくと呼ばれるサボテンの実やオレンジ、パキーノのドライ・トマトやアーモンド、ピスタチオなどシチリア特産の美味しいものが溢れています。帰りの空港はこのカターニャにあります。


レ・アンティケ・シラクーセ

グラン・カフェ・コルシーノでレモンの生絞りジュース

レ・アンティケ・シラクーセ内のエノテカ


この地方の観光地として外せないのはタオルミーナですね。素潜りで深度を競う男の戦いと友情がテーマになった映画「グラン・ブルー」の舞台としても知られていますが、イオニオ海からタウロ山の中腹にかけてギリシア人が築いた都市で、エトナ山とイオニオ海を背景にしたギリシア劇場は現存する古代ギリシア劇場の中でも最も美しいものと言えるでしょう。小さな町でメインストリートの往復には歩くだけなら30分程度ですが、夏のハイ・シーズンには軽井沢を思わせる賑わいですね。旅の最終地にふさわしく、お土産を買ったりする店もいろいろとあり、また美味しいレストランやワイン・バーなどグルメも嬉しい町です。僕がいつも行く店は町の東の門を出てすぐのアルコ・デイ・カプチーニで、新鮮な魚介を使った料理とワインリストも充実しています。値段もリーズナブルで一押しの店です。もうひとつはメイン・ストリーの中ほどの路地を入り細い階段を上がったところにあるヴィーコロ・ストレット(店の名前もそのまま”細い路地”)。3年前の取材で行ったのですが、店内に入ると想像以上に広く、屋上にもテラス席があり、春から秋のハイ・シーズンなら最高ですね。料理もすこぶる美味しいです。

シラクーサの路地 オルティージャの猫


タオルミーナの古代ギリシア劇場

タオルミーナの海岸

タオルミーナのナウマキア小路にある八百屋さん

カターニャやタオルミーナでワインを選ぶならエトナ・ロッソ、ネレッロ・マスカレーゼから造られる赤ワインはネロ・ダヴォラの男性的な力強さとは対照的なエレガントな味わいがあります。カッリカンテから造られる白もきりっとしまった味わいでマグロのカルパッチョやウニのパスタにはぴったりでしょう。さて、美しい海や田園の風景と芸術的な建築美の教会やギリシア、アラブ、ノルマンなどさまざまな文化の名残を今も感じさせる町並みと市民生活、そしてどこを訪ねても美味しいものに満ち溢れたシチリアの旅、いかがでしたか?ブログでは1%くらいの紹介でしたが、いつか読者の皆さんと一緒にシチリアの友人たちを訪ねながらこの島の魅力を存分に味わいたいですね。Ciao!


タオルミーナの画家とモデル

リストランテ・アルコ・デッリ・カプチーニ.

マグロのカルパッチョ

ウニのパスタ

スカンピのシチリア風香草焼き


カターニャの名ワイナリー、ベナンティの酒蔵


2008年08月29日

シチリアの旅 その3


アグリジェントのコンコルディア神殿

シチリアと言うと"神々の島”というイメージが最初に沸き起こる。牧神の吹く角笛の音が広い野に響き、オレンジの林からは芳しい風とともに美しい花の女神、フローラがヴィーナスとともに現れそうな・・・・いつだったか、夜遅く、アグリジェントからカステルヴェトラーノの友人の家へ車で帰る途中、街灯がまばらなアウトストラーダに差し掛かると、友人は車のライトを消すから窓をいっぱいに開けるようにいいました。言われるとおりに窓を全開にして、彼がライトを消すと、車は宇宙の真っ只中に放り出されたような闇の中。そして、次の瞬間、なんともいえないオレンジの花の甘い香りが車中いっぱいに広がったのです。本の数秒のことですが、スリルとロマンと両方を味わったのを忘れません。


アグリジェント、テラモン(複製)

アグリジェント、神殿の谷にて


アグリジェントは紀元前6世紀頃からクレタ島とロードス島から渡来したギリシア人によって建設が始まった都市です。その当時はアクラガスと呼ばれ、コンコルディア、ヘラクレス、ユノー、ゼウス、ディオスクロイなどの神殿が地中海を望む南北に伸びた丘の上に建造され、今ではここを”神殿の谷”(Valle dei Tempi)と呼んでいます。丘の上にあって、谷と呼ばれるのはおかしいのですが、主婦の友社から出ていた寺尾佐樹子著「シチリア島の物語り」や最近、新潮社のとんぼの本シリーズで改訂版が出された「シチリアへ行きたい」の著者、小森谷夫妻の解説によれば、Valleには谷という意味の他、川の流れに挟まれた”中州”も意味しているので、この場合はその中州を指すそうです。僕も長年この”谷”という日本語訳に疑問を持って来ましたが、これで納得。アクラガスというのもその川のひとつの名前だったそうです。この神殿の谷から西側にはアグリジェントの新市街地が広がっていますが、これらのほとんどがこの辺りをしきっている大ボスのものだそうです。アグリジェントはノーベル賞を受賞した20世紀の作家、ルイジ・ピランデッロの生誕地で、彼の短編をもとにタヴィアーニ兄弟が作った映画「カオス・シチリア物語」があります。



アグリジェント、ヘラクレス神殿

アグリジェント、逆光のヘラクレス神殿

アグリジェントの月

アグリジェントから東へ上っていくと、パルマ・ディ・モンテキアッロやリカタ、海底油田で有名だったジェラという町があります。もう10年以上も昔ですが、チャーターしたハイヤーでラグーサまで行ったのですが、その時の運転手によるとパルマ・ディ・モンテキアッロの人口2千人くらいのうち半分は当時、ドイツに出稼ぎに出てたのが不況で戻ってきて、仕事もないので麻薬売買や強盗、ひったくりなどの犯罪で食べていたとか、ジェラの油田産業も資材などをマフィアがみんな食い潰したそうです。その時に、まだ昼下がりというのに、通り抜けたジェラのメインストリートはアメリカ西部のゴーストタウンのようでした。そんな町を通り抜けてラグーサに着いた時にはほっとしたものでした。


ラグーサ・イブラ

ラグーサ・イブラの眺望

ラグーサ、この町はイタリアで出版されているBella Italiaという雑誌で写真を見たときからずっと行ってみたいと憧れていました。初めて行ったのは1990年の春で、パレルモから列車で行ったのですが、その途中で見るシチリアの花咲く大地の美しい景色は未だに忘れません。もっとも、それ以来、何度もシチリアを訪れているので、この島がトスカーナにも負けないくらい美しい丘の風景を持っていることは十分に分かりましたが。

ラグーサもまた、紀元前の先住民、シクリ人の時代から町が造られていましたが、石灰岩の丘の側面には洞穴がいくつも見られるように、穴倉のような住居にも住んでいたようです。そして、ギリシア人、ローマ人、ノルマン人などが入れ替わり立ち代り入植しました。この旧市街地をラグーサ・イブラと呼び、谷を隔てた向かい側には17世紀の大地震の後に再構築され、18世紀には碁盤目のように整備された道路に美しいバロックの町として栄えたサグーサ・スペリオーレがあります。もっとも、観光的に散策を楽しむには迷路のような旧市街のラグーサ・イブラでこちらにも中世の町にバロックが加わり、サン・ジョルジョ教会やサン・ジュゼッペ教会など美しいバロック建築の傑作を観賞できます。また、街中には美味しいレストランやジェラテリアもあって、シチリアでも大好きな町のひとつです。


ラグーサ・イブラのドゥオーモが見える小道

ラグーサ・イブラにて

このラグーサからシラクーサに向かって行く途中にアヴォラという町があります。シチリアはワインの大地として名を馳せていますが、ギリシア人がこのアヴォラに入植したときに栽培を始めたのが現在でも優秀なワインを作っているネロ・ダヴォラ(アヴォラの黒葡萄)という種類の葡萄です。また、ノートという町の近くにはチェリー・トマトで有名なパキーノがあります。この辺りの地形も大地のかしこに穴が空いたり、奇妙な形に風化した岩山などがあります。イスピカとよばれる町の周辺には先史時代から洞窟に人間が住んでいました。この地にリオ・ファヴァーラという素晴らしいワインを生産するワイナリーがあります。シチリアに初めて行った頃に知り合ったマッシモ・パドヴァという友人が作っているワインで、この地方はイタリアのワイン法ではエローロD.O.C.に指定されたネロ・ダヴォラやノートの甘口ワイン、モスカート・ディ・ノートが特産ですが、リオ・ファヴァーラは間違いなくトップ・ランクの生産者です。


彼のワイナリーを訪れて一番びっくりしたのが、葡萄畑が砂地なのです。そこに高さ5,60cmのネド・ダヴォラがずんぐりとした太い幹を並べているのです。畑から顔を上げればもう地中海が光っている環境です。シチリアの太陽と水はけが良い砂地の畑で、ミネラル分をたっぷりと含んで育った葡萄から作られるワインが美味しくないわけがありません。


リオ・ファヴァーラは素朴かつ自然の恵みに満ちている

エローロDOCのネロ・ダヴォラ

また、ラグーサの手前にあるヴィットリオは、チェラスオーロ・ディ・ヴィットリアと呼ばれる赤ワインの名産地で、COSというワイナリーや近郊のコミソにはAVIDEというワイナリーがフラッパート種を主体に素晴らしい赤ワインなどを作っています。僕がシチリアワインの記事を初めて書いたきっかけも、このAvide社が作っているバロッコというワインを飲んだからでした。トスカーナやピエモンテにも負けない素晴らしいワインがシチリアにもあり、むしろシチリアこそがワインの大地なのだと学んだのです。この地を訪れたならば必ずや、”ワインの大地、シチリア”をじっくりと味わえるでしょう。



オレンジのように甘いレモンが実る砂地の葡萄畑

葡萄畑に立つマッシモ・パドヴァ

2008年08月24日

シチリアの旅・その2


サンブーカ・ディ・シチリアとオレンジ湖

シチリアでどうしても訪れたい見所にエリチェがあります。標高700余りの丘サン・ジュリアーノの上にある小さな町で、眼下にはトラーパニとその周辺に広がる塩田を眺められます。トラーパニではジェラートとミネラル・ウォーターは欠かせない真夏でもここまで上がると一挙に涼しさを感じます。ヴィーナスの神殿と呼ばれる遺跡とその後に建てられたノルマンの城や聖母マリアを祀る14世紀建立のマトリーチェ教会など、半日もあれば十分に観光できる小さな町ですが、石畳の広場や路地が美しく、ことに朝と夕暮れは北のヴェネツィアを思わせるロマンティックな雰囲気になります。


サンブーカ・ディ・シチリアの眺望


エリチェのウンベルト広場

エリチェの石畳 エリチェの公園の彫刻

エリチェの丘を下りトラーパニの町に入ると漁港と都会的な喧騒に包まれますが、港近くの市では名物のマグロの燻製やからすみなどの海産物が売られています。魚介のスープをたっぷりかけて食べるクスクスもトラーパニ名物ですね。少し南下したところにはサリーネと呼ばれる塩田が広がり、点在する風車や白く輝く塩の小山の風景はとてもフォトジェニックです。時間がゆるせば塩田からボートに乗ってモツィアの小島に渡ればフェニキア人から始まりギリシア人やローマ人の遺跡を見ることができます。博物館には考古学的にも貴重な彫像を観賞できます。


エリチェからトラーパニを望む

トラーパニの次に訪れたいのが、アラブ人がアッラーの港と称したのが町の語源となったマルサラです。ここはイギリス人のジョン・ウッドハウスが18世紀にスペインのシェリー酒やマドラ酒からヒントを得て造った酒精強化ワイン、マルサラの発祥地です。また、ドンナフガータという日本でもよく知られたワインの名門もあります。また、考古学博物館には紀元前250年前後のものと言われるフェニキア人の船がほぼ原型を留めた姿で発掘され展示されています。


トラーパニの塩田

トラーパニの要塞

ギリシア遺跡と言えば、シチリアで最大の遺跡がセリヌンテです。紀元前6世紀ころの都市と神殿は大地震とローマ人によって破壊されたそうですが、海を臨む平地に広がり、真夏は照り付ける太陽、冬は冷たい風に曝され、観光もよほど神殿好きでないと飽きるかもしれません。僕としてはパレルモとトラーパニの途中にあるセジェスタのギリシア神殿が好きですね。丘の上にぽつんとひとつある神殿の佇まいがいいのです。その上まで登ると先住のエリミ人の居住跡があります。


カステルヴェトラーノの田園風景

セリヌンテの海

セリヌンテから内陸に入って行くとトスカーナを思わせる美しい丘陵地帯が広がりますが、そのような風景の大地では当然、葡萄が良く実り、美味しいワインが作られています。プラネタやファッツ・ワイン、プリモ、モンテ・オリンポ、フィッリアート、セッテソリ、ミチェリなど数えればきりがないほどです。プラネタやモンテ・オリンポがあるサンブーカ・ディ・シチリアはアラブ人が最初に築いた街で、今も路地を入るとアラブ風の迷路のような住宅街があったりして小さいながら魅力的です。周辺の田園風景も美しいし、オレンジ湖と呼ばれる人工の湖からサンブーカの町やその背景にあるアドラーナの山などシチリアの大地の美しさを満喫できます。


モンテ・オリンポのワイン


アラブ語で熱い水という意味がある温泉の町、シャッカは陶器でも知られていますが、そのシャッカとセリヌンテの間にあるメンフィ郊外にテヌータ・ストッカ・テッロというアグリトゥリズモ(農園の宿)があります。オーナーのリッリ・バルベーラさんはシャッカの高校の教師もしていますが、代々受け継がれた農園では葡萄やオリーブ、カルチョーフィにオレンジ、レモン、ざくろなどの農産物や羊、豚なども飼っていて、近年に完成した宿泊施設や腕の良いシェフがいるレストランなど一押しのアグリトゥリズモです。ここで生産される葡萄は近郊のワイナリーに売られていましたが、最近は自分のところでも美味しいワインを作り出したと聞いてます。


テヌータ・ストッカテッロのオレンジ


カッフェ・ジリオのマドンナ

時間があれば行ってみたい町にジュリアーナがあります。サンブーカから10キロほどのところにある丘の上の小さな町ですが、フェデリーコ2世が建てた城や教会があります。フェデリーコ2世は鷲がことに好きだったので、この城を上空から見ると鷲が羽を広げた形をしています。また、城に登ると町の奥の対面にある教会と向き合うように街造りがされていて建築学的にも興味深いところです。


ジュリアーナの城から

セジェスタのギリシア神殿

まあ、こんな情報は日本ではほとんど知られていませんが、実はモンテ・オリンポのワインを作っている友人、ジョヴァンニの奥さんがまだパレルモ大学で建築を学んでいた頃、その卒論のテーマにしていて、この町や城の写真撮影を依頼されたことがあるのです。また、近郊にあるカステルヴェトラーノにはワインのコルクを製造する小さな工場がありますが、近年、シリコンやプラスティックの栓が増えていますが、良質のコルク材さえ使用すれば、やはりワインは天然のコルクがよく似合いますね。そのコルクを作っているファミリーと知り合ったのもモンテ・オリンポとの出会いからでした。


テヌータ・ストッカテッロのレストランスペース

テヌータ・ストッカテッロの寝室

丘の上の町、ジュリアーナ

2008年08月23日

シチリアの旅・その1


パレルモの大聖堂

今回から4回に分けてシチリアのショート・トリップをしましょう。一昨年、ソニーマガジンズ発行の「Gokutabi」でも南イタリア特集をしましたが、この雑誌、トスカーナとマルケの編も合わせて在庫がなく、アマゾンでもプレミア付きでなかなか入手できないと読者の方からも問い合わせがあります。そこで、このブログで再びシチリアを歩いてみましょう。


パレルモの市庁舎前広場とプレトリア噴水

シチリアは紀元前より様々な民族と文化が交差した島で、タオルミーナ、カターニャ、シラクーサ、アグリジェントなどがある東側はギリシャの影響が強く残り、州都のパレルモやチェファルー、マルサラ、シャッカなどがある西側はアラブやノルマンの文化が色濃く残っています。フェニキア人やギリシア人が到来する以前からもシカーニ人やシクリ人などの先住民族がいました。

ローマ人はシチリアを穀物倉庫のように帝国の食料供給の大地として統治してきました。ゲーテが「シチリアの大地の豊かさは6月までに全ての農産物の収穫を終えてしまう」と書いているほどで、その大地の豊かさを求めて、ローマのみならず、ノルマンやゲルマン、フランス、スペインと様々な民族と国家の支配を受けてきました。それだけに、多様な文化がシチリア各地に興味深い足跡を残していて、飽きることのない旅を楽しませてくれるのです。

今やイタリアを代表する農産物であるワインやオリーブはギリシア人が、パスタや現代では北の特産と言われている米はシチリアに上陸したアラブ人が伝え、イタリア半島に渡り、それがまたヨーロッパにも広がっていきました。ギリシア人はシチリアをエノトリア・テルス、すなわち、ワインの大地と称したほどですから、ギリシア人が移植したネロ・ダヴォラ種やインゾリア種など多種の葡萄から作られる魅力的なワインがあります。


パレルモのサン・ジョヴァンニ・デリ・エレミティ教会

ワインと並び、オリーブオイルもトラパニ周辺のノチェラーラやラグーサ周辺のトンダ・イブレアなどとても美味なオリーブを生産しています。また、アラブの影響が残る料理も魅力的で、トラパニの魚介のクスクスやお米が素材の丸いコロッケ、アランチーニなど海の幸、大地の恵みがあればこそ味わえるものがふんだんです。

初めてシチリア島に上陸したとき、潮風と太陽から沖縄に似ているなと思いました。平均気温32度、常に風速6メートルくらいの潮風が吹いているからです。もっとも、沖縄には一度しか行ったことがありませんが、シチリアにはもう6,7回は行っています。シチリア人曰く、この島はギリシャ的な東側とアラブ的な西側では人々のメンタリティも違うそうです。確かに、人をもてなす親しみ易さはアラブ的な西にあるように感じます。東側の大都市、カターニャの人はシチリアは島国だけど、自分たちはギリシャ的な文化を素地にしてインターナショナルな精神を持っていると言います。

シチリアを周遊したら、そんな都市ごとにことなる人々のメンタリティの違いにも興味を持って歩いたら面白いと思いますね。おしなべてイタリアは風土の違いで人々の個性の違いも明確に出るところですから、建築や美術ばかりでなく、土地の人たちとの交流があって初めて旅も楽しめるのだと思います。

さて、まずスタートはパレルモですが、州都だけに見所も豊富です。中でも12世紀に建てられた大聖堂や赤い丸屋根がエキゾチックな雰囲気を漂わせるサン・ジョヴァンニ・デリ・エレミティ教会などノルマンの時代の建築は圧巻です。また、パレルモ市庁舎があるプレトリア広場の噴水はルネッサンス時代にフィレンツェの彫刻家が作った大噴水があります。その向かいにあるホテル、デル・ソーレはかつてアメリカの世界的な歌手で俳優のフランク・シナトラがアメリカ・マフィアのボスの命を受けてコルレオーネのボスに面会を求めここに宿泊したというエピソードが残るところ。


マッシモ劇場


チェファルー遠望


チェファルーの大聖堂

マフィアを有名にした映画「ゴッド・ファーザー」のラストシーンを盛り上げた舞台がマッシモ劇場です。その他、パレルモにはリバティー様式の装飾が美しいホテル、ヴィッラ・イジェアや膨大なワインを誇るエノテカ、ピコーネなど眼も舌も満喫させるものがいっぱいです。


チェファルーの海岸

パレルモから是非訪れたいのがチェファルーです。サファイア・ブルーやエメラルド・グリーンの美しい色彩の変化を見せるティレニア海を望む町で、大聖堂はノルマンのルッジェーロ2世によって建てられました。南国的な明るい雰囲気を漂わせる建築と内部のビザンチン様式のモザイク画の装飾も他の教会に比べとても明るい光に満ちたもので、アッシージのサン・フランチェスコ大聖堂やヴェネツィアのトルチェッロ島にあるサンタ・マリア・アッスンッタ大聖堂とならんで大好きな教会です。

チェファルーは細い路地が碁盤目のように交差し、それがまた斜面に作られていて南国的な素朴で明るい雰囲気とあいまって町歩きも楽しく、美味しい魚介料理のレストランやアラブ風料理の店、ジェラートがとても美味しいカフェ・バールなどパレルモから日帰りで楽しむだけでもシチリアに来たら必ず行きたいところですね。町を見下ろす丘に登ればシカニ人の築いたディアナ神殿やスペイン人の城跡があり、ここから一望するティレニア海の美しさは生涯忘れられないものになるでしょう。

チェファルーの浜辺 チェファルーの入り江で



海を臨むリストランテ Al Porticciolo(チェファルー)

2008年07月08日

ガッリポリの路地裏散歩

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細い路地の迷路

イタリアの都市を歩いていて一番おもしろいのは歴史的な旧市街の迷路のような路地 ですね。構造を迷路とする理由のひとつに外敵が侵入したときにかく乱させるという目的がありますが、ヴェネツィアの迷路は小さな島々を橋でむすび、少ない土地に建物を増やしていく間に細い路地が蜘蛛の巣のように出来上がっていったものもあります。入り組んだ路地を右に曲がるか、左に曲がるかで開ける視界の変化を楽しんだり、このガッリポリのように、狭い路地に立派なバロック調の装飾を施したファサードの大聖堂があって感動したりします。

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路地から垣間見る壁はモダンアートのようだ
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Fiat 500が似合う路地
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やはり古びたものがよく似合う町

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路地から海が見える
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島から眺めた新市街、ボルゴ地区
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路地に差す午後の日差し

かつて油絵を描いていた頃、イタリアやフランスの建物の壁面に強く引かれたことがあります。パリを描いたユトリロや佐伯祐三の作品を見てはヨーロッパの都市に憧れたものでしたが、訪れてみるとなるほど、このままキャンバスに描き移しても立派な作品に見えそうな壁面をあちこちに発見します。また、カトリックの信仰厚いイタリアでは路地が突き当たる正面は辻のところに聖母やキリスト、あるいはサン・フランチェスコやサン・アントニオを祀った祠がありますね。近年はパードレ・ピオという病を治したりする奇跡の力があると信じられている神父の像もよく見かけます。

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アーチを潜り住宅の中庭に
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バルコニーの奥に壁画が見える
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建物に囲まれた中庭から見上げた青空
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聖アガタを祀る大聖堂

イタリアの路地歩きでは猫にもよく出会います。野良猫一匹住めないような町は人間だって味気なくて住みたくはないでしょう。昔の東京では野良犬もよくいましたが、今は皆無。野良猫だってどこかしらびくびく必死に生きている感じですが、イタリアの野良猫はのんびり、ゆったり、気ままな日々を満喫しているようです。そんな野良猫の後について行くと、せっせと手仕事をしている職人さんの工房に行き着いたり、またまた面白い出会いと発見があったりするのです。古代ギリシア時代には"美しい都市”と呼ばしめたガッリポリですが、現在のイメージは鄙びた雰囲気の漁港や庶民の生活臭が漂う路地裏が魅力ですね。ですから、前回紹介したジェラテリアのような、あまり大都市のスタイルをコピーしたような店はないほうがいいのですが、どうやらこの街も時代の趨勢にはかてず経済的な発展を目差して変貌しつつあるようです。

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獅子と聖母が守るバルコニー
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町のいたるところに祠がある
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葦を編んで籠などを作る工房

2008年07月01日

“美しい町”という名のガッリポリ

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小さな漁船が並ぶカンネートの入り江

ブーツのような形のイタリア半島のちょうど突き出た踵の内側のイオニオ海沿岸に"美しい町”と呼ばれたガッリーポリがあります。ガッリが美しいという意味で、ポリは町を意味するギリシア語。ターラントに大都市を築いていた古代ギリシア人が拓いた植民地で、元々のギリシア語名”カレ・ポリス”がガッリーポリとなりました。レッチェからオトラントなどを観光してのんびりと訪れるにちょうどよい位置にありプーリアを旅する時には必ず訪れることにしています。

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まだ、真新しいジェラテリア
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ミラノやローマのジェラテリアを思わせる店内
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建物の壁も塗り替えられモダンなピッツェリアになった

町の作りはシチリアのシラクーサにも似て、ボルゴ地区という碁盤目のように整備された新都市ボルゴ地区とその先にある小さな島が橋で結ばれています。東京の月島と佃島の関係を思い浮かべたりしますが、この小島が旧市街でギリシア時代からの歴史を重ねています。周囲をゆっくり歩いても30分程度で回れる大きさで北側に大きな港があり、橋の南側にもおもちゃの船のような漁船がならぶ小さな入り江があるほか、西側にも防波堤で囲まれた小さな漁港とプリータと呼ばれる入り江があります。南側のディアス海岸の防波堤から下を覗き込むとイオニオ海の波が打ち寄せる岩礁が続き、なんとそこにはたくさんの野良猫が住処としていました。

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こんな可愛い漁船で漁をする
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イオニア海が光るディアス海岸を歩く
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ディアス海岸の岩礁
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ディアス海岸の岩礁にはのら猫たちが住み着いている

北側の港には大きな船が停泊できるし、大型の観光バスが何台も駐車できる広いスペースがあり、私が訪れた春先はまだバカンスシーズンではないので少年たちがサッカーを楽しんでいました。その駐車場から上の道路に上がると”Al Pescatore”というレストランがあり、地元の料理が町で一番旨い店だと教えてくれました。ウニのスパゲッティ、日本ではヒメジと呼ばれるトゥリッリャやスズキの塩焼きを食べましたが、新鮮な魚はどこで食べても旨いのが当たり前です。正直に言えば、ウニは日本の方がはるかに旨いと思います。

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小島の先端の家
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Buon Giorno!(こんにちは)

これまでにも3,4回訪れていますが、今回は真新しいジェラテリアや今まで存在にも築かなかったトラットリアが建物ごと壁を塗り替えモダンな店に変身しているのに驚きました。ことにジェラテリアで働いている娘たちはミラノやローマの店で見かけるようなおしゃれなユニフォームに身を包み、かつてのガッリーポリのイメージが変わりました。真夏にはきっとイタリア国内や海外からの観光客で店先のテラス席も賑やかになるのでしょう。

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港の駐車場でサッカーを楽しむ少年たち
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美味しいと評判のAl Pescatore,地元漁師推薦

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トゥリッリャ
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スズキ

2008年02月19日

「プロチダ島」

今回はシチリアの話を書こうかと思ったのですが、2月19日は僕が大好きなイタリアの俳優、マッシモ・トロイージの”誕生日” なので、彼にちなんだ島を紹介します。マッシモ・トロイージは1953年2月19日にナポリで生まれました。日本では『イル・ポスティーノ』 という映画が良く知られていますが、マルチェッロ・マストロヤンニと父子を共演した『バールに灯ともる頃』や日本では未公開の映画でロベルト・ベニーニと共演の『Non ci resta che Piangere(もう、泣くしかない)』 (1985)などがあります。『イル・ポスティーノ(郵便配達人)』は1994年の9月にイタリアで公開され、日本では1996年の4月に公開されましたが、フィリップ・ノワレ演じるチリの詩人、パブロ・ネルーダが住む島で詩人と彼に世界中から届く手紙の郵便配達の青年との交流の物語で、やがてその青年も詩人になるという、とっても素敵な名画です。その郵便配達を演じたのがマッシモ・トロイージでこれが残念ながら遺作となりました。僕が生まれたのが1952年2月29日ですから、マッシモとはひとつ違いなんですね。彼が元気だったらきっとイタリアで会っていたと思います。ちなみに、パブロ・ネルーダは一度も祖国、チリを出たことがないそうですから、この島に住んでいたというのは映画上でのことです。

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プロチダ島へようこそ!

 さて、その映画『イル・ポスティーノ』のロケに使われた島、プロチダですが、ナポリからフェリーに乗って30分くらいで着く周囲24Kmの小島です。日本の観光客はまずカプリ島、そしてイスキア島へ行くことが多いのですが、このプロチダ島も映画の舞台になってからはだいぶ観光的な変化しました。僕が初めてこの島を訪れたのは1987年の6月か7月です。山田昌宏という日本画家の友人を案内しつつローマからナポリ、アマルフィなどを回ってアッシージ、フィレンツェ、シエナ、ボローニャ、ヴェネツィア、リグリアのサンタ・マルゲリータやポルトフィーノ、カモッリなども訪れてからミラノ経由で帰国するというひと夏の大旅行をしました。その年はたいへんな猛暑で、フィレンツェのペンシオーネに泊まった時には、夜でさえ部屋の中でサウナのように汗がダラダラと流れ出て、おまけに大きな蚊がブンブンと攻撃してくるのです。1週間くらい滞在する予定でしたが、3泊でフィレンツェから逃げました。その3泊の間にもルッカやピサに行ったりして暑さを凌いでいました。

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プロチダ島、コルティチェッラの漁港のながめ

 プロチダに行こうとしたきっかけは以前から『Bella Italia』という雑誌の特集で見た写真に惹かれていたからです。まさにこのブログでお見せする港の眺望がそれです。この入り江はナポリから島に到着したフェリーの港から反対側に島を30分ほど歩いて横断したところにあります。そうそう、このフェリーが到着する港はアラン・ドロン主演の名画『太陽がいっぱい』にも登場します。島に上陸するやいなや僕らは真っ先にこの漁港を目指しました。しかし、その道中の楽しいこと! カラフルな建物の壁、塗られた色が風雨に曝され退色したり、車か何かで削られたり、まさに油絵のようでした。そこへ南の太陽が濃い影とのコントラストを作り、僕はすでに画家から写真家になっていましたが、連れの山田君と絵画的な町の美しさにすっかりうきうきした気分になっていました。山田君はイタリアはどんなに色彩に溢れた国かと期待して来たら、意外に褐色の建物が目立ち当初はだいぶ戸惑ったそうです。でも、この島やリグリア、ヴェネツィアのブラノ島ではしっかりとイタリア的な色彩を感じとったようで、帰国後は繊細ながら色彩が飛び散った作品を描き続けました。近年はその真逆にモノトーンと思えるような作品を発表しつづけているようですが、それでもその淡いモノトーンの奥には色彩と溢れる光を感じます。あの時のイタリアの光はまだ彼の心の奥で輝いているはずです。

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コルティチェッラの可愛い漁船

 小さな車がなんとかすれ違える程度の坂道をどんどんと登っていくと教会の丸屋根が見えてきます。その左手には城のような建物が見えます。迷わず、とにかくその城の方へ登り始めると右手にはあの雑誌『Bella Italia』で見たのと同じ光景が目の前に広がりました。思わずワァ~っと歓声をあげるほどの美しさ。入り江にはまるでおもちゃの帆船を並べたように小さな漁船がいくつも停留していました。パステルカラーで色とりどりに塗られた建物は積み木を重ねたように島の斜面を多い、真夏の太陽に眩しく光っていました。心地よい潮風に吹かれながら小一時間もその眺めを楽しみ、ようやく港へと降りました。浜辺では漁師たちが網の手入れをしたり、船大工が家の下のガレージでペンキ塗りをしていたりと、漁村の生活の匂いがぷんぷんとしていました。船大工のヴィンチェンツォと知り合ったのもこの時で、以来、4、5回は訪れていますが、その度に彼に会います。ブログに掲載している写真は1987年から90年初頭のもので、ヴィンチェンツォの頭はますます輝きをましましたが、港には輝きを失いつつある部分もあります。

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プロチダ島、コルティチェッラの漁師家族

 あの映画の後、この島もどんどんと変わりました。 90年代の初めまでは行く度に出会えた漁師の家族もこの入り江が観光地化されていくと別の入り江に移り住むことになり、町にはバールやレストラン、近年はホテルまで出来てすっかりイスキアと変わらないようになってきました。それでもまだ素朴な風合いはカプリやイスキアよりはあるでしょうか? でも、それもまた時間の問題でしょうね。近年は時間がゆっくりと進むのが魅力だったイタリアにも国際資本、グローバル化の波は強く押し寄せ、なんでも金が物差しの国に変わりつつあります。イタリアの魅力の大きな要素だった何にたいしても大らかだったことが年々薄れていくと感じるのは僕だけでしょうか? イタリアという国は日常そのものが映画のような魅力に溢れた国なのです。それが映画の中だけになったら、それこそ、Non ci resta che Piangere! ですね。

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プロチダ島の静かな昼下がり

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プロチダ島の赤い家と黒猫

2008年02月07日

「春のプーリアを旅する」

イタリアを旅するにはどの季節が一番いいですか?という質問をよく受けます。訪れる場所にもよりますが、年間、押しなべてお勧めできるのが3月から6月上旬あたり、つまり早春から初夏ですね。この時期、僕は毎年、オリジナルのツアーを企画してあまり多くない人数でイタリア各地を訪れます。今年は3月24日から4月1日まで9日間の旅を企画しました(問い合わせ:(デル・ソーレ・イタリア/電話:03-3401-6130 E-mail:italia@fortuna.ne.jp)。訪れる町はファサーノ近郊のアグリトゥリズモに泊まりながら、アルベロベッロオストゥーニ、マルティーナ・フランカなど家々の壁が漆喰で白く塗られた白亜の都市群や南のバロック美の町として知られるレッチェ。そして隣の州、バジリカータにある世界遺産の洞窟住居群の街、マテーラです。また、途中、マテーラとターランとの間にあるカステッラネータというところで名門ワイナリーも訪ねて、プーリア特産のプリミティーヴォやネグロアマーロのワインもたっぷり味わいます。

 プーリアはイタリアでも最大と言われる農産物の豊かなところで、オリーブの生産高もイタリアで一番、新鮮な野菜や肉の料理はもちろん、アドリア海に面した州なので、魚介の美味しさも素晴らしく、グルメには絶対にはずせないところですね。オレキエッテという耳たぶのようなパスタを真っ赤に熟したトマトソースに爽やかなバジリコの葉をちぎって添えただけのシンプルなパスタが格別に美味しく感じられるし、最近、日本にも入ってきたブッラータというチーズ、これはモッツァレッラの中に生クリームを入れた鮮度が命のとてもクリーミーなチーズですが、これもプーリア特産です。ターランとのムール貝もイタリアでは有名ですし、生ウニもプーリアは有名な食材ですね。そんな美味しい料理とワインを味わいながら、アドリア海沿岸に細長く伸びたこの州の端から端まで旅するのはやっぱり春が一番です。

 このブログでは以前にもプーリアを紹介していますが、僕が一番好きな街はオストゥーニですね。歴史を遡れば千年前にギリシア人が築いたのが始まりと言われていますが、初めてこの町に鉄道で着き、小さな駅舎からオリーブの森の向こうの丘に積み重なる白い家々の光景は今までにない感動を覚えました。東京も先週、少しだけ雪に覆われましたが、雪に覆われた白い風景はとても美しいですよね。初めて見たオストゥーニの町は全体が白い角砂糖を重ねたような感じで、あたかも雪に覆われた町並みを見るかのようでした。それがまたプーリアの抜けるような青空、海原のような緑のオリーブの森の間に輝くように見えたのです。大都市の市内バスと同じ色ですが、サイズはミニの巡回バスに乗って市内へ向かいます。オリーブ園を囲む石垣の間の道をゆるやかに登るにつれ、白亜の石壁がだんだんと迫ってきます。やがて、バスはやっと通り抜けられる細い道を抜けて市内に入りました。窓の外を見るとバスはもちろん小型の車すら通れないような細い路地がいくつもあります。後でホテルに荷を降ろしてから市内を散策してみると、これらの路地は町の下から渦巻き型に上っているメインの通りから枝状にいくつも作られ、それがまさに迷路を構築しているのです。大きな建物の下はアーチになったり、トンネルの中で三方に分かれていたり、とても複雑でどんなに歩いても飽きることがありません。もちろん、写真に撮るのにこれほど楽しいことはありませんでした。
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オストゥーニ遠望
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オストゥーニの迷路
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オストゥーニの大聖堂の薔薇窓

ロコロトンドという町も丘の上に作られた町で、周囲はオリーブと葡萄の畑に囲まれています。外からの町並みは王冠のように城壁が円形に築かれていますが、ロトンドは丸い、ロコは場所を意味する言葉で、すなわち”丸い場所”というのがこの町の名前です。この町で作られるヴェルデーカ種とビアンコ・ダレッサーノ種から作られる白ワインはDOC認定でプーリアを代表する優秀なワインです。
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ロコロトンド、バスの車窓から
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ロコロトンドの街で

 そのロコロトンドからアドリア海沿いにずっと南下したちょうどブーツの形をしたイタリア半島の踵の底にある町がオートラントです。海はギリシアと向かい合うイオニア海に面し、その水の青さはモルフォ蝶の翅のようです。この町の大聖堂はプーリア州で一番、ロマネスク調のシンプルなファサードからはその大きさは感じないでしょうが、内部がまた素晴らしく、床には”生命の木”と命名されたモザイク画に覆われ、また見上げる天井も重厚にして繊細な装飾が施されています。
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オートラントの大聖堂
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オートラントの大聖堂内部
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オートラントの海

 ロコロトンドから北へ少し行ったところにファサーノという町がありますが、この町も市内には白漆喰の壁の家々で構成されています。オストゥーニと同じく町はオリーブの林に囲まれた丘の上にありますが、この辺りの地形の特徴である石灰岩の大地のあちこちに大小の洞窟があり、ビザンチン時代に隠遁修道士たちが描いた壁画が残っていたりします。
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ファサーノ近郊の洞窟
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ファサーノ近郊の洞窟壁画1
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ファサーノ近郊の洞窟壁画2

 この地方ではマッセリーアと呼ばれる荘園が多く見られます。そのマッセリーアを観光客が宿泊できるように活用したアグリトゥリズモがとても人気でイタリア人ばかりでなく、世界中の人々が利用しています。素朴で泊まるだけの設備のところもあれば、立派なレストランもあって美味しいプーリア料理を味わえるところもあります。3月のツアーでも始めの3泊をファサーノ近郊にある“サラミーナ”というアグリトゥリズモに宿泊しながら周辺の都市巡りを楽しみます。このマッセリーアは17世紀の貴族、サラミーナ家のものだったのを現在のオーナーが受け継ぎアグリトゥリズモとして運営しているもので、オリーブオイルなどの農産物を生産し、また宿泊客も買うことが出来ます。また、広々としたレストラン設備もあり、郷土料理の講習会やオーナーの趣味でもある音楽会も開催されるなど、文化的な活動にも役立っています。
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マッセリーア・サラミーナ
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プーリアの新鮮野菜
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マッセリーア・サラミーナ付近で

2008年01月16日

「ローマの松」

皆様、 新年明けましておめでとうございます。


昨年はこのブログをまとめて「イタリア好き」を発刊することができましたが、夏以降、いろいろと多忙なことが続き、更新が滞りました。今年も忙しさには変わりないのですが、あまり間が空かないように努めますから応援して下さいね。


さて、 今年最初の話題は”ローマの松”です。ローマの松と言いますと、ボローニャ出身の作曲家レスピーギの交響曲がありますね。各楽章ごとに「ボルゲーゼ荘の松」、「カタコンブの松」、「ジャニコロの松」、「アッピア街道の松」とタイトルがつけられた詩情に溢れた作品です。作曲されたのは1924年12月、今から84年前で、レスピーギはこの他にも「ローマの噴水」、「ローマの祭り」とローマをテーマにした交響詩を作曲し「ローマ三部作」として知られています。古代ローマの神話の世界や様々な情景松というシンボリックなテーマから色彩と光に溢れた楽曲に仕上げています。
 

僕が初めてイタリアの大地を踏んだのもローマで、この古代都市のそこかしこに聳え立つ大きな松はとても印象深く、ローマと聞くと何よりもこの松の独特な形が眼に浮かびます。傘松とも呼ばれ、世界に分布する数百の松の種類の中でもイタリア傘松はシチリアから南仏、スペインと地中海沿岸によく見れる松です。僕がローマで一番気に入っているのがフォロ・ロマーノを見下ろすファルネーゼ庭園の上がり淵にある2本の松です。3本の柱が美しいウェスパシアヌス神殿の背景右手にもよく見えるこの松は高さが20メートルはあります。傘松は最高25メートルにもなるそうですから、このフォロ・ロマーノの松もかなり立派なものですね。

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また、トラヤヌス市場の松並木のところにはローマ皇帝、シーザーの像が立っていますが、この彫像もローマの松との組み合わせでよりローマ的な風景を構成していますね。この松のあるローマの風景を見ていると初めてイタリアに行った77年の夏の太陽や風の香まで思い出すことができます。 あの大きな松には父親のような風格がありますし、もしも僕が生まれ変わって次なる命を授かることができるなら、ローマの松になって数百年、数千年をこの永遠の都とともに生きてみたいですね。

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そうそう、この松の松ぼっくりは赤ちゃんの頭くらいに大きくて、種も大きいから、これでジェノヴェーゼ・ソースのパスタを作るととても濃厚で美味しいですね。黒い墨を塗ったような硬い種の殻をかなづちや石で叩いて割ると、中から白い実が出ますからそれをすり潰して、バジリコの葉と一緒にオリーブオイルでペースト状にするわけです。ローマの郊外を歩いているとバジリコやルッコラ(ローマではルゲッタと呼ばれますが)やこれから春先はプンタ・レッラという水菜に似た野草を摘むことができます。イタリアで永住するとしたら、やっぱりローマですかね。


ナポリ民謡には日本で知られる歌がたくさんありますが、ローマにも素敵な歌があります。Roma, non fa la stupida stasera. ローマよ今夜は野暮をしないで、という歌は小野リサさんカンツォーネを歌ったアルバムに入っていて僕のお気に入りです。ローマから日本に帰るときにはいつもArrivederci Roma、ローマよまた会いましょう、と歌いながら空港へ向かいます。もちろん、トレヴィの泉には毎回コインを投げ入れて。


では、みなさん、今年もよろしくお願いします。

2007年01月12日

Felice Anno Nuovo 2007!


黄昏時、夕陽に染まるナヴィリオ運河を行く遊覧船。船尾にはダ・ヴィンチの肖像が描かれています。

いつもブログをご愛読頂いている皆様、新年明けましておめでとうございます。
イタリアではクリスマスから1月6日のエピファニアEpifania)と呼ばれる祝日までが冬のバカンス期間ですね。エピファニアはベファーナ(Befana)とも呼ばれますが、東方よりイエス・キリストの誕生を祝うために3人の博士がやってきて贈り物をした日にあたります。


(左)ナヴィリオには石の橋、鉄の橋が掛かり、そこから運河を眺めるのもよし、水面に影を落とし、運河の風情をより醸し出しています。 (右)橋の欄干の上で本を広げているカップル。橋はゆったりとした時間を過ごせる憩いの場でもあるのですね。

イタリアではクリスマスに贈られたプレゼントをこの日に開けるという伝統がありますが、最近はどうでしょうか、子供達などは待ちきれなくて、もらったその日に開けてしまうようです。ベファーナはもともと北イタリアの土着信仰から生まれた魔女で、やはりサンタクロースのようにエピファニアの前日に子供たちにプレゼントを届ける役目をします。日ごろの行いが良くない子には炭が届けられるとも言われます。


ナヴィリオ運河の脇には戦後もしばらく使われていた”洗濯場”も残されています。


最近はお洒落なレストランやワイン・バーが増えて、人気が高まっています。


(右)夜の営業時間まで外のベンチで一休み?お腹がものすごく立派なおじさんは店の主人かシェフみたいです。 (左)ナヴィリオ界隈は芸術家が多く住んだり、ギャラリーやアンティークショップが点在します。毎月、最後の日曜日には骨董市も開かれます。


そのエピファニアが過ぎるとイタリアも本格的に動き出します。僕のところもにわかにイタリアからのメールが増えたりして、バカンスで海外旅行やスキーから戻った友人たちの便りや、今年も4月にヴェローナで開催されるワイン博、ヴィニタリー(VinItaly)の案内などが毎日のようにやりとりがあります。ミラノの近郊の町、ライナーテに住む友人、グラツィアーノからは年明け早々に電話もあって、ミラノの空は灰色で毎日寒いと言っていました。



(右)カフェやワイン・バーなどは6時頃から店を開けますが、1,2時間はハッピーアワーなるところが多く、開店早々、けっこうお客さんが来ています。 (左)ルカとアンドレアというまだ若い男性が共同経営しているカフェ・バール、ナヴィリオに行くと必ず寄る店です。


僕はこのところ下北沢や恵比寿界隈のワイン・バーをハシゴしたりしていましたから、ミラノの友人の声を聞いたら途端にナヴィリオ運河のワイン・バーを思い出したりして、早くイタリアに行きたいと思いが募り始めています。
レオナルド・ダ・ヴィンチが設計したと言われているナヴィリオ運河は2年ほど前に水を全て抜き取って、だいぶ時間を掛けて水底の清掃と護岸工事が行われ、去年の秋に行ったらようやくその工事も終わり再び水が引かれていました。
また、初めてこの運河を往来する観光遊覧船を見ました。これはナヴィガミラノ(www.navigamilano.it)というサイトで案内されていますが、55分間の遊覧で15ユーロだそうです。
僕は人生の半分は運しだいと思っていますが、レオナルド・ダ・ヴィンチは手記の中で「幸運を掴むのなら前髪を掴みなさい。なぜならその後ろは禿げているから」というのがあります。天才ダ・ヴィンチもまた人生は、運河、いや運が良ければより楽しく生きられると思っていたのでしょう。彼の手記にはいろいろと“はげみ”になることが書かれていますから、新年の始めにちょっと読んでみるのはいかがでしょう。



(右)ナヴィリオで飲むときミラノの写真雑誌、Il Fotografoの編集長のサンドロがいつもの相棒です。 (左)夜も深けると、運河沿いには熱々のカップルが目立ちます。もっとも、これはまだ暖かい昨年の9月に撮ったものですが。


手記にはまた、「酒は日に何度も、少しずつ」とも書かれています。暮の忘年会から、お正月、新年会、そして新刊書「イタリア好き」の出版記念パーティと飲む機会が連続していますが、ダ・ヴィンチの言葉は勇気を与えてくれますね。では皆さん、今年もどうぞよろしくお願いします。乾杯!

2006年11月20日

ヴェネツィアの船の研究者

ヴェネツィアを訪れると道行くたびに「ゴンドラ、ゴンドラ」と言う呼び声を耳にします。何度も通っている間に帰国してもその呼び声が耳に残り郷愁を覚えます。 ヴェネツィアにゴンドラは無くてはならない関係です。他にも様々なスタイルの船が運河やラグーナ(潟)を行き交い、それを眺めているだけでも楽しいものです。ゴンドラに乗ったときの低い目線から眺めるヴェネツィアもいいものです。ゆったりと櫂が水を掻く音を聞きながら橋を潜り、古びた館の壁をすれすれに通り過ぎ、大運河からサン・マルコ教会やドゥカーレ宮殿を眺めた時のヴェネツィアならではの晴れやかな光景は生涯忘れられないものになるでしょう。また、日常的には運河の対岸を往来する渡しのゴンドラもあり、これは僕もしばしば利用します。
ゴンドラは観光用だけでなく庶民と足として渡し舟にも使われている。

輸送量からしても最も利用されるのが水上バスでしょうが、いつも観光客で超満員ですし、ヴェネツィアでは観光客と住民とは料金が驚くほど違うので、迷路のような道を覚えたら歩いた方がいい時もあります。しかし、サンタ・ルチア駅からヴァポレットと呼ばれる水上バスに乗ってサン・マルコまで大運河を往復すると、ヴェネツィアの代表的な建物のほとんどを観賞することもできる楽しみもあります。

(左)観光客もヴェネツィア人も最も利用するのが水上バス。今ではディーゼルエンジンで動くが、かつては”蒸気船”だったので、未だにその名前”ヴァポレット”と呼ばれている。
(右)様々な業種の輸送に多く使われているタイプ。
マスカレータという女子の競艇用のボートで、浅瀬のラグーナ(潟)に適したスタイルをしている。

ヴェネツィアを歩いていていつも気になる店がサン・ポロ広場とティントレットの名作が多くあることで有名なサン・ロッコの間にあります。小さなショーウィンドーには精巧に造られた様々な船のモデルが飾ってあります。自分で組み立てて楽しむキットもあります。船が好きな人なら必ずやひとつ、ふたつ買って帰りたくなるものです。僕もふたつほど買ったことがありますが、そのモデルを作っているのがヴェネツィアの船の研究の第一人者として知られるジルベルト・ペンツォ氏です。

(左)ジルベルト・ペンツォ氏のショールーム(右)ショーウィンドーに並べられた各種船舶のモデル
1954年にヴェネツィアの隣の漁村、キオッジャで船大工の家に生まれたペンツォ氏は幼少から船に関心を持つように育ってきました。しかし、時代の流れにしたがい、昔ながらの木造の船が減り、ファイバー製の現代的な形のボートが増え、また環境や産業の変化にともない、ヴェネツィアやキオッジャの人口も減少してくると必然、伝統的な船を使っていた漁師や船乗りたちも少なくなり、船も消えていきます。

そんな状況を見てペンツォ氏はヴェネツィアの伝統的な船の文化を後世に残したいと、船の修復や再現に情熱を注いでいます。船に関する著作も多く、世界的に高く評価されています。最近の著作は水上バス、ヴァポレットについて書いた本です。ペンツォ氏は「ヴァポレットはそんなに伝統的な古いものではないが、やはりこんな形の船はヴェネツィアにしかないもので、形もなかなか美しいものだと思う。そうだろ?」と言いました。その通りですね。

(左)トポと呼ばれる漁業用の帆船で、ペンツォ氏の生まれたキオッジャの漁師が使用していた。手にしているのはサンピエロータで1本マストの帆を張ることも出来る。黒いゴンドラの手間にあるのもサンピエロータのモデル。
(右)ペンツォ氏のショールームに並ぶ数々の著作。窓際に並んでいるのはゴンドラの櫂を置くフォルコラで、その美しい形から置物として所望する人も多い。ペンツォ氏はフォルコラの小さなキーホルダーを作って売っている。

ヴェネツィアは千年も昔から海洋国として発展しましたから、当然、造船にかけても一流の伝統を持っています。ラグーナという浅瀬で利用されるため船底がほとんど平らになった構造の船が多く、ゴンドラもそうです。ゴンドラはゴンドリエ(船頭)が船尾の片側に立って漕ぐために、左右非対称の船体にしてバランスが取り易く造られています。とても美しい形ですが、建造には伝統に裏打ちされた高度な技術が必要です。かつてはヴェネツィアにいくつかあったスクエーロという造船所も今ではサン・トロヴァーゾ教会の近くの一箇所になってしまいました。ペンツォ氏が造るモデルにはすでにヴェネツィアから消えてしまった形の船もあります。そのような船も古い文献などを調べ、精密な図面を起こして再現します。地球温暖化による水位の上昇でヴェネツィアがいつの日か沈む日が来るかも知れませんが、ペンツォ氏が研究しているヴェネツィアの船舶の文献とモデルは本物よりも末永く生き残ることでしょう。
ゴンドラの舳先にある櫛状の形は、一番上部がヴェネツィア総督の帽子の形で、その下にはヴェネツィアの7つの地区を表わしている。
スクエーロと呼ばれるゴンドラの造船所。ヴェネツィアで最も古い17世紀から続くサン・トロヴァーゾの造船所をモデルにしている。


(左)今日のサン・トロヴァーゾのゴンドラ造船所。(右)ペンツォ氏が描いたブチントーロはヴェネツィア総督が使用する御用船。 マストの旗にはヴェネツィアのシンボルである獅子が描かれている。

2006年10月30日

ライナーテのヴィッラ・リッタ 2

ライナーテの町は昔から農業を主に反映していました。そのために今でも周辺にはカッシーナと呼ばれる農家が点在し、また町中にもカッシーナが残っているところもあります。ヴィッラ・リッタの他に目立つものと言えば、2,3の小さな教会があるのみで、町全体としては田舎の町といった風情ですが、ヴィッラの脇には運河が流れ遊歩道が作られていたり、ミラノから日帰りで散歩するにはちょうどよい規模の町です。住宅の中を散歩していたら、本格的な日本庭園の家もありました。また、最近はヴィッラに観光バスで訪れるケースも増えたり、高速からすぐ下りたところには大きなホテルも出来ていました。

館の内部は公共の施設として開放されています。

ライナーテ市立図書館もヴィッラ・リッタの中にあります。

現在、ヴィッラ・リッタは市の管理下にあり、公共施設として図書館やギャラリーもあります。グラツィアーノ紹介で副市長にも会い、僕は近い将来、このギャラリーで写真展を開催する計画があります。昨年はグラツィアーノと一緒にヴィッラ・リッタを紹介する小さな絵本を作りました。まったくのボランティアの仕事でしたが、その絵本はヴィッラを見学に来た子供たちに無償で提供されています。庭園や噴水の管理をしている人たちの多くも定年退職した人たちがボランティアで働いてますし、イタリアでは公園や美術館、博物館でこうしたボランティア活動が多く見られます。日本でも年金生活になったらどんどんとこうしたヴォランティア活動に参加すれば、定年後も新たな楽しみが生まれるでしょう。

かつては町のはずれにアルファロメオの本社工場もありましたが、町の佇まいは静かなベッドタウンです。

大都会、ミラノとは違った趣きがあるライナーテ。

町中を散策していたらこんな本格的な日本趣味の家がありました。日本人の観光客は歓迎されそうですね。

ライナーテに住む親友のグラツィアーノ・ヴィターレ。僕と一緒に作った絵本「ニコラ・サウロのあしたはやるぞ」(岩崎書店)など日本でも子供向けにたくさんの本を作っています。

2005年にグラツィアーノと作った”ヴィッラ・リッタ”の絵本。ヴィッラ・リッタで子供達に配布されています。









2006年10月27日

ライナーテのヴィッラ・リッタ 1


ミラノからマルペンサ空港に向かう高速A8号線で20分足らずのところにライナーテという町があります。13年前に東京で知り合ったグラツィアーノ・ヴィターレ(Graziano Vitale) というグラフィック・デザイナーで絵本作家の友人が生まれ住んでいる小さな町です。彼と出会わなければ決して行くことはなかった町だったでしょう。そんな日本ではまったく知られていないような小さな町でしたが、行ってみて驚きました。この町にはつい数年前まであのイタリアの名車、アルファロメオの本社工場がありましたし、今は日本でもよく知られているミントやチューインガムの工場もあります。しかし、僕が一番驚いたのは、この町にある”ヴィッラ・リッタ”という立派な庭園と館があることです。


ミラノの中心、コルソ・マジェンタには”パラッツォ・リッタ” という大きな建物があり、旧国鉄時代からイタリア鉄道の本社に使われていました。元の所有者はマルケーゼ・ポンペーオ・リッタという貴族でした。その貴族をたどっていくとミラノを支配していたヴィスコンティ・ボッローメオ家に行き着きます。ライナーテのヴィッラ・リッタはこのヴィスコンティ・ボッローメオ家のピッロ一世伯爵が1585年頃に建設した荘園です。正式名称は”ヴィッラ・ボッローメオ・ヴィスコンティ・リッタ(Villa Borromeo Visconti Litta) と言います。そもそもこの一帯は15世紀初頭からヴィスコンティ・ボッローメオ家の領地でワインを作るための葡萄畑と農家などが数多くありました。ピッロ一世はその内のひとつをヴィッラとして作り変えたのでした。

館の建造にはカミッロ・プロカッチーニやフランチェスコ・マッズッケッリといった当時の優秀な建築家、芸術家が起用されました。内部の装飾の手本になったのはトスカーナのヴィッラやローマの建築や庭園でした。しかし、この館に描かれているシンボリックな人物像などはルネッサンス時代でもフィレンツェやヴェネツィアではキリスト教的なテーマが主だったにもかかわらず、ピッロ一世はそうした特定の主教色を一切排除した、むしろ、古代ギリシアやローマ神話に近い、まさにルネッサンス的な自由な人間世界を表現しました。

また、ピッロ一世は当時、フィレンツェやローマのヴィッラにしばしば造られていた洞窟や噴水から案を得て、様々な仕掛けのある噴水庭園を造りました。近年、これらの館や噴水庭園の修復がほぼ完了し、人が歩くと水が噴き出る仕掛けが楽しめるようになりました。実はこれは当時からフォンタニエーレと呼ばれる人が水道の蛇口を操作して、宴会の来客などが庭園を訪れると水を出して驚かすというピッロ一世のユーモア溢れる遊びを楽しんでいました。ピッロ一世はなかなか遊び心が豊かな人だったようで、ある時、フォンタニエーレが蛇口をひねったとたんに、フォンタニエーレ自身がたっぷりと水を浴びる仕掛けも作って楽しんだこともあったそうです。そして、18世紀になってからも庭園には”ガラテアの噴水”などが造られ、19世紀にイタリアが共和国になってから所有者が2回変わりましたが1971年から市の管理となりました。
 
モザイクで飾られた歩道を歩くと突然、噴水が出ます。この先には円形の中庭にバッカスの噴水があります。

回転しながら美しい曲線を描く噴水。

子供達が手を叩くと噴水から水がほとばしります。

庭園には毎日のように近隣の幼稚園や学校の子供達が見学に訪れます。
 

洞窟の中にも様々な大理石彫刻と噴水の仕掛けがあります。

ガラテアの噴水の全体は円形に造られているが、これは世界を球体と捉えて象徴的に表わしています。

噴水の水はこのバッカスの噴水の後ろに見える搭の上に水が上げられて、そこから落ちる水力を利用していました。しかし、バッカスの噴水からはワインが吹き上がる仕掛けがあったと言われています。

2006年10月25日

ヴェネツィアの印刷職人、ジャンニ・バッソ


ドイツのマインツで生まれたグーテンベルグが15世紀の中頃に活版印刷技術を発明すると、まもなくヴェネツィアが印刷と出版の中心地となりました。そこでは今日、出版業の祖と言われるようになったアルド・マヌーツィオが活躍していました。当時のヴェネツィアの民主的な政策は言論においても自由な気風があり、ローマ法王庁の検閲もあまり効力を持たなかったからです。

絵葉書やカードといっしょに貴重なアンティークの版木が壁一面に飾られています。棚の上には古いワインのボトルまで。お好みはピエモンテのバルバレスコのようです。

アルド・マヌーツィオが印刷工房と出版社を持っていた建物が今でも、サン・アゴスティン広場に残っています。当時のマヌーツィオの出版業は知識階級の富裕な貴族がスポンサーとなって注文された本を印刷し、スポンサーには必要数だけを納めれば、あとはマヌーツィオが何部刷って売ってもよいシステムでした。最初はギリシア哲学や宗教関連の書物が主体で、本がとても貴重な存在だった頃でしたから、スポンサーも贈答用に作ったものでした。マヌーツィオは徐々に小説や庶民でも受け入れられる料理本なども出版しました。マヌーツィオの本が売れた理由は本の内容の他に、それまでになかった持ち運べるサイズで作ったことも功を奏しています。そのために活字の発明、そして今日でも通用している”イタリック体”などが誕生しました。
ヴェネツィア本当とリド島の間にサン・ラザロという小さな島があります。18世紀の初頭からそこにはトルコでの迫害を逃れてきたアルメニア人の修道院が設立されました。彼らはそこに印刷所を創設し宗教書や学術書を印刷していました。その印刷所は20世紀まで続いていましたが、ヴェネツィア本島にはそこで少年時代から修行をしていたジャンニ・バッソが昔ながらの活版印刷の小さな工房を続けています。

僕がジャンニと出会ったのは1987年の夏で、友人とガラスの島、ムラノやレース網と漁師の島、ブラノに行こうとして、船着場へ向かっている時でした。細い路地を歩いていると窓にアンティークな雰囲気のイラストが描かれた名刺が並んでいました。中からは印刷機の音がガチャコン、ガチャコンと聞え、覗き込むとジャンニが笑顔で、どうぞ入ってと言ってくれたのです。印刷インクの匂いが立ちこめる工房に入ると、壁中にエエッチングの絵画や印刷見本の名刺、蔵書票などが並び、食い入るようにそれらを見つめていました。

ヴェネツィアの風景絵画をモチーフにしたエッチングの原版。

蔵書票などに使われる伝統的な絵柄の原版。

精緻な描写のエッチング作品。

これは”Ex Libris”、蔵書票です。

ジャンニがサン・ラザロで働いていたのは1969年、彼が15歳の時から今の工房を開くまでの15年間、30歳の時までです。工房には1800年代に作られた印刷機が2台、3台、所狭しと並んでいます。壊れたら修理も自分でやる。現代的なものはアンティークなラジオから流れる音楽やニュースだけ。頑固に活版印刷の技術を守りつづけています。名刺も一枚づつ手で刷ります。そんな彼の姿勢から生まれた名刺にはいつのまにか世界中にファンが生まれ今では日本人の注文も少なくありません。
100年以上も昔の印刷機。

小さな名刺の紙を一枚づつ手で置いて刷っている。

路地の名前が工房の壁の上に書いてある。

今では貴重な歴史的遺産となった古い印刷原版を見せながら、これが僕の宝物だよといいます。そして僕のデジタルカメラを指差しながら、「ここにはデジタルなものはひとつもない。携帯電話も持たない。毎日、毎日僕は同じことを続ける。でも、毎日が違って感じるし、新しく感じる。この仕事をやってけるのは幸せだね。」と語りました。スタンパトーレ、ジャンニ・バッソ、彼のところでは、会うたびにいつも日本では忘れかけてしまうような気持ちを思い出すことができます。
自分の生き方に自信を感じる顔。

木彫りのグーテンベルグの肖像の前に立つと嬉しそうな笑顔になった。





















2006年09月04日

ローマの泥棒市


嘘つきはドロボーの始まり、なんて昔からよく言われていますが、人間の心理として、何かまずいことがあると、つい嘘をついてしまう、あるいは誰しもが他人には言えない秘密のひとつやふたつはあるので、そのことに触れられると嘘を言ってオトボケになります。嘘も方便、などという故事があるくらいですから、嘘が常に悪いことではないというのは、たぶんイタリア人でも同じでしょう。アメリカ映画『ローマの休日』で有名になった、サンタ・マリア・イン・コスメディン教会にある「真実の口」、実は古代ローマ時代のマンホールの蓋だったとも言われていますが、中世から、この顔の口に手を入れて、嘘つきならば手を噛み切られるという伝説がありますが、どうやら当時は男女の不貞を確かめるところだったようです。”恋泥棒” などという言葉もあるくらいですから、男も女も嘘で相手を騙して、アバンチュールを楽しむなんていうことは昔からの常套手段ですね。
さて、その”泥棒” ですが、イタリア語では”ラードロ” と言います。イタリア語でもやっぱり”泥”がつくんですね。昔から”イタリアの泥棒、スリ、置き引き、引ったくりの被害にあったエピソードはたくさんあります。日本人のツアーコンダクターの女性が引っ手繰られたバッグにしがみついて泥棒の車に引きずられ命を失ったという悲しい事件や、バカンスから家に帰ったら目ぼしい物のほとんどを盗まれていたという事件もありました。盗むときにドアやタンスまで壊されて、後の修理が大変だからと、バカンスに出るときに封筒に現金を入れて「泥棒様、どうかドアや入り口を壊さないで下さい」と書いておいてバカンスから戻ったら、泥棒の手紙が置いてあって、「親切に有難う。金は頂きました。今度は鍵を壊さないようにバカンスからあなたが戻ったら出直してきます」と書いてあったそうです。
かく言う僕もローマで一度だけスリにあったことがあります。もうだいぶ前の話ですが、ローマのトラステヴェレ駅の近くに住んでいた芸術家の友人がいて、しばしばやっかいになっていました。外出するときにはトラステヴェレ通りを走るバスやトラム(路面電車)を利用するのですが、ある時、バスの中でこれは怪しいなと思うふたり組の若者に挟まれました。右肩に掛けたカメラバッグに腕を回して防御し、目的地はまだ先でしたが危ないと思ったので次の停留所で降りたのですが、その降りる瞬間、手摺を掴んでバッグから手が離れた隙にカメラバッグを覆うカバーをはずしてその内側にあったフィルターのケースを盗まれていました。バスを降りて、スリをやりすごしたなとホッとしたところで掏られたことに気づいたのです。あっぱれ!としか言いようのない盗み技でした。
イタリアに初めて来てから10年以上もたっての初体験。がっかりして友人の家へ帰ると、その友人は、「明日はちょうど日曜日で”泥棒市” があるからそこに行ってみれば、もしかしたら君の盗まれたフィルターケースが売られているかもしれないよ」と言うのです。その”泥棒市”というのは友人の家のすぐ裏手にある”ポルタ・ポルテーゼの市” のことでした。毎週日曜日の朝8時前から露天が開き始め、昼過ぎまでやっています。何度か見に行ったことがありますが、骨董から衣類や履物、日用雑貨などあらゆる物の市が出ていて、見て歩くだけでもなかなか楽しいのですが、いつだったか、ここでも危うくカメラバッグを開けられそうになりました。幸いに後ろを歩いていた家内が気づいて知らせてくれたのですが、盗もうとした男は縞模様の洒落たスーツにネクタイ、紅いマフラーにサングラスをして、黒の帽子とカシミアのコートに身を固めた一見紳士風でした。また、人が行き交う市の真中で見事な手さばきのカード手品の賭博をたくみな会話で人を集めて展開している男もいますが、これを面白がって見ているうちにスリにやられるということも少なくないようです。この市が”泥棒市”とも言われるのは、こうした人ごみでスリを働く輩が多いということもあるのでしょうね。

結局、僕のフィルターケースを見つかりませんでした。きっと、どこかのカメラ店に売ってしまったのでしょう。カメラ店の中古を探せば出てきたかもしれませんね。
 

冷戦時代の東西の壁が消えた2000年代に入って、イタリアには東欧やロシアなどからたくさんの人たちが流入してきました。アルバニア難民などひところはだいぶ社会問題にもなりましたが、確実にイタリア経済の中に入りビジネスを展開しているのはロシア人でしょうね。それはポルタポルテーゼの市を歩いて見ても分ります。今までには見たことがなかったような、新品のロシア製のカメラを並べている露天もあります。売っている人もなかなかのロシア美人。話し掛けてみましたが、イタリア語はまだおぼつかない感じで、僕がいろいろとカメラのことを聞こうにも会話ができませんでした。ロシア製や特に旧東ドイツ製のカメラやレンズには素晴らしい性能のものが格安で買える場合もあるので、カメラに興味があるひとは一度歩いてみるといいでしょう。


ポルタポルテーゼの市では日用品も豊富に売っています。とにかく安いのが魅力。1ユーロ単位になって割高感は否めませんが、値切りも交渉の腕次第です。パンツを何十枚もまとめ買いしていた太ったお母さんもいました。大家族なんでしょうね。以前は靴を山積みになったところから同じ柄、同じサイズを探しながらなんてところもありましたが、最近はちゃんと箱入りの新品をきちんと並べて売ってます。旅のお土産をこういうところで見つけるのも面白いかも知れませんね。


冷やかしでも見ていて楽しめるのは骨董や職人の手仕事で作られたものですね。この露天は銅版を打って造ったフライパンや鍋、真鍮の鋳物などを並べていますが、お菓子やパンの型とか燭台が多いのはやはりイタリアですね。売っている人たちも商売よりも訪れる人たちとの会話を楽しみに来ているようでした。

2006年08月21日

イタリアの靴産業

6月のピサ県視察旅行の時に、靴の製造工場を訪れました。サンタ・マリア・ア・モンテというところで、ピサからアルノ川に沿って北上し、サン・ミニアートの手前を左に入ったところにあります。工業団地の地域といって雰囲気での中にある、東京なら大田区あたりにある町工場のビルといった感じの建物の前で、バスから降りた視察団もいったいどんな靴の工場に案内されるのだろうかと訝しげでした。
さて、ピサ商工会議所の担当が呼び鈴をならすと、とてもチャーミングがお嬢さんがお出迎えです。さっそく、玄関口で名刺を交換しながらの挨拶で、彼女はカルロッタ・バキーニ(Charlotta Bachini)さんというマーケティング・ディレクターであることが分りました。
この製靴工場は”GARDENIA”という会社で頂いたパンフレットの社名の下には”100% MADE IN ITALY”と記されています。近年、イタリアの製造業は靴でも衣服でも、中国の工場と提携して生産しているところが少なくなく、北イタリアにはひとつの産業都市の存続問題になっているところもあります。

第二次世界大戦が終結してまだ10年にもならない、1952年、フィレンツェのピッティ宮殿の”サラ・ビアンカ(白亜の間)”で、イタリア・ファッションの歴史的なイベントが誕生しました。パルチザンの活躍でなんとかナチス・ドイツに対して戦勝国となっても、国内は日本と同様に、戦争によって多くのものを失い、経済的にもどん底の状態にあったイタリアはなんとかこの状況から脱出しようと国民全体がもがいていました。
イタリアは昔から様々な分野の職人達が家内工業や兄弟会社などを運営し、堅実な経営によって、魅力的な製品を生んできました。もちろん、戦争の最中では、こうした職人達も戦地に行かねばならず、帰国しても材料すらなかなか手に入らない貧困の日々ではありましたが、こうした職人達の技術こそイタリアを再興させる鍵ではないかと気づいたのが、フィレンツェの実業家、ジョヴァンニ・バティスタ・ジョルジーニでした。
その頃、ファッションと言えばフランスのパリで、アメリカの大金持ちたちはパリ・コレクションの大得意先でした。そこで、ジョルジーニはイタリア各地の仕立て職人や製靴職人など、ファッションに関わる様々な分野の職人たちを呼び集め、フィレンツェのピッティ宮殿でのファッション・ショーを企画したのです。そして世界中のジャーナリストたちを招待し、イタリアの職人達の技術とデザイナーの優れたセンスによって創造された新しいモードを世界に広めることに成功したのです。
ジョルジーニには初めから成功する自信がありました。イタリアには芸術の町に生活する環境、芸術に直接触れている、つまり改めて美術教育をしなくても、イタリア人には芸術的センスが備わっており、それらがモードに発揮されれば必ずイタリア独自の製品を作ることができると確信していました。イタリアらしい陽気で奇抜なデザインをパリコレと比較しておどろくほど低価格で発表するとバイヤーたちはこぞって飛びつきました。
イタリアのあらゆる産業を支えているのは家族経営による小規模で、独自性に富んだデザインと職人の高い水準の丁寧な仕事です。それは現代にも受け継がれ、また日本をはじめ世界の注目を集めるシステムなのです。イタリアの靴といえば、”フェラガモ”のブランドがすぐに浮かびますが、イタリア中に素晴らしい靴職人がいます。
また、近代的な機械を導入したとしても、イタリアが誇る優秀な職人の手仕事が基になっているため、他の国のものとは一線を画した製品が作れるのです。”100% MADE IN ITALIY”にはそうしたイタリアの製造業の誇りを感じますね。
GARDENIA:http://www.gardenia-srl.it


イタリアの靴といえば、トスカーナで生産される皮革は世界のトップクラス。そして、イタリア人の芸術的センスから生まれる色彩も日本ではなかなか真似の出来ないもの。そこには長い伝統が息づいているからです。
GARDENIA社の靴のメインは女性用です。男性用の靴のデザインは何年経ってもあまり変化はないので作りやすいのですが、常に流行に左右される女性用の靴の生産は毎年新しいデザインを創らなくてはなりません。足にフィットしやすい柔らか素材と製法が当社の特長だそうです。


それにしても、無骨な感じの機械の説明をするのがチャーミングなお嬢さんというのがいかにもイタリア的ですね。視察団の男性ジャーナリスト全員の顔が緩みっぱなしでした。 これはこの秋のモードのひとつです。異なった素材の皮を組み合わせるところも、GARDENIA社の特長のようです。



男性用の靴はモカシンタイプがメインです。形はオーソドックスですが、素材や色などは豊富です。女性用のカジュアルな靴では、やはりモカシンタイプが得意のようで素材のバリエーションの多さや色彩の鮮かさ、美しさに目を惹かれますね。

2006年08月18日

アルノ川

今から40年前の1966年の11月4日、フィレンツェの中心を流れるアルノ川が豪雨により大洪水を起こしました。水位はどんどんと上昇し、最も被害が大きかったサン・クローチェ教会は5mも浸水したそうです。当然、アルノ川を挟んで盆地の中に築かれたフィレンツェの町のほとんど全域が浸水という大被害で、ポンテ・ヴェッキオの上の貴金属店などの商店も押し流され、右岸にあるウッフィッツィ美術館の地下倉庫にも濁流は押し寄せ、ここだけでも、8千点、1万点とも言われる美術品が壊滅的な被害を受けました。
 世界の主要都市にはほとんど必ず大きな川が流れ、観光の名所にもなっています。パリにはセーヌ、ロンドンにはテムズ、ニューヨークにはハドソン、ウィーンにはドナウ、東京には隅田川、そしてイタリアのローマにはテベレ川が流れています。橋の上から、川の流れを見つめながら、様々な思いが脳裏を過ぎるという経験を持った方も少なくないと思いますが、川の流れはまた時の流れにも似たものがありますね。時には激動の時代と言われるように、戦争や自然の大災害が歴史に大きな傷跡を残したりしますが、時の流れも、川の流れも普段は穏やかで、日々あまり変わりないように見えるものです。
 アルノ川の上流はフィレンツェの北東部、アペニン山中のムジェッロとカゼンティーノの森の間から流れ出ています。標高千メートル程の源流から南下して、アレッツォの手前で大きくUターンをしてフィレンツェの町中を通り抜け、ピサの町から地中海に注いでいます。数年前にフィレンツェの友人と源流を訪ね、ちょうどポルチーニ茸が旬の季節だったので、収穫を楽しみ、また翌日はカマルドリのカルトジオ会の修道院を訪ねました。千年ほどの昔、聖ロムアルドとその弟子達が完全な隠遁生活を送った場所で、薬草の研究を調査に行ったのですが、周囲はまた栗の林が広がり大きな栗の実がころころと落ちていました。
 山からフィレンツェの町に下りてあらためてアルノ川を眺めてみますと、山に大雨が降ればすぐに水嵩を増し、濁流は時には大洪水を起こすこの川により親しみが湧いてきます。
水を制する者は国も制すると言われるように、かつてメディチ家はマキャベッリとレオナルド・ダ・ヴィンチとの共同で、アルノ川に堰を築き、溜めた水を一気に流して、下流のピサを攻めるという戦略を考えました。その戦略は途中でマキャベッリが失脚したため、未完のままに終わりましたが、ダ・ヴィンチはその時の研究をミラノの運河造りに活かしたのです。大自然の猛威による洪水はフィレンツェをたびたび脅かしました。フィレンツェの町のところどころに、1966年の洪水の水位の位置を示す記録の印があります。

サンタ・トリニタ橋から眺めたポンテ・ヴェッキオ。トリニタ橋の橋柱の上には時々、カップルが降りて、川の上なのに”水入らず”の時を楽しんでいます。


アルノ川岸に面したウッフィツィ美術館の周辺には似顔絵画家がたくさんいます。午後の西日が石畳に反射して、逆光のモデルを美しく照らしていました。


アルノ川がもっとも美しく見えるのは、やはりなんと言っても夕陽が川面を紅く染める頃でしょう。夕陽に照らされながら、川の流れと共に今日の出来事を思い出しながら、一日の終わりを迎えます。もっとも、美食の町でもあるフィレンツェでは、日が沈むとすぐに楽しみな夕食が待っているのですが。

2006年07月03日

エトルリアの大地

ヴォルテッラに最初に町を築いたのはエトルリア人です。エトルリア人は紀元前9世紀、あるいはそれ以前に小アジアからイタリア半島にやってきた民族であるということはこれまでの研究で確認されています。かつては元々イタリアから発生したというと説く学者やロレンツォ・メディチのように自分の祖先はエトルリア人であるとトスカーナ人の純血性を強調する発言もありますが、エトルリア人の信仰する肝臓占いなど古代バビロニア人の風習に似たところも多く、現在では小アジアからの渡来民族であることが確認されているのです。



南はナポリ周辺から北はボローニャ周辺までエトルリア人が町を建設し住んでいたことが遺跡などから分っていますが、中心となったのはローマを流れるテベレ川上流のウンブリアから地中海沿岸のトスカーナです。トスカーナの語源もローマ人がエトルリア人をトゥスキあるいはエトルスキと呼んでおり、その大地をエトルスカーナと称していたことに始まります。ヴォルテッラには紀元前7世紀末にエトルリア人が都市建設を始めたようです。

ヴォルテッラのドン・ミンゾーニ(Don Minzoni)通りにあるグアルナッチ(Guarnacci)エトルリア博物館には近郊から出土したエトルリアの発掘物、とくに石棺や600を数える骨壷の収集でイタリアで一番と言われています。テラコッタ製や特産のアラバスターという透明感のある白色のやわらかい石に見事な彫刻を施したもので、着色の痕跡が残っているものもあります。また、金や銅を使った装飾品などを見ても、彼らが大変繊細な芸術的なセンスを持った民族であることが分ります。トスカーナで産出される鉄を求めてやってきたギリシア人との接触によってエトルリアの文化は急速に発展し、始めはローマを支配し、それが逆転しながらイタリア半島での文化の礎となったのです。




この博物館にある傑作と言われるのが1879年に農夫が発見したという少年のブロンズ像です。僕は90年代にこの像を見たくてヴォルテッラを訪れたことがありますが、ジャコメッティの彫刻作品を思わせるその像はいつまで眺めていても見飽きないものでした。

近代の詩人・小説家であるガブリエーレ・ダンヌンツィオはこの像にOmbra della Sera”夕暮れの影”と命名しましたが、まさにその名にふさわしい趣きのあるブロンズ像です。以前に見たときには黄色く変色したプラスチック製の円筒形のケースに入れられていましたが、今は透明なガラスケースに保管され、より見やすくなっています。それにしても、最初に発見した農夫はこれが何であるかも分らず、暖炉の火掻き棒に使っていたそうですから、エトルリアの少年もずいぶんと熱い思いをしたのです
ね。

ヴォルテッラの町を歩いていると西日が石畳を照らしていました。そこに立つと、まさに”夕暮れの影”が現れました。

2006年06月30日

ヴォルテッラの大地


ピサを出て国道439線を東南へひた走ること1時間。途中の車窓から見える左右には麦畑、ヒマワリ畑の平野が続き、起伏のなだらかな丘の上には農家がポツンと建っていたりする以外、目立ったものは目に入りません。道がようやく上り坂になり始めると突然、前方の小高い丘の上に街並みが現れました。ヴォルテッラ(Volterra)です。イタリア語で”Volare”は飛ぶという意味で、”Terra”は大地、つまり”飛んでる大地”、丘の上の街並みを見ているとそう思えます。紀元前7世紀頃、この地にはすでにエトルリア人が住んでいて、大きな都市と文明を築いていました。ヴェラトリ(Velathri)と呼ばれていたそうです。
トスカーナの大地と言えば、葡萄畑にオリーブの林という風景が定番なのですが、この国道沿いで葡萄畑を見たのは1,2箇所、それもピサとヴォルテッラの中間のペッチョリあたりでした。後でヴォルテッラ市内にあるリストランテの名店、Del Ducaのオーナーから聞いたのですが、ヴォルテッラ周辺は葡萄の栽培には適さない土地なのだそうです。彼は大のワイン好きで、彼は最近になって初めてこの地でワインを作っていてこの秋には飲めると自慢していました。しかし、ワインはエトルリア時代から造られていたし、ヴォルテッラにはアウグストゥス帝時代のローマ劇場 もありますから、ワインも欠かせなかったはずです。その当時はこの地でもワインが造られていたのか、あるいは近隣から輸送されていたのでしょうか。沢山のアンフォラ(ワインや水を入れる素焼きの壷)も出土しています。 ヴォルテッラの町はエトルリアとローマの時代に基礎が築かれた城壁によって囲まれていますが、丘の端の方には断崖絶壁が土を剥き出しにしています。その今にも崩れそうな崖の上にはサン・ジュスト教会が建っています。この断崖は砂と粘土質で崩れ易く、これまでにもエトルリアの建築物や地下墳墓などが消えていったそうです。
イタリア半島はいたるところこのような地質の大地があり、大雨になると流れてしまう現象は避けられないようです。カランキと呼ばれる雨水で侵蝕された斜面はロマーニャ地方でも見ました。いつ訪れても変わらないようなイタリアですが、数百年と言うスパンでは大きく変わっていますね。崩れた崖の稜線を色鮮やかに染めるエニシダの花を眺めながら、諸行無常をここでもまた感じました。
紀元5年から20年にかけてのアウグストゥス帝時代の劇場跡。右上の列柱が並んだところには紀元4世頃と思われる浴場施設があった。沈み行く西日が半円形の劇場に大きな影を落としていました。

2006年06月26日

ピサ観光その3・聖ラニエリの日

ピサの斜塔に登って眺望を楽しんだ後は町中のレストランで手早く夕食を済ませて、アルノ川河畔のお祭りを楽しみました。6月16日はLa Luminara di SanRanieri (ラ・ルミナーラ・ディ・サン・ラニエーリ)のお祭りです。 サン・ラニエーリはピサの守護聖人で、ルミナーラとは”光を灯す”イベントですね。アルノ川 沿いの建物の窓やテラスに全部で7000個ものグラスに入ったロウソクが置かれます。窓や鐘楼のアーチの形は、白く塗られた木枠が造られてロウソクが灯されます。
ピサ商工会議所のはからいで川沿いにあるピサで一番古いホテル、Royal Victoria Hotel(www.royalvictoria.it)の屋上のテラスに上ることが出来ました。眺めは上々、アルノ側はもちろんのこと、後方を見ればライトアップされた斜塔や大聖堂、礼拝堂までが闇にくっきりと浮かんでいます。

写真の手前に写っている塔は” Casa Torre”と呼ばれ住居にもなり同時に中世やルネサンス時代には要塞の役割をしていました。今でも住宅として人が暮らしていますが、だんだんと数は少なくなっているそうです。エレベータもないし、スペースも限られているのでしょうが、中世の趣のある塔の家なんて、ちょっと不便さは我慢しても住んでみたいですね。



サン・ラニエーリ祭のクライマックスはロウソクのイルミネーションが光る沿岸の建物を舞台に打ち上げられる花火です。隅田川、江戸川ほどの派手さはありませんでしたが、今年、いち早く、それもイタリアで花火を楽しめるなんて、なんと素晴らしい体験だったでしょうか。ピサの観光局の海外プロモーションを担当しているファブリツィオ・クオーキ氏から豪華な写真集やパンフレットなどが入った手提げ袋頂いたのですが、その中に折り畳み傘が1本入っていました。これは何故?と聞いたら、昔からサン・ラニエーリの日には必ず雨が降るのです、との応え。確かに、夕食の時に雷鳴が聞こえ、少しだけポツポツと雨粒を感じましたが、イベントが始まる頃には満天の星空になっていました。きっと僕たちが東から太陽を持ってきたからに違いありません。花火が終わって地上に降りたら、どの通りも埋め尽くすほどの人出でした。やっと見つけたバールのオープンテラスで現地スタッフの方々とビールやカクテルを楽しんだのですが、メディチ家支配時代にサント・ステファノ騎士団の本部があったカヴァリエ―リ館前の広場からアルノ川の間には美味しいオステリアやバールがたくさんあって、ピサっ子が一番集うところだそうです。








2006年06月23日

ピサ観光その2・斜塔に登った!

 30年ぶりにピサの斜塔に登りました。ピサには過去3度訪れ、2度目は95年でしたが、その時にはすでに傾斜が進み倒壊の危険があるというので補強の大工事が始まっていました。日本の建設会社も含め世界中から5,6社が協力した大プロジェクトで、その時の斜塔の下部には大きな鉛の板が傾斜方向とは反対の壁面に撒きつけられ、かつ数本のワイヤーで引っ張られていました。1173年にこの鐘楼の建設は始まりましたが、まもなく土台の傾きが始まり工事は中止されました。地中海から12Km程度しか離れていないこの土地はもともと砂岩質で地盤が軟弱なのです。それからおよそ百年後の1275年にジョヴァンニ・ディ・シモーネによって建設工事が再開されましたが、傾いている側の列柱や壁面を高くして近郊を保つように進められました。1350年、塔はトンマーゾ・ピサーノによって完成され、ようやく鐘楼として鐘の音をピサの町に響かせることが出来たのです。

 塔は8階建てで一番上が鐘楼になっていて高さは54.5mです。30年前、僕が登った時には塔の外側の螺旋回廊を歩くことができたのですが、今は内部の螺旋階段のみ使用できます。いつも住んでいるのが48mの高さなので斜塔の天辺に上ってもさほど高くは感じないかと思ったのですが、見渡す周囲が平野で視界を遮るものがないので、空を飛ぶような心地よさです。もっとも高所恐怖症の方は上らない方が無難ですね。

 見下ろすと南側に大聖堂と洗礼堂、大聖堂の右手には聖地エルサレムの土を運んで造られたというカンポ・サント墓地などが見えます。ちなみに、このカンポ・サント墓地は第二次世界大戦の時に、アメリカ軍の”誤爆”によって壊滅的に破壊されたものを蘇らせました。アメリカは昔から同じ事を繰り返していたのですね。北側に回るとピサの町が広がりその遠方にフィレンツェが位置するわけです。

2006年06月21日

ピサ観光その1・チェルトーザ・ディ・ピザ

トスカーナ州のピサと言えば、あの斜めに傾いた鐘楼を思い浮かべますね。この 斜塔があまりに有名なためにピサ県を訪れる人はほとんどこの斜塔を見るだけで終わります。かく言う僕もヴォルテッラには2度ばかり訪れたことがありますが、ピサは斜塔を見るために3度訪れたばかり。ましてや他の観光地や名所旧跡となるとまだまだ知らないところがいろいろとあります。つい先週もピサの商工会議所の招待で3泊だけの視察旅行に行ってきたのですが、ヴォルテッラやサン・ミニアート、カルチなどを訪ねる機会がありました。
カルチはピサの東8kmほどのところにあります。周囲はオリーブの林と小麦畑に囲まれた田園地帯です。1366年、この地にカルトジオ会の修道院が建てられました。カルトジオはフランスではシャルトルーズ、ここで造られているリキュールが有名ですね。11世紀に建てられたシャルトルーズの修道院からイタリアにやってきてた修道士が14世紀半ばにこの修道院を建てたのですが、現在のような姿は17世紀の聖ブルーノによって再建されたものです。その後も小回廊や噴水の庭園、バロック様式の教会や礼拝堂が増設されています。


畑に面した大きな門をくぐると芝の庭が広がり、教会堂を中心にした大きな建物が堂々と建っています。教会堂のファサードはバロック様式ながら全体的にはルネサンス様式で左右対称の調和を持たせた装飾は控えめの建物です。しかし、教会堂の中に一歩足を踏み入れたとたんに、左右の壁や天井を埋め尽くすダイナミックなバロック様式のフレスコ画に目を奪われます。天井画は1600年半ばに、壁画は1700年の始めに描かれたものです。

これらの荘厳な内部を見るとかなりの隆盛を誇った時代があったのだろうと想像にやすいのですが、時代の趨勢で修道士がいなくなり、1972年からはピサ大学の管理するところとなり、自然史と郷土史の博物館となっています。原則的には院内の撮影は禁止されているのですが、ピサ商工会議所の取り計らいで特別に撮影を許されました。

チェルトーザ・ディ・ピザの教会内部は壁画ばかりでなく、床を埋め尽くす大理石装飾も素晴らしく興味深いものです。一見、立体に見えますが、これは白と黒とグレーの大理石の板を組み合わせて造られたモザイクの床で、もちろん滑るほど平らです。 現代のデザインとしてもまったく違和感を感じない斬新な装飾で、本来は質素な暮らしがモットーの修道院とは思えない豪華さです。大理石の産地として有名なカッラーラが近くにあるのですから大理石装飾の技術が優れているのは当然のことでしょうね。教会のファサードやこれらの仕事は1700年晩期の建築家、ニコラ・スタッシによるものです。


  教会堂を抜けて僧院の方へ回るととたんに雰囲気はシンプルなものとなります。ことに修道士が起居する部屋は小さなベッドと礼拝のための椅子と書見台、そして神学書が置かれている小さな書棚があるのみです。しかし、部屋は思いのほか広く造られています。他の修道院と比べても1.5倍から2倍くらいの空間で窓も大きいのですが、厳格な規律の中で日々を送る修道士が自室ではゆったりと寛げるような配慮があったそうです。17世紀後半から18世紀に増築、改装があったので、その時に改善されたのでしょう。
この部屋の壁には四角い小窓が穿たれていて、その窓の蓋にある小さな穴から中を覗きこむことができます。修道士は基本的には24時間、年がら年中沈黙の生活を送ることが基本的な規則となっており、例え他の修道士と一緒にいても言葉を交わすことは許されません。そしていろいろな規則に則った生活をしているか、時々、他の修道士が監視したりするわけです。また、修道士が病気になったりして、他の修道士の助けが必要なときにはこの小窓の所にロウソクを灯して置くのです。
生活の基本は自給自足の共同体ですから、野菜や果物の生産や家具の製作、また薬 草の研究と薬の製造など様々な仕事があります。ことに西洋の薬学はこうした修道士の研究によって発展したと言えます。当時は文字を読むことが出来るのは聖職者や修道士などのごく一部の人たちで、彼らはラテン語やギリシア語、アラビア語などを学び、様々な学問に長けていました。もちろん、これらの仕事以外の時間は祈りと瞑想の時間です。食実は昼と夜の2回、野菜を中心とした質素なものでした。



イタリアの修道会には11世紀にウンブリアのノルチャに始まったベネディクト会や13世紀のフランチェスコ会が特に知られますが、フランスからもカルトジオ会やシトー会など厳格な戒律の修道会が誕生し、イタリアにも修道院を建てています。トスカーナの廃虚の修道院として有名なサン・ガルガーノの修道院も元はフランスから来たシトー会の修道院です。
修道士の規則正しい日常生活を維持するためには時計はとても大事なものでした。機械仕掛けの時計が発明されるまえにはどこの修道院にも日時計がありました。その頃は夜明けとともに目覚め、まず祈りを捧げ、そして正午頃まで労働して昼食を摂り、午後の2時頃から日暮れまで労働し、7時頃から夕食をしたあとにまた夜の祈りの時間になります。睡眠は7時間は充分にとることを決められていました。
修道士たちは名前でなく”A”とか”T”などアルファベットの頭文字で認識されていたそうです。そして、互いに言葉でコミュニケーションが出来ない規則の彼らは、日々の役割分担などを修道院長あるいは監督の役割のある修道士が、役割分担を支持するための掲示板を使って伝えるのです。
また、修道士たちは死後も自分達の名前が墓石に彫られるというようなこともなく、ただ土に帰るのみです。修道院ないには彼らの墓地もありますが、そこにはただ十字架が立つのみです。墓地の入り口の両脇の柱の上にはリアルな大理石彫刻の頭蓋骨がありましたが、常に死を思いつつ生きる生活ですね。天国は神に召されて初めて見るのです。僧坊から墓地の向こうにある庭園と噴水は天国の象徴なのです。この噴水の頂点には聖母像が載る水盤があり、それを支えるイルカの像はカルトジオ会が誕生したフランス国の象徴です。

2006年05月26日

ヴェネツィアのカサノヴァ


イタリア男と言えばプレイボーイ、女たらしというイメージを持つ方々も多いかもしれません。そのイメージを象徴する存在がヴェネツィア生まれの世紀の伊達男、ジャコモ・カサノヴァです。しばしば、スペインのドン・ファン、と比較され、ドン・ファンは若く美しい女性だけを相手にしたが、カサノヴァは年齢や美醜にとらわれず全ての女性を愛した、ドン・ファンに勝るプレイボーイだと評されもしています。実際は女性ばかりがお相手でもなかったそうで、もうこうなると聖人の域に達しているのではないかと思うほどですね。
 カサノヴァが生まれたのは1725年、ジェノヴァと双璧をなす海洋王国を誇っていたヴェネツィアの繁栄に陰りが見えた退廃期にあたります。ナポレオンのフランスがヴェネツィア共和国の終焉の幕を引きオーストリアに譲渡したのが1797年。カサノヴァはその翌年に73歳の生涯を全うします。
さて、そのカサノヴァ、色事師だ、ペテン師だ、魔術師だのといろいろと悪評ばかりがまとわりついていますが、実はヴェネツィア共和国の窮地を救おうと世界各地を命がけで駆け巡った諜報員、言わば18世紀の”007”だったという説、もあります。パドヴァ大学で神学、教会法を学び神職を志しましたし、当時、フランスから世界に広まっていた自由思想に関心を持ち、ヴォルテールを訪問したり、彼と親交を持った人物には法王クレメンス13世、フリードリヒ大王、マダム・ポンパドール、ロシアのエカテリーナ2世などすごい名前が並びます。モーツァルトが1787年に発表した「ドン・ジョヴァンニ」の初演にも列席していたそうです。
 そんな彼の波乱万丈な人生については彼自ら書き残した「回想録」に様々なエピソードが語られ、しばしば映画にもなっています。1976年にはフェリーニが映画化し、ドナルド・サザーランドがカサノヴァを演じましたが、ヴェネツィアのファンタジックな世界を余すところなく描き、僕のお気に入りの作品です。
 そして、今年、カサノヴァを主役にした映画が新たに誕生しました。タイトルもそのまま、「カサノバ」です。監督は「ショコラ」でアカデミー賞に作品賞を受賞したラッセ・ハルストレム。カサノヴァを演じるのは「ブロークバック・マウンテン」で 注目されオスカー候補にもなったヒース・レジャー。
 先日、試写会でこの作品を見ましたが、とにかく映像が美しいです。ヴェネツィアが舞台というとキャサリン・ヘップバーンとロッサノ・ブラッツィ共演の「旅情」があり、オードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ぺック共演の「ローマの休日」と並んでご当地映画の名作ですが、このラッセ・ハルストレム監督の「カサノバ」はフェリーニの作品がセットを中心とした劇場空間的映画とすると、ハルストレム監督の作品はヴェネツィアや近郊のヴィチェンツァなどのロケ撮影により、ヴェネツィア王国時代の魅力を存分に見せてくれるので、ヴェネツィアをこよなく愛する者としてはその美しい映像だけでも賛辞を送りたい作品です。カルネヴァーレの時期にヴェネツィアを訪れ、カフェ・フローリアンやサン・マルコ広場でその華麗で幻想的な美しさを体験した方なら、必ずやこの映画を見て想い出をさらに深くするでしょうし、まだヴェネツィアには行ったことがない方はぜひこの映画でヴェネツィアの魅力を楽しんで下さい。きっと、すぐにもヴェネツィアに行ってみたくなるでしょう。
 もちろん、カサノヴァの波乱万丈な恋物語がこの映画の主題ですが、実はこれまで作品と異なるのは、カサノヴァが世に言われるような単なる女たらしではなく、とても知的で感性豊かゆえに、あまねく女性たちに愛される、そしてついには永遠の愛を決心させる女性と出会い、彼女のために命がけの冒険を展開するというものです。この映画によってまた新たなカサノヴァ伝説が誕生し、男性なら一度はこんなカサノヴァのようになってみたいと思うでしょうし、女性はこんな男と恋をしてみたいと夢を抱かせる映画です。

映画「カサノバ」(配給:ブエナ ビスタ インターナショナル)は6月17日から全国ロードショー。東京都内では新宿・テアトル タイムズスクエア、シネセゾン 渋谷、銀座テアトルシネマで上映。なお、藤沢の湘南オデオン座内”藤沢キネマ88”では映画に会わせて僕の写真展とトークショー(6月23日午前11時予定)を 開催し、またイタリアワインなどを楽しめるバールもオープンします。http://www.cinemabox.com


ヴェネツィアのカルネヴァーレではまさにカサノヴァの時代を蘇らせた雰囲気を楽しむことができますし、リアルトにある居酒屋”Do Spade(ド・スパーデ)”はかつてカサノヴァが美女と連れ立ってしばしば訪れ二階へ上がって行ったという伝説があります。ちなみに、ド・スパーデとは「二つの剣」という意味で、この居酒屋の手前にある小さな橋の上で、ひとりの美女を奪い合って騎士が決闘したのでこの名前が付きました。この界隈のヴェネツィア貴族の家柄の友人の家に招かれた機会がありましたが、映画の世界とまったく同じ、豪奢なものでした。この貴族の名前は非公開にしてくれとのことです。

カサノヴァは1755年に宗教裁判で異端の罪で裁かれ牢獄に入れられたことがありますが、この牢獄はヴェネツィアのサン・マルコ広場に面したドゥカーレ宮殿から”嘆きの橋”を渡った建物にあります。”鉛の牢獄”とも言われ脱出不可能と思われていましたが、カサノヴァは5年後にその鉛の屋根に穴を開けて脱出したと言われています。現在、日本では「カサノヴァ回想録」は全て絶版となってしまったようです。先週、神保町の古書店で河出書房から出ていた全6巻を見付けて買いましたが、フランス文学者、窪田般弥がフランス語から訳したもの。挿画は幻想絵画の巨匠、古澤岩美です。サイトで調べると河出書房からは挿画が池田満寿夫によるものも出ていたそうです。ちなみに岩波文庫でもありますが、こちらの方が高価でした。理由は文庫の方が小さくて人気があるそうです。もちろん、ヴェネツィアにはさまざま本が今でも出版されています。写真にあるのはFilippi Editoreという地元の出版社のものです。


ヴェネツィアで書店を営む親友、ルイジ・フリッツォは自称、現代のカサノヴァ。お腹がでっぷりと突き出た60歳のオヤジですが、本当にいろいろな女性にもてていま す。イタリア語はもちろん、フランス語、ドイツ語、英語を流暢に操るインテリです。また、ヴェネツィアでアパートや短期滞在のレジデンスなども紹介してくれます。書店はオステリア、アル・マスカロンのある路地を行けば見つかります。彼のところにもたくさんのカサノヴァの本がありますし、運河に面した小さなバルコニーが あって、そこでは大好きなワインを一緒に楽しめる空間になっています。ヴェネツィアの運河の水音を聞きながらカサノヴァの本を読み、ときおりワインも飲むなんて贅沢な時間を過ごしたいですね。

2006年04月26日

ミンモ・イョーディチェ写真展


イタリアの著名な写真家、ミンモ・イョーディチェ(Mimmo Jodice)氏の写真展が九段のイタリア文化会館で4月27日(木)から6月25日(日)まで開催されています。
 1934年、ナポリのサニタ地区に生まれたイョーディチェは現代写真界において、常に挑戦的な作品を発表し写真概念に新風を吹き込む写真のひとりですが、1970年から1996年にかけては国立ナポリ美術学院でも教鞭をとり、写真界の指導的な立場にある写真家です。
 今回の写真展はイョーディチェが長年探求してきた「地中海の神話」をテーマにした作品

で、生誕地のナポリはもとより、ヨルダンなどイタリアの国境を越えて地中海沿岸のギリシア、ローマ遺跡を主な被写体に撮影した作品が展示されています。
 作品は露光中にズームミングを加えるなどの手法よって起るブレなどを応用し、石やブロンズの彫像があたかも生きているかのように、内面から光を放ち、神秘的な光の輝き、太古と現代を結びつける時空間をみごとに表現しています。

「レンズを通して語る 地中海の神話」

会期:2006年4月27日(木)-6月25日(日)    11:00-18:00 (月曜休館)
会場:イタリア文化会館 千代田区九段南2-1-30 [入場無料]



ときどき優しい笑みを浮かべながら、自分の作品と地中海文化の奥深さと現代における意味を語るイョーディチェ氏。実は僕の兄弟分でもあるミラノの”IL FOTOGRAFO"誌の編集長、サンドロ・イョーヴィネとも旧知の仲。


オープニング・レセプションに訪れた人たちと気さくに歓談、また会場で配られた写真集にサインを求める人が続出すると、自らテーブルに座り、奥様と並んでサイン会を行いました。古代の遺跡との対話を重ねてきたイョーディチェ氏はコミュニケーションをとても大事にしている方ですね。写真はコミュニケーションの手段でもありますから。

写真展のオープニング・レセプションでスピーチする在日イタリア大使大使館のマリオ・ボーヴァ大使。大使はカラブリア州のご出身で、イョーディチェ氏の作品にもカラブリアで撮影された写真があります。



オープニング・レセプションでは写真展会場の地下の大ホールで、イタリア大使と同郷のカラブリア出身のエリオ・ロカンダからケータリングされた料理でビュッフェ・パーティもありました。イタリア食文化研究の第一人者である馬場裕氏ご夫妻やこのような機会でないとなかなか出会えない友人たちとも旧交を温めることができました。

2006年04月05日

歴史とみどころ ~ベルガモ~

ロンバルディア州の州都は言わずもがな、ミラノのですが、この州の他の都市はどんなところがあるでしょうか?よく知られているのがバイオリンの名機、ストラディバリウスが生まれたクレモナ、ヴェルディのオペラ、リゴレットの舞台となったマントヴァ、湖畔の別荘で知られるコモなどがありますが、ベルガモという町もなかなか魅力的です。ミラノからだと、中央駅なら列車やバスに乗れば1時間足らずで着きます。ベルガモは丘の上のアルタと下のバッサに分かれていて、鉄道やバスは下のベルガモ・バッサにあるので、そこからアルタに行きましょう。
 ベルガモはヴェネツィアとも深い関係があると言われていますが、まずこの写真の礼拝堂が建てられた人物、コッレオーニです。彼はベルガモ出身でしたが15世紀のヴェネツィア共和国時代に傭兵隊長としてヴェネツィアに雇われていました。ヴェネツィアのサンッティッシマ・サン・ジョヴァンニ・エ・パオリ教会前の広場には祖国ベルガモを向いた彼の騎馬像があります。その彼の死後、祖国に葬られ、この礼拝堂の中に娘とともに眠っています。この礼拝堂を設計したのはアマディオで1476年に完成しました。ルネッサンス建築の傑作のひとつです。また内部の小礼拝堂にはヴェネツィアの画家、ティエポロによる「洗礼者の生涯」が飾られています。


ベルガモ・アルタのヴェッキア広場にある泉。背景には公会堂のラジオーネ館があり、ヴェネツィアのシンボルであるライオンのレリーフがあります。この噴水はスペインのアル・ハンブラ宮殿にある噴水と良く似ていますね。

ベルガモ・アルタのメインストリート、ゴンビト通りには入ってみたくなるブティックや雑貨店、パン屋さん、カフェ、ワイン・バーなどが並んでいます。ここはワイン・バーの”Vineria Cozzi"ヴィネリア・コッツィ。ワインの品揃えもよくお薦めです。

2006年03月29日

マルティーナフランカ

プーリア州の町の多くは建物が白い漆喰で塗り固められていたり、とにかく雪景色のように白いですね。オストゥーニ、チステルニーノ、ファサーノ、ロコロトンド、そして尖がり帽子のような屋根のトゥルッリで有名なアルベロベッロの家も壁は漆喰で白く塗られています。この写真の町、マルティーナ・フランカもやはり白い町です。
 マルティーナ・フランカは13,4世紀にこの地方を支配していたアンジュー家のフィリップ・ダンジューが、新しい都市建設のために、この地に移住する者には免税する条件を出して町造りをさせたところで、“フランカ”というのは“免税”を意味しています。そして18世紀になると町のあちこちに裕福な階層の人たちも住み始め、町のかしこにりっぱな宮殿や教会が建てられました。この写真の教会もそのひとつ、バロック様式のファサードが美しいサン・マルティーノ教会です。




アルコ・マストロヴィト通りの家並み。右の路地を入っていくと、次の写真ようなシーンに出会いました。 左手のトラットリア、ヴェッキア・ラーマもお薦め。





















プーリアの都市は路地歩きも楽しいですね。迷路のように複雑な路地、白く塗られた壁がより幻惑します。町は小さいので迷子になっても不安はありません。角を曲がり、アーチや家の下を潜るトンネルを抜けるたびに変化する光景を楽しみましょう。























マルティーナ・フランカの町を案内してくれた友人、カルロ・チェントローネとガールフレンドのマリア・ロザリア。カルロの父は町の名士で、パーク・ホテル・サン・ミケーレを経営している。

2006年03月10日

歴史とみどころ ~アーゾロ~

イタリアには日帰りでもちょっと訪ねてみる価値のある小さな町や村がたくさんあります。また、そういう小さな町の魅力にとりつかれると、何度でも訪れたくなるし、住んでみたいと思い、ついにそこの住人になってしまう人も少なくありません。北イタリアのヴェネト州にあるアーゾロもそんな町のひとつです。
 ヴェネツィアから北西へ車で小1時間も走れば丘の上の瀟洒な佇まいのアーゾロに着きます。15世紀にヴェネツィア貴族の娘、カテリーナ・コルナーロがキプロス王に嫁ぎ、王妃となったのですが、王が死ぬと彼女はキプロスを祖国ヴェネツィアに売り渡し、この町に移り住みました。そして画家や音楽家などを招いては芸術に囲まれた生涯を送ったのです。
 ヘミングウェイもこの町を愛しましたし、イギリスの詩人、ロバート・ブラウンニングはこの町に住み、通りにその名を残しています。三島由紀夫が敬愛した、詩人であり作家のガブリエーレ・ダンヌンツィオも愛人のエレオノーラ・ドゥーセとともにこの町に住んでいました。ドゥーセは死後はこの町に葬られたいとさえ望んでいました。百の眺望を持つとも言われる、丘の上の町、アーゾロは芸術家たちを引き寄せる魅力と不思議な力、それはカテリーナ・コルナーロの魂が今も息づいているのでしょうか。

曲線を描きながらアーケードが続くブラウニング通りにはブティックや居酒屋など並び、観光客も地元の人と一緒になってこの町の暮らしを楽しんでいます。春先にはこの地方の名物、白アスパラガスの料理を楽しめます。


家々の窓には花々が飾られ、この町の人々がいかに自分の住むところをいとおしんでいるかが伝わります。近郊のポッサーノに生まれ、18世紀から19隻に活躍した新古典主義の彫刻家アントーニオ・カノーヴァのなお付した坂道があります。



カノーヴァ通りにあるパン屋さん。薪を使った石窯で毎朝焼かれるパン。パンの香りに引かれて買い、散策しながら食べた時の味わいが忘れられません。

2006年03月01日

歴史とみどころ ~ローマの噴水 その2~

 ローマという都市は不思議な力を秘めていると思います。世界の道はローマに通ずと言われたほどですが、たしかにローマを一度でも訪れてみると、その記憶は永遠に生き残り、残像はいつも鮮明です。もちろん、個人個人の体験と印象によって違うのでしょうが、僕にとってのローマはイタリアとの最初の出会いであり、今も兄弟のように付き合っている写真誌の編集長もローマっ子だし、ローマに行くといつでも懐かしい匂いを感じます。それは常に子供の頃の記憶と繋がっていて、当時は東京でもあちこちに井戸水がありました。真夏の太陽の下で真っ黒に日焼けして遊んでいた頃、喉が渇くと必ずその井戸のポンプを押して水を汲み上げ浴びように飲んだものです。ローマの泉からこんこんと湧き出る水を飲むといつもその記憶が蘇るのです。
 ローマの散策で一番多く出会うのは教会と広場、そして広場にはほとんど必ずがあります。あるいは道が分かれるところなどにもあります。僕がローマに滞在するときに必ずや訪れる場所があります。それはピアッツァ・マッテイという小さな広場で、そこには「亀の噴水」と呼ばれる噴水の傑作があります。この噴水が制作されたのは16世紀の後半で、初めの作者は当時の天才的な噴水の設計者であったジャコモ・デッラ・ポルタです。4人の青年が支えている水盤を見ますと、そこに4匹の亀が水盤の中によじ登ろうとしています。この亀はこの噴水が作れてから100年ほど経てから無名の作者が付け加えてものだそうですが、この噴水はこの亀によって「亀の噴水」と呼ばれているのです。
 僕がこの噴水を見に行くときは、この場所にすぐ行くことはありません。その前に、カンポ・デイ・フィオーリに行き、マルチェッロ劇場のあたりを歩き、テベレ川の中洲にあるティベーリナ島からゲットーとシナゴーグのあたりまで来ると、足は自然とこの噴水のあるマッテイ広場に向くのです。そして、その小さくて静かな空間のなかで、噴水の穏やかな水音を聞きながら4匹の亀を見たり、噴水の周囲をゆっくりと回って、自分が立つ位置によって背景の建物との関係が変化する噴水の見え方、さて、今日はどのアングルから撮影しようかなどと思いつつ、しばしの休憩をするわけです。


ローマを訪れて何度目かで、友人たちにエスプレッソが一番美味しいのはエウスタキオというバールだと教えてもらいました。すると、ローマに行くたびに日に2,3度はここでエスプレッソを飲むようになりました。パンテオンを正面に見て右側の道を右手に抜けていくとサンテウスタキオ(Sant'Eustachio)教会があります。歴史はとても古く、初期キリスト教時代からの教会で、中世に守護聖人として聖エウスタキオを選びました。聖エウスタキオはローマ時代の軍人でしたが、狩に出た時に頭部に十字架のある鹿を見て改宗しました。その向かいにカッフェ・エウスタキオがあります。そして、この広場の脇に鹿の頭部と本がデザインされた泉があります。この噴水は20世紀に入ってからのもので、ピエトロ・ロンバルディのデザインです。鹿の頭部の上の両脇には書物が重ねられていますが、この書物は近くにローマ大学の学部があったパラッツォ・サピエンツァがあったので、学問のシンボルとしてデザインされてます。ローマの友人はこの泉の水を飲むと頭が良くなると言っていましたので、僕も飲みましたが、果たして・・・

この泉は古代の演劇の仮面をモチーフに1627年に作られ、”仮面の噴水”と呼ばれています。ローマでも魅力的な通りのひとつと言われているジュリア通りにあります。この通りには現在はフランス大使館が置かれているファルネーゼ家の館があり、この仮面の泉の上にはファルネーゼ家の紋章の”百合の花”が飾られています。ファルネーゼ家は祝いの時にはこの泉からワインを流したそうです。ファルネーゼ館の裏手にカンポ・デ・フィオーリがあり、朝市が賑わいます。この広場にはドイツの物理学者、ファーレンハイトの名前が付いた書店があって、写真や映画、演劇関連の本が充実しています。広場には”カルボナーラ”というレストランやワイン・バーなどもあり、朝から夜まで楽しめます。

2006年02月23日

歴史とみどころ ~ローマの噴水 その1~

 古代ローマ時代の遺跡とサン・ピエトロ大聖堂のあるバチカン市国もある永遠の都、ローマは実は水の都でもあるのです。水の都はヴェネツィアでしょう、と思いますが、あちらは海と運河の水で100万円もらってもその水は飲む気になりませんが、ローマの水は、街のあちらこちらにこんこんと湧き出る泉で、中には飛び切り美味しいと評判の泉の水もあります。レスピーギの交響詩にも「ローマの噴水」という有名な曲がありますね。噴水はイタリア語ではフォンターナ(Fontana)といいます。ミネラル・ウォーターの水を採る泉はソルジェンテ(Sorgente)です。
 ローマの噴水と言うと、まず浮かぶのは「トレヴィの泉(Fontana di Trevi)」ですね。右手にコインを持って泉に背を向けて、左の肩越しに投げ入れると、再びローマに戻ることができるとか。ところで、この泉の水はいったいどこから来ているのでしょう。古代ローマ人は水道設備の技術も素晴らしく、アックアドットと呼ばれる水道橋の建設にも歴史に残る偉大な仕事をしていました。「トレヴィの泉」の水は、ローマからナポリ方面へ向かったところ、今では白ワインの特産地として知られるフラスカーティ(Frascati)近くのトゥスコロ(Tuscolo) というところから引かれています。ローマのサン・ジョヴァンニ門のところからトゥスコラーナ通りが伸びていますが、この辺りには、ナポリに向かう列車の車窓からでも壮大な水道橋を見ることができます。
 中学生の美術の時間にアグリッパという石膏像のデッサンを勉強した記憶がありますが、そのアグリッパがこのトゥスコロの水道橋工事を監督した人で、ロトンダ広場のところにあるパンテオンもアグリッパが建設したものです。トゥスコロの水道は2本に分かれて引かれていて、1本はユリア水道と呼ばれ、もう1本はヴェルジネ(処女・乙女)水道と呼ばれています。このヴェルジネ水道がピンチョの丘から地下を通ってコルソ通りを横切り、コンドッティ(Condotti)通りの下を流れトレヴィを始めたくさんのローマの泉から溢れ出ているのです。ちなみに、コンドッティとはコンドッタ(水道管)からきた言葉です。「トレヴィの泉」は17世紀に噴水の設計で著名だったジャコモ・デッラ・ポルタやバロック彫刻の巨匠、ベルニーニら天才的な芸術家たちの手によって修復と改修がなされ、18世紀なってクレメンス二世がコンペティションを開催したとき、それに応募したニコラ・サルヴィのデザインが採用され現在の姿に生まれ変わりました。彼は1731年ごろから工事を始めましたが、途中で病に倒れ1751年に他界し、泉が完成されたのは1762年のことです。


サン・ジョヴァンニ門から古代ローマの城壁を出たところにあるクラウディオ水道。今も水道が流れていて、壊れて小さな穴が開いたところから清んだ水が流れて小さな池を作っていたりします。この辺りには羊の牧場などもあります。ローマの町を囲む城壁は同時に水道橋の役目をもったものなのです。

ローマに行ったら、ぜひ夜のライト・アップされた噴水も観賞して下さい。冬の季節は観光客も少なく、とりわけ夜はゆっくりとその美しさを楽しめるでしょう。



アグリッパが建設したパンテオンの向かいにあるロトンダ広場の噴水。17世紀にジャコモ・デッラ・ポルタが設計したが、18世紀の初頭に改変されているそうです。この写真は1980年代の終わりに撮影したものですが、僕にとってはローマの中で一番気に入っている噴水です。イルカの顔がキモカワイイ感じですね。

2006年02月20日

歴史とみどころ ~ヴェネツィアのカルネヴァーレ~

 アメリカの作家、アーネスト・ヘミングウェイの作品に「移動祝祭日」というのがあります。この本を初めて見たときにはいったい何のことかと思いましたが、調べてみると毎年日にちが変わる祝日のことでした。例えば「春分の日」や「秋分の日」がそれです。イタリアでは「復活祭」がそれにあたります。では、なぜ移動するのかというと、復活祭はその年の春分の日の後の最初の満月の後の日曜日とされているからです。つまり、春分と日も満月の日も変わるので復活祭も変わるわけです。

 ところで、ヴェネツィアでは明日からカーニバルが始まります。実際にはもう今週あたりからカーニバル気分で、サン・マルコ広場にはすでに思い思いの仮装をした人たちがあちらこちらに見られるでしょう。イタリア語ではカルネヴァーレといいますが、この開催日も復活祭と関係して毎年開催日が変わります。復活祭の前の40日間をクワレジマ、四旬節といい、この時期は肉を食べてはいけないことになっています。
 キリスト教を信仰するところはみなそして、肉を食べてはいけない四旬節の前に、ドンチャン騒ぎをして飲み食いに明け暮れるというのがカルネヴァーレで、四旬節前にたっぷりと肉を食べておこうというわけです。ブラジルではサンバに合わせて肉体美を露わにした美女達が踊りまくりますが、ヴェネツィアのカルネヴァーレでは豪奢な館の中で仮装舞踏会が開かれたり、仮装した人たちが、サン・マルコ広場などで自分達の衣装を披露して我々の眼も楽しませてくれます。また、ヴェネツィアではクリスマスの翌日の聖ステファノの祝日から始まるとされているそうです。かなり長い期間ですね。
 仮装を楽しむのはヴェネツィア人ばかりでなく、むしろミラノやヴェローナあるいはフランスやドイツ、アメリカなど海外から来た人の方が多いようです。僕の友人達も子供の頃はやったけど、大人になったら観光客たちのお祭りだと思って自分達はなにもしないなどとクールな感想でした。しかし、年々、派手なイベントもあるようで、この時期はホテルの予約なども大変ですね。
 共和国時代はかなり派手に行われていたようですが、近代は度重なる戦争やイタリア経済の低迷で、お祭りを楽しむのは子供くらいなものだったそうです。現に、僕がイタリアに行き始めた70年代は今とは比べ物にならないほど地味でした。カルネヴァーレが現在のように派手なお祭りになったのは実は80年代後半になって観光的な行事として復活させようという行政の目論見があったからです。初めてカルネヴァーレの写真を撮りに行ったのは90年で、それは物静かでヴェネツィアに相応しい情緒に溢れたものでしたが、それから数年するとかなり派手で騒々しくなりました。衣装も共和国時代の趣のあるものだけでなく、現代の映画のヒーローや外国の民族衣装など様々になってます。

カルネヴァーレの仮装はたいがいは工夫を凝らした手造りのものですが、観光客には貸衣装屋さんもあります。また、仮面は伝統的なものが多いのですが、中には素顔のままで充分に魅力的な人もいますね。


サン・マルコ広場にあるカフェ・フローリアンは1720年創業の老舗。カルネヴァーレの期間は時代的な衣装の人々で溢れるが、共和国時代を偲ばせる雰囲気が観光客を楽しませている。奥の白い仮面が男性用のバウッタと呼ばれるもの。

2006年02月16日

歴史とみどころ ~トリノ~

 クーベルタン男爵が「参加することに意義がある」と宣言して誕生したオリンピック、その冬季大会がトリノで開催されていますね。日本の選手達もクーベルタン男爵の掲げた理想にどうりの結果をだしているようです。さて、そのトリノ、すでにオリンピック報道のついでにいろいろと紹介されていますので、ようやく日本でもイタリアの何処にあるのかぐらいは知られるようになりました。トリノと言えば、自動車産業の町、フィアットの本拠地です。ローマやミラノ、ナポリには地下鉄があるのにイタリアの中でもいち早く近代産業が発達したトリノに未だ地下鉄がないのは、フィアットのオーナー、アニェッリさんが、地下鉄を通すと、車が売れなくなるから嫌がった、などという笑い話を聞いたことがあります。その自動車産業もガソリンの高騰や大気汚染で大きな転換期を迎えているのではないでしょうか。
 トリノには3回行ったことがあります。いや、3回しか行ったことがないというべきか。数十回も通っているヴェネツィアに比べるとトリノはミラノやフィレンツェ、ローマよりも訪れる回数は少ないのですが、印象はとても深く、どちらかというとミラノよりも気に入っています。それは落ち着いてエレガントな街並みとそこに住む人々が、大都会でありながら、とても親しみ易い優しさを感じるからでしょうか。トリノには2月14日のバレンタインにチョコレートを恋人に贈るとかありませんが、その代わりいつでもとびきり美味しいチョコレートが食べられるし、ビチェリンというコーヒーとヘーゼルナッツ風味のチョコレートが出あった素敵な飲み物もあります。
 ビチェリンは1852年にサルデーニャ王国の首相となったカヴールのために作られたのが始まりと言われていますが、1861年に統一イタリア王国の首相にもなったカヴールです。トリノは1870年にローマが王国に併合されるまではイタリアの首都でもありました。日本の明治維新が1868年ですから、イタリアと日本の歴史的な歩みは多分に似たところがあると思います。世界は産業の近代化へと邁進していましたが、自動車や鉄鋼など様々な産業が発展する中で、安い労働賃金で働く労働者を得るために、南部は政策的に貧困を強いられていたようです。それまで王国の栄華に酔いしれていたシチリアやナポリ王国と逆転したわけですね。


トリノの人口は100万人弱。町のすぐ外にはポー川とドーラ川が豊かな水源となり肥沃な土地の田園が広がります。町の中でひときわ目立つ建物が写真の右手に見える尖塔、高さ165.15mのモーレ・アントネッリアーナで、1897年に完成し、現在は映画博物館になっています。また、世界的に高く評価されているエジプト博物館もあります。


ストゥピニジ宮殿:1729年にサヴォイア家の狩のための宮殿として、ヴィットリオ・アメデオ二世の要望で建設された。設計はフィリッポ・ユヴァーラで、フランチェスコ・ラダッテ作の鹿のブロンズ像が屋根に立っている。

2006年02月10日

歴史とみどころ ~カゼルタの宮殿~

ナポリ近郊、北へ30kmあまり離れたところにカゼルタがあります。18世紀に建設された王宮は1997年、世界遺産に登録されました。当時のナポリ王国を統治していたカルロ7世の命によりルイジ・ヴァンヴィッテリが設計した王宮は、フランスのヴェルサイユ宮殿を手本に作られています。建設工事が始まったのは1752年(筆者が生まれる200年前)ですが、設計者のヴァンヴィテッリは1773年の3月に亡くなります。建設はヴァンヴィテッリの息子カルロによりその後も続けられて着工からおよそ30年後にほぼ完成しました。横幅240m、奥行き190m、高さ41.5mの王宮は俯瞰して見ると感じの「田」の字型に造られ、1200室もあるという宮殿内部は豪華絢爛の一言に尽きますが、あまりに多くて見て歩くだけでも疲れますね。やがてあくびが出そうになり、もう、そろそろ外の空気が吸いたいなと思ったら、宮殿から3km先にある滝と泉を往復するバスに乗り、緩やかな坂道を一直線に登ります。泉までの階段状になって流れ落ちる池にはマスが泳いだりしています。ブルボン王朝の栄華は1860年、イタリアが統一されるまで続きました。

宮殿の入り口に立つと総大理石の階段と高い天井に圧倒されます。それをまた2頭のライオン像が出迎えますが、顔はどことなく泣きっ面ですね。この階段の中央正面にはライオンにまたがったカルロス7世の像があります。

第3広間にあるパラティーナ図書室。壁に掛かる絵画は王妃、マリア・カロリーナの希望によるものでドイツ人画家、ハインリッヒ・フリードリッヒ・ファーガーの作品。絵柄は、パルナッソス神殿のアポロと三美神やアテネの学堂などが描かれている。1768年に完成したこの図書室には14,000冊の書籍がある。


王宮から3kmの道を登ると人工の滝と泉があります。この彫刻の中央は女神ディアーナとアクタイオン。泉はこの彫刻にちなんで「ディアーナとアクタイオンの泉」と名づけられています。

2006年02月06日

歴史とみどころ ~ナポリ その3~

 ガッレリア、フランスではパサージュと呼ばれていますが、イタリアではミラノのガッレリアがつとに知られていますね。正式にはヴィットリオ・エマヌエレ二世のガッレリアと呼ばれるミラノのガッレリアは1878年に完成し、ナポリは1890年です。ナポリの方はウンベルト1世のガッレリアと名づけられています。すでにイタリアの中心となっていたミラノに追いつこうとしていたナポリの意気込みを感じませんか?ガッレリアの1階にはブティックやカフェ、電気店など様々な店舗が入っていますが、ミラノのような一流ブランドショップやレストランがひしめいているという感じではなく、ちょっと寂れた感もありますが、むしろ広々とした空間で、カフェもゆったりできます。時々、中心にステージが作られてコンサートがあったり、いつぞやはアルゼンチン・タンゴ愛好会の人たちがダンス・パーティを開催していて、通りすがりの人が飛び入りで踊ったりしていました。

 2階は住居や事務所になっていて、今はナポリ大学で教授をしている僕の友人がこの2階に済んでいたことがあり、中へ入ったことがあります。こんなところに住んでいるなんてすごいと思いましたが、彼女の父親は弁護士でした。それなりにステータスがある人たちが住んでいるのでしょう。もっともナポリではステータスのある人たちの多くはヴォメロの丘の上に家を持っている場合が多いのです。メインストーリのトレド通り側の出入り口の正面にはヴォメロの丘に登れるケーブル・カーの停車場があり、陶磁器コレクションを観賞できるヴィッラ・フロリディアーナのすぐ近くに到着します。また、ヴァンヴィテッリ広場から続くチレア通りなどもショッピングを安心して楽しめます。この通りの189番地にガイ・オディン(Gay-Odin)という1894年創業のチョコレートの老舗があります。こうしたナポリ情報は今月22日にソニーマガジンズから発売される"Gokutabi ITALIA"で詳しく紹介されますので、どうぞお楽しみに!


ナポリのガッレリアにたむろして物乞いをするジプシーたち。物乞いそのものは罪でもなんでもありません。時には巧みなテクニックでスリの技も駆使しながら、したたかに生きています。イタリア語ではズィンガリと呼ばれますが、彼らの人権保護を主張する団体もあり、ジプシーやズィンガリは差別用語であり、近年ではロマ族の呼称でその民族性の尊重を呼びかけ、同時に彼らが犯罪行為を犯さない生活環境を整えるべきだと呼びかけ、運動しています。犯罪が起きる前に、旅行者も自己管理、自己責任の意識を持ちましょう。

ガッレリア・ウンベルト1世をトレド通りから撮影していたら、とつぜん可愛い女の子がカメラの前に「あたしを撮って!」と可愛い笑顔が現れました。ナポリっ子は天性の人懐っこさでこんな楽しいハプニングもあります。

2006年02月03日

歴史とみどころ ~ナポリ その2~

 昨年の夏、パレルモからフェリーに乗ってナポリに入りました。ヴェネツィアにしても、ジェノヴァにしても、港町に入るときにはやっぱり船に限るなぁ、と実感。パレルモから10時間、昼から波頭が白く見えていたので今夜はかなり時化ると覚悟していましたが、案の定けっこう大きな船でしたが時々まともに立っていられないほど揺れました。それでも一緒に乗っていたイタリア人たちは陽気でワインやビールを飲んで酔っ払い、デッキで盛り上がる一群もいたほど。僕もシチリアでゲットしたワインを旅の仲間と飲んで、1杯が2杯に感じる気分のまま(実際は3杯くらい飲んでましたが)ベッドに入りました。
 目を覚ますと船窓の外に星明り、水平線に目をやると地上にも星がキラキラ輝いていました。ナポリの町の灯です。船がアンジョイーノの桟橋に着く頃には、ヴォメロの丘に建つサン・マルティーノ修道院が見え、その手前にジョリーホテルがひときわ高く見えてます。湾内は波ひとつなく静かに町明かりを映していました。
 そのかみ、ギリシア人が築いたパルテノーペはネアポリス(新しい都市)となり、ローマ人の支配に受け継がれ、再び6世紀にビザンチン・ギリシアの支配下となり、12世紀になるとノルマン朝に下ります。前回に紹介した卵城はこの時代に築かれたものですが、その後にアンジュー家がパレルモから進出してナポリとシチリアの統一王国を築き、それからの支配者はスペインのアラゴン家、ブルボン家へと変遷しました。この間にわずか27年間ですがオーストリア支配がありましたが概ねはスペインの統治下に置かれました。一番人通りが多いガレリア前の通りがトレド通りと呼ばれるのもその名残。
 ナポリの人たちがお上をさほど信頼せず、なおかつイタリアの何処よりも陽気な気質を育ませたのは、スペイン支配の時代に、キーワードとなった3つの”F"から始まる言葉に象徴されます。ひとつは小麦を意味するファリーナ、2つ目がお祭りのフェスタで、ナポリ人は食べることとお祭り騒ぎでお気楽な気質に改造され、体制に刃向かう者には、3つ目の絞首刑、フォルカで抑えられていたのです。ナポリ王国の最盛期で、現在の町の姿はこの間に築かれました。
 しかし、ナポリが栄光の時を甘受できたのはこの時代までで、それ以降は衰退の一途をたどり、1861年にイタリアが統一され国家の中枢が北に移ると、ナポリはすっかり落ちぶれてしまいました。
 それでもナポリが魅力的なのは、かつての栄光の時代築かれた街並みと下町の人情にも通じるナポリ人の人懐っこい性格が旅行者を楽しませるからです。3つのFのうちふたつは今も健在というわけです。つまり食べることとお祭り騒ぎが大好きなのです。1994年にナポリでG7によるサミットが開催され、この頃から新しい方向へ向かって、変革し始め、新時代の夜明けを迎え、訪れる度に新しい発見があります。

この広場はトリエステ&トレント広場と呼ばれているところ。噴水の後ろにある教会は1622年に建設されたサン・フェルディナンド教会。1919年まではサン・フェルディナンド広場と呼ばれていました。この広場を右へ行くとガッレリア、ガッレリアの向かいがサン・カルロ劇場です。太陽の都市、ナポリは夜もまた魅力的です。しかし、油断は禁物。

トリエステ&トレント広場にある小さな売店。だいぶこぎれいになったが、数年前まで、この写真に写っている男の母親がやっていて、カウンターの台はひび割れて年季の入った大理石だった。名物のレモンソーダを注文すると、グラスにまず生絞りのレモン果汁にミネラル・ウォーターを入れ、次に重曹を小匙に一杯用意する。こちらがグラスに手を置くと、その重曹をさっと入れるとシュワ~と泡たち、その瞬間を飲む。食べ過ぎた時など胃がすっきりとする。

2006年01月31日

歴史とみどころ ~ナポリ~

 イタリアで好きな町はとこかと聞かれたら、それはローマとヴェネツィアのふたつと真っ先に挙げますが、その次はどこかと言えば迷わずナポリです。この町は昔から貧しいと言われてきました。路地は危ない雰囲気たっぷりだし、今でもカメラなんぞ首や肩から下げてあるいていると、親切な人が立ち止まって注意されたりします。聞くところによるとナポリの町中に住んでいる人がスリやひったくりをするのではなく、町の外や近郊に住んでいる人間がそういう犯罪を犯すことが多いとか。かつては僕も財布を掏られたことがあります。また、聞くところによると日本のツアーなどは危険だからとナポリの町は観光バスの中に乗ったままでガイドさんの説明を聞いて終わるとか。それをナポリの友人に話したら、「俺達はライオンや豹じゃないし、ナポリはサファリ・パークなんかじゃないよ。しかし、それも仕方ないな。俺達だって町中を歩くときには油断できないし、貴重品なんか持ち歩かないから。君もカメラにはくれぐれも気をつけてくれ」言っていました。でも、そんなことにびくびくしていたらこの町の本当の良さは分りませんね。だから、とりあえずは貴重品や大金など、何も持たずに歩けばいいのです。
 そしてまずはナポリ湾に突き出たこの写真のお城、「卵城」に行きましょう。なぜ「卵城」と呼ばれるのかと言うと、魔術師ウェルギウスがこの城のどこかに卵を隠したが、その卵が壊れたときナポリも崩壊すると予言したからとか、12世紀にノルマン王、ルッジェーロ二世が建設したときに卵型をしていたからという説があります。メルジェッリーナの方から朝日を浴びてシルエットになる姿もなかなかいいですね。城の左側に降りていくとレストランやピッツェリア、バールなどがあり、夜も人で賑わうところなので、ホテルを向かいのサンラ・ルチアやヴェスヴィオ、エクセルシオールにとれば夜の散歩も比較的安全に楽しめるでしょう。だんだんと町の雰囲気に慣れてきたら、サンタ・キアラ教会やスパッカ・ナポリを歩いてみます。
 そうして2,3日でもこの町に滞在したら、もうあなたもナポリの虜になるでしょう。ナポリはけっして泥棒の町ではないのです。もっと、素敵な女性はハートを盗まれないように注意して下さい。日本人は被害に遭いやすいそうですから・・・



ナポリの卵城の向かいに建つサンタ・ルチアホテルとナポリ銀行に挟まれた道のすぐ脇にあるバール・オッフィチーナ。 夜になるとブルーのライトがきれいなモダンな内装の店です。向かいの銀行のところにタクシー乗り場があって、よくドライバーが休憩しています。


バール・オッフィチーナのオーナー、マリオ(Mario Auletta)さん。なかなかインテリで数年前の取材でサンタ・ルチアホテルに1週間ばかり滞在した時に毎晩通って仲良くなりました。彼は98年に「Menu」というタイトルの詩画集を出しましたが、洒落た色使いの水彩画がアイロニカルでユーモアたっぷりの詩に添えられています。いろいろなカクテルを作ってくれますので、ナポリに行ったおりにはぜひ僕の友人だと言って寄ってみてください。


バール・オッフィチーナの主人、マリオ・アウレッタさんが98年に出版した詩集「Menu」は食べ物をテーマにした詩ですが、二重の意味を織り込んであるというその言葉はすべてナポリ方言でかかれているので、僕には読めません。でも、もし日本でこの翻訳本を出してくれる出版社が見つかれば彼は喜んで僕にまかせると言ってました。ちなみに、このレモンが描かれているページの詩は恋人との愛をうたっているようです。

BAR OFFICINA
VIA SANTA LUCIA 169 NAPOLI
TEL:081・7647171

2006年01月20日

歴史とみどころ ~ヴェネツィアの家~

 水の都、そして今は世界遺産としてもますます観光客の人気を集めているヴェネツィア。美術館や教会には芸術のお宝に満ち溢れ、冬のカーニバル、春の競艇、ヴォガロンガ、夏の終わりのレガッタ・ストリカなど年間の行事も充実している上に、なによりも水の上に浮かんだような不思議な光景がこの都市の最大の魅力である。近年の温暖化で毎年冬に発生するアックア・アルタという洪水も年々、回数も多くなり、水位も高くなっている。冬もまたヴェネツィアならではの味わいがあり、この町を訪れるなら僕は冬が一番お薦めだが、アックア・アルタをも楽しんで欲しい。
 この町でもっともやっかいなのが物価の高さ。ヴェネツィアに住んでいれば水上バス利用などもカルタ・ヴェネツィアという定期券のようなものも利用できて、かなりの割安だが、観光客にとってはホテルがまず高い。一人旅が多いので、シングル・ルームは割高になるし、というわけで最近は友人が紹介してくれたレジデンスや友人の家のひと部屋を間借りする。それならばホテルの半分くらいの部屋代ですむ。複数のグループで行くときには2、3室ある家を1軒まるごと借りて、シェアするのがいい。キッチンも使えるので、市場を歩いて、食べたい魚介や野菜類を買って自分で調理もできる。
 この写真の部屋はサンタ・マリア・フォルモーザ教会とサン・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会の中間にあり、大家はサンタ・マリア・デイ・ミラーコリ教会のすぐ脇の広場で書店を営んでいる。ヴェネツィアへ着くと、まずその書店に寄って、大家から鍵を受け取る。キーホルダーには建物の外の鍵、中へ入って会談を4階まで上がって家に入る鍵、そして自分の部屋の鍵と3つある。しかし、少ない方で、ローマやフィレンツェ、ミラノなどでは家に入るだけでに2つや3つの鍵が普通である。だから、自分の部屋に辿り着くまでに鍵を5、6個使うことも珍しくない。そして、鍵を受け取れば、そこはもう我が家同然となる。外でどんなに遅くまで飲んで帰ろうと安心というわけだ。

部屋は20畳くらいある大きさだがシャワーしかない。まあ、慣れればどうということはない。それよりも、見あげるほど大きな窓から外を見下ろせば下には運河と橋が見えて、ヴェネツィアの情緒満点だ。


窓の下の運河をゴンドラが頻繁に通る。時折、歌い手の乗ったゴンドラが通ると、朗々とした歌声がよく響いて楽しい。

夜、自分の部屋のある建物を見上げてみた。右側の4つのアーチの並んでいる窓の上に部屋がある。

2006年01月18日

歴史とみどころ ~アルベロベッロ~

 アルベロベッロ、なんだか舌を噛みそうな名前の町ですが、日本語に訳せば「美しい木」です。なのに、この町の魅力は石を積み上げて作られた円錐形の屋根の家々です。この家はトゥルッロと呼ばれますが、この町の周辺に多く見られるちょっと変わった建物です。アドリア海沿岸の南に位置するプーリア州もまたギリシア人が住んだりしていましたが、この地方に多く見られる漆喰で塗り固められた白壁もギリシア文化の影響でしょう。その後、ノルマンやスペインのアラゴンなどの支配をうけていました。トゥリッリ(トゥルッロの複数形)はこの地方特産の石灰石を板状にカットしたものを積み上げたものですが、かつては壁を漆喰で固めることは許されていませんでした。領主は小作人たちが領内に家を建てることを禁じていたために管理人の見回りがあるとすぐに家を取り壊せるように造ってあったのです。近年ではこの石積みができる職人も少なくなり、田園の中には崩れかかったまま放置されているトゥルッロを散見します。
 トゥルッロの壁は板状の石を積み上げるため必然、分厚いものとなり、もっとも厚い部分では1メートルほどにもなります。そのため、外気の影響を受けることが少なく、夏は涼しく、冬は暖房があればとても暖かい室内になります。トゥルッリの家を宿泊施設にしたアグリトゥリズモを利用したことがありますが、見あげるとドーム型になった天井を見つめているとどこまでも高い空を見上げているような気さえします。アルベロベッロは観光客用のレストランや土産物屋が並ぶモンティ地区と静かな住宅地区、アイア・ピッコラに分かれていて、トゥルッリの不思議な雰囲気を味わうのなら後者の地区ですね。町の人はとても気さくで、話し掛けると家の中まで見せてくれますし、コーヒーをごちそうしてくれる人までいます。プーリアに行ったら必ず訪れたい町のひとつです。


トゥルッリの屋根には独特のマークが漆喰で描かれたりしています。それぞれ家の持ち主が自分の好きなマークを描くのですが、ほぼ写真のようなシンボルマークで、原始的な太陽信仰や木とか地母神信仰から来たものや、キリスト教からきたもの、そして古いギリシア文字にも似た呪術的なマークがあります。


近代的な産業が乏しい南イタリアでは若い人はローマやミラノなど大都会に出て、高齢化が進んでいます。アイア・ピッコラ地区を歩いていると、老夫婦がハーブを収穫してポプリなどを作っていました。

2006年01月06日

歴史とみどころ ~ペルージャの追憶~

 イタリアの中部にあるウンブリア州「イタリアの緑のハート」とも言われるように、森や緑の丘陵など田園風景はトスカーナと並び美しいところです。ローマからスポレート、スペッロ、アッシージ、ペルージャと列車の旅を続けると車窓からの風景はまさに絵のようで飽きることがありません。僕がイタリアに行こうと思った最初のきっかけは、そのペルージャを描いた石井柏亭という明治・大正時代に活躍した水彩画が描いた絵を見てからでした。
 ペルージャは近年ではサッカーの中田選手が最初に活躍したチームがあるところなので日本でも有名になりましたが、イタリアに興味を持ち、留学してイタリア語を勉強しようと思う人にとっては、外国人大学があることでも有名です。この町の歴史は古く、ローマ以前の先住民族、エトルリア人が大きな都市を築いていました。丘の上にある町のかしこにそのエトルリア人が築いた大きなアーチや城壁が残されています。この写真は石井画伯が描いたところを撮影したものですが、画伯の作品には「エトルリア」という題名が付けられていました。僕はこの「エトルリア」という言葉を聞くと郷愁のようなものを感じます。

ペルージャ大学の前にあるエトルスコ門を上がっていくチェーザレ通りから見える眺め。石井柏亭はこの下の階段から絵を描いていた。上の写真もこの階段からの撮影。

僕は85年まで画家を志していました。77年に初めてイタリアに行って、ペルージャの町を歩き、期待を裏切られない思いで、帰国後もこんな絵を書いていました。これは79年にペルージャの路地を描いたものです。

2005年12月28日

歴史とみどころ ~バッサーノ・デル・グラッパ~

 世界一の生産量を誇るワイン王国であるイタリア、そのワインを造るために果汁を搾り取った後の葡萄の皮、いわゆる絞り粕を発酵させ蒸留するとグラッパが出来ます。バッサーノは正式名称をバッサーノ・デル・グラッパと言いますが、そのグラッパの生産地としても名高いヴェネト州にある町です。アルプスから水を集めアドリア海のヴェネツィア近郊の町、キオッジャに河口があるブレンタ川がバッサーノの町の真中を流れています。その川の上にはルネサンス時代の天才建築家、アンドレア・パッラーディオが設計した屋根のついた木造の橋、アルピーニ橋が架かっています。また、その橋のたもとには地元の老舗のグラッパ蒸留会社、ナルディーニが運営するバールがあります。
 バッサーノ・デル・グラッパはグラッパだけでなく陶器の町としても知られ、ストゥルム館には紀元前から現代までのさまざまな陶器が展示されています。また、市立美術館には地元出身のヤコポ・デル・バッサーノや優美なヴィーナス像で知られる18世紀の彫刻家、カノーヴァの作品などが観賞できます。アルピーニ橋は最初1569年に建造されましたが、その後は戦災などで4度も再建されています。屋根のある橋と言えば、映画にもなったアメリカの小説「マディソン郡の橋」を思い出しますが、この橋はその元祖ですね。橋は車も通れる幅があり、人々はこの橋で待ち合わせをしたり、川を眺めながらパニーニを食べたり、ちょっとした広場のような役目もあります。橋からは正面にグラッパ山が見えます。


アルピーニ橋のたもとにあるバルトロ・ナルディーニのバール。ブレンタ川に面した壁面にはナポレオン戦争時代の弾痕が生々しく残っている。ヘミングウェイもしばしばこのバールを訪れグラッパを味わったそうだが、彼の小説「川を渡って木立の中へ」にもこのバールは登場する。


ワインのための果汁が絞られた葡萄の皮の山。すでに発酵しはじめて発熱し湯気がたっている。アランビックと呼ばれる蒸留器の源はアラビア人が発明したもので、イタリアには中世に錬金術師がその製法を伝えた。蒸留器で生まれたばかりのグラッパのアルコール度数は80度以上。それを精製水で50度前後に割る。


ナルディーニのグラッパは中世以来の名前「アックア・ヴィーテ」がラベルに印刷されている。初代のバルトロ・ナルディーニによって1779年に創業した。ルタやチェードロなど薬草や果物を漬け込んだものもある。そもそもは薬草酒を作るためのアルコールでもあったのだ。

2005年12月23日

歴史とみどころ ~イタリアのクリスマス~


 12月25日はクリスマス。カトリックの総本山、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の広場には巨大なプレゼーピオともみの木が飾られ、街のかしこにクリスマス飾りが施されます。プレゼーピオはキリスト生誕の場面などを人形などで再現したもので、家庭の中にも飾ったりします。そして新年の1月6日のエピファニア(救世主の御公現)の日まで飾ります。クリスマスの日には、東方から来た3人の博士がそれぞれ贈り物を持参したという言い伝えにちなんで、家族はそれぞれプレゼントを贈り合うのですが、それを開けるのはこのエピファニアの日で、それまでは飾りつけたツリーの下に並べておきます。
 近年のイタリアのクリスマスにはサンタ・クロースが当たり前のように登場しますが、伝統的にはベファーナと呼ばれる魔女がやってきて、良い子にはプレゼントを悪い子には炭を贈るという風習がありました。絵本に出てくる箒を持った魔法使いのおばあさんみたいな格好をしています。ローマのナヴォナ広場などにはクリスマス飾りなどを売る屋台が並びますがベファーナの人形も売っています。また、山から炭焼き人たちが、下りてきて笛を吹きながら門付けをして歩いたりします。
ところで、イエス・キリストは実は12月25日生まれではないって、ご存知ですか?正確にはいつだか分っていなくて、紀元4世紀のユリウス一世が当時のローマ暦の冬至をキリスト生誕の日、イタリアでは誕生を意味するNatale(ナターレ)といいますが、冬至の日は農耕の神様、サトゥルヌスと祭りであり、また太陽が生まれた日とも言われているので、ユリウス一世はその民衆の古い信仰をキリスト教の重要な記念日として利用したわけです。
 イタリアではイブの24日からエピファニアまでクリスマス休暇になるようです。クリスマスは家族で祝うのが慣わしで、日本のようにあちこちのレストランでクリスマス・ディナーを楽しんでパーティということはないし、元日は店もどこも休みになるのでこの間にイタリア旅行する方は寂しい思いをしないように覚悟したほうがいいですね。

サン・ピエトロ大聖堂の広場に飾られたプレゼーピオ



ローマの街のクリスマス飾り。人々はクリスマス・プレゼントやディナーのための買い物に繰り出し、知り合いと出会い分かれるときにはブオン・ナターレ、よいクリスマスを!と挨拶をかわします。ディナーには七面鳥やカピトーネという大鰻のぶつ切りのから揚げを食べたりします。また、パネトーネというドライフルーツなどが入ったパンをスプマンテで食べたりします。僕もミラノの空港でTre Marie(3人のマリア)というブランドのパネトーネを買いました。11.5ユーロでしたがこれが日本に入ると4千円前後にはなるのでしょうね。



この写真はエミリア・ロマーニャ州の小さな教会で撮ったもので、クリスマスの時のものではありませんが、12月24日の夜はバチカンのサン・ピエトロ大聖堂などイタリア中の教会でこのようなミサが行われます。普段、あまり熱心な信者ではなくても、この日ばかりは教会に行く人も少なくありません。

2005年12月19日

歴史とみどころ ~ミラノのナヴィリオ運河~


イタリアでファッションをモーダといいますが、ミラノはイタリア・モーダの代名詞でもあります。パリ・コレを手本に誕生したミラ・コレですが今や世界のファッション界の双璧をなしています。そのお洒落な町ミラノで僕が最も好きな界隈がここナヴィリオです。かのレオナルド・ダ・ヴィンチがミラノに呼ばれ、城壁やドゥオーモの建設にも天才的な知恵を発揮しましたが、この運河もそのひとつでダ・ヴィンチが設計したものです。このナヴィリオ・グランデと呼ばれる運河はアッビアーテグラッソという町まで続き、そこから建設用の石材の運送に使われていました。もうひとつの運河は修道院のあるパヴィアに繋がっています。ダ・ヴィンチはフィレンツェでメディチに雇われていた頃、マキャベッリと共同でアルノ川を利用して下流にあるピサを水攻めにする軍略を試みたことがあります。それは実現には至りませんでしたが、その時の研究がミラノで活かされたのです。一昔前のナヴィリオには画家など芸術家が好んで住んでいましたが、最近はレストランやピッツェリア、洒落たワイン・バーなどが増えて、一段と賑やかな雰囲気になっています。また、日曜日には骨董市なども運河沿いに立ちます。ナヴィリオを訪れるとしたら、夕食をこのあたりのレストランに予約して日が落ちる少し前の夕暮れの散策を楽しんではいかがでしょう。古きよき時代のミラノのもうひとつの顔を味わえるでしょう。

ミラノにはトラムと」呼ばれる路面電車が走っています。ナヴィリオ運河のあたりにも線路が縦横に敷かれ、夜の街燈に照らされて光っています。僕が生まれたのは東京の下町、飛鳥山公園の近くですが、そこには今も都電の荒川線が唯一残されて走っています。少年時代からそんな風景に親しんできたので、イタリアのローマやミラノで路面電車を見ると懐かしさが沸いてきます。東京は自動車が優先されいつのまにか消えてしまいましたが、ミラノでは車とトラムが今でも共存しているのです。

2005年12月09日

猫のいる風景 その3

  
 このいかにもエレガントな姿態の白猫ちゃんがいる丘はイタリアのワインの中でも最も高貴なワイン、バローロの里のひとつセッラッルンガです。アルバの町からバローロやセッラルンガ、ラ・モッラ、ドリアーニなどのワインの名産地やチーズで有名なムラッツァーノなどワイン通やグルメなら思わず目を細める地名が居並ぶこの地方をランゲといいます。沢山の丘と谷が織り成す美しい地形は氷河期に形成され、ワインや高価な白トリュフ(イタリア語ではタルトゥーフォ)の名産地となりました。きっとこの猫もそんな大地で育ったのでこんなに真っ白で優雅になったのですね。

2005年12月07日

猫のいる風景 その2

 南イタリアのアドリア海側にあるプーリア州には壁面をしっくいで真っ白に塗られた家々がの町が多く点在します。オストゥーニ、ファサーノ、マルティーナ・フランカ、ロコロトンド、そしてとんがり帽子のような屋根の家で有名なアルベロベッロなど一度はぜひ行ってみたいところです。この猫たちはそんなメルヘンチックな町のひとつ、オストゥーニに暮らしています。紀元前からギリシア人が移住したり、2万4千年前に北方から人類の祖先が住んだ遺跡なども発掘されています。石灰質の大地には大きな洞穴も多く、そこにビザンチン時代の修道士が隠遁した痕跡として聖人の壁画が残されていたりします。そしてまたプーリア州はイタリアで最も多くオリーブのオイルを生産する農産王国でもあります。

2005年12月05日

猫のいる風景 その1

  

 イタリアの猫さまに道案内を頼んで歩く「歴史と見どころ」第2段、今日はまずリグーリアにある避暑地、チンクエテッレのひとつであるリオマジョーレから始まります。ユネスコの世界遺産にも登録されているチンクエテッレをご存知の方も多いかと思います。チンクエテッレはひとつの町の名前ではなく直訳すれば「5つの大地」という意味です。この名前を知っている方でもその5つの村の名前をガイドブックを見ないで全部挙げられる方はかなりのイタリア通か旅のベテランと言えるでしょう。チンクエテッレはジェノヴァから地中海沿岸を南下していくと、まずモンテロッソ・アル・マーレ、そしてヴェルナッツァ、コルニリア、マナローラ、リオマジョーレと続く五つの村とその一帯をさします。ブーツのように細長いイタリア半島を南部、中部、北部と3つに分けるとチンクエッテッレのあるリグーリア地方は北部に入ってしまうのですが、地中海に面した温暖な土地ですから、どちらかと言えば南イタリアのようなイメージがあります。しかし、それは夏のバカンスのシーズンだけでしょうね。どの漁村も19世紀の終わりに鉄道が通るまで船だけが交通手段で、自動車でそれぞれの村に行くことが出来るようになったのも20世紀に入ってだいぶ経ってからでした。まあ、そういう辺鄙なところだからこそ美しい自然と素朴な漁村の生活や文化が生き残れたわけです。
 モンテロッソの教会にはイタリアの偉大な詩人、モンターレが眠っていますし、トスカーナのサンジミニャーノの銘酒、ヴェルナッチャ・ディ・サンジミニャーノの葡萄は11世紀頃にサルデーニャのヴェルメンティーノ種がヴェルナッツァに入りそこからサンジミニャーノに着いたのでヴェルナッツァが訛ってヴェルナッチャと呼ばれるようになったという説があります。ワインと言えば、チンクエテッレを代表するデザート・ワイン、シャケットラがあります。また、丘の上にあるコルニリアではローマ時代にはすでに優秀なワインが造られポンペイにも輸出されていた記録があります。東リヴィエラとも呼ばれるこの海岸線には夏になるとイタリアの内外から避暑客がおしよせヴァカンスを楽しみます。1週間から2週間くらい長期に滞在して、こうして海岸にテーブルを置き、のんびりとカード遊びを楽しむなど、時間をゆったりと使うのが欧米流です。旅先ではどちらかというと買い物や食べ物ばかりに時間を費やす日本人もぜひ見習いたい”ほんとうの優雅さ”ですね。

2005年12月03日

歴史とみどころ ~ヴィジェーヴァノ~


 イタリアの旅の面白さはどんな小さな町や村に行っても何かしら歴史的な発見があることです。大地震で壊滅しないかぎり、イタリアには数百年、数千年の歴史を綿々と今に伝えるところが少なくありません。例えば、この町、ヴィジェーヴァノはミラノから車で30分ほどで行ける人口が6万人ほど町ですが、イタリアではこのドゥカーレ広場の美しさでよく知られているところです。ヴェジェーヴァノは13世紀にルキーノ・ヴィスコンティ公が城を建設し始めた頃から16世紀のルネサンス時代にもっとも栄えました。ドゥカーレ広場は1494年に完成しましたが、アーケードのある建物に囲まれ、ルネサンス期の調和と統一を求め絵画的な美しいデザインです。
 この広場に面して建てられているドゥオーモは16世紀に再建されたのですが、その時にバロック調のファサードが凹面に作られた珍しいデザインです。このドゥオーモの中にはマクリーノ・ダルバやベルナルド・フェッラーリなど当時の著名な画家の作品や、フィレンツェのヴェンベヌート・チェッリーニ工房で制作された金と銀の記念碑などがあります。またこの広場の外側にある城は15世紀末にミラノ公であるルドヴィーコ・スフォルツァがフィレンツェの大聖堂のドームを設計した名工ブラマンテに依頼して再建したものです。このような小さな町を訪ねても、当時のミラノの宮廷文化がレオナルド・ダ・ヴィンチやブラマンテなどの巨匠たちを招くほどの力があったことを知ることが出来るのです。


















ヴィジェーヴァノのドゥカーレ広場を囲む建物の壁面には美しい装飾画が描かれ、洒落たカッフェなどが入っている。

2005年12月01日

歴史とみどころ ~フィレンツェのヴェッキオ橋~

 イタリア観光で最も人気が高い都市はフィレンツェでしょう。かのメディチ家が擁護した芸術家や文人のお陰で今ではルネサンス美術の宝庫として世界各国から観光客を集めています。人口40万人ほどの町を訪れる年間の観光客はその5倍くらいになるのではないでしょうか。町のランドマーク、シンボル的な存在の建造物としては[花の大聖堂]として知られる、サンタ・マリア・デル・フィオーレ、そしてフィレンツェの行政の中枢であるヴェッキオ宮殿やウッフッツィ美術ピッティ宮殿などがありますが、一番親しみやすいのはこのアルノ川に架かるヴェッキオ橋でしょう。
 この橋はフィレンツェの人たちも待ち合わせの場所にしたりします。かの、ダンテもベアトリーチェとこの橋のたもとで出会ったという伝説もあります。橋の中央には胸像があり、東京で言えば渋谷のハチ公同様に待ち合わせに丁度良いところです。この胸像はベンヴェヌート・チェッリーニという人物で、16世紀、フィレンツェで最も著名な金細工士でした。
この胸像が出来たのは1900年ですが、チェッリー二の時代、この橋には肉屋やなめし皮業などがあって、悪臭を放つゴミを川へ投げ捨てていました。1593年にトスカーナ大公のフェルディナンド1世がそれらを一掃し、代わりに金細工屋を置きました。それ以来橋の上にはたくさんの貴金属店が軒を並べています。
 晩秋のフィレンツェは雨が多く、煌びやかなイメージのフィレンツェの町も冬はちょっと重苦しい感じになります。しかし、ウッフィツィ美術館や大聖堂などを訪れゆっくりと美術鑑賞を楽しめるのは、観光客が少ないこの季節かもしれません。町には焼き栗の香ばしい香りが漂い、クリスマスも近づいて、空は曇っていても人びとの心の中は温かそうです。

2005年11月29日

イタリアの猫たち その3

”我輩は考える猫である”とでも言いたげなこのポーズ。ところは背景にある教会を見てお分かりの方もいると思いますが、中部イタリア、ウンブリア州にあるアッシージです。アッシージと言えば、聖人フランチェスコの生誕の町で、このサン・フランチェスコ大聖堂にはルネサンスの夜明けの帳を引いたと言われる画家、ジョットーの傑作やその師匠、チマブーエの壁画があります。アッシージの現在の町の様子はジョットーの時代、つまり中世からルネサンス時代の建物で、この周辺から産出するバラ色の石を積み上げて建てられているので、とても明るく優しい雰囲気があります。町の歴史は古く、中心には紀元前1世紀に建てられたローマ時代のミネルバ神殿が残っていますが、16世紀中ごろにキリスト教の教会に改修されサンタ・マリア・ソプラ・ミネルバ教会となりました。この町、いかに穏やかかこの猫を見れば一目瞭然ですね。広角レンズの28mmで大接近して何枚も撮影したのですがまったく動じませんでした。実は僕も聖フランチェスコを敬愛しております。

2005年11月27日

イタリアの猫たち その2

 ミケランジェロがフィレンツェからローマにやってきた頃、彼が住んでいたと言われている家が、現在のゲットー界隈にあります。古代ローマのマルチェッロ劇場とアルジェンティーナ劇場の間の地区でジャコモ・デッラ・ポルタ作の”亀の噴水”があったり、少し歩けばローマの市場で一番楽しい”花の広場、カンポ・デイ・フィオーリ”があります。20年ばかり前に友人からここにミケランジェロが住んでいたと教えられ、その後、ローマに来るたびに訪れては中を覗き込んでいましたが、ある時、まるで舞台のスポットライトのように建物に囲まれて四角く空いた空から太陽の光が差し込み、そこで日向ぼっこをしていた猫を浮かび上がらせていました。

2005年11月25日

イタリアの猫たち その1

 今日のカテゴリーは「歴史と見どころ」。しかし、猫のお話です。猫と犬は人間の歴史ととも歩んできたもっとも身近な動物で、愛玩用でもあり、また狩猟などの助手ともなり、そして猫はヴェネツィアなどでペストが蔓延した時代にはペスト菌をばら撒くネズミ退治の大役を仰せつかったわけです。そういう歴史を振り返れば猫もまた文化、というか猫が野生ではなく、たとえ野良であっても、いや野良として勝って気ままな生活ができる環境を人間が作れるところに文化があると言えるのではないかと思います。古代エジプトでは神の使者でもあったわけですし、ドラエモンはのび太君だけでなく、いまやイタリアの子供たちにとってもなくてはならない親友となっています。
 さて、この黒猫が4匹かっぽするところ、ヴェネツィア島から10Kmばかり離れたところにあるトルチェッロで撮影しました。トルチェッロは今日のヴェネツィアの源となった島で、およそ1000年前、古代ローマ、アルティーノの都市がありました。当時は人口が2万人、主に海からの塩を採る塩田の都市としてローマ人はこの島を領土にしていたのです。この島が最も栄えたのは6~10世紀前後で、7~11世紀に建てられたサンタ・マリア・アッスンタ教会やサンタ・フォスカ教会には当時のモザイク画が残されています。ところが、ペストならぬマラリアがこの都市に蔓延し、人びとは現在のヴェネツィア島に逃れ、以来、トルチェッロはほとんど見捨てられた島となったわけです。現在でもほんの少しの漁師や画家、そしてヘミングウェイの作品にも出てくるロカンダ・チプリアーニがある程度で、無人島のような静けさが漂っています。

2005年10月18日

歴史とみどころ ~ミラノ・ブレラ界隈~

 ミラノと言ったら誰もが思い描くのはファッションです。イタリアではモーダというけど、モンテナポレオーネ、スピガ、サン・バビラ界隈には有名ブランドのブティックがひしめき合っていますね。国の首都としてはローマですが、ミラノはイタリア経済を支える第二の首都ともいえる大都会。モーダに興味がなかったりすると、どことなくビジネスライクな感じがするこの町をあまり好きではないと言う人もいますが、どうしてどうして、歩いてみると古きよき時代を感じさせるところもあって、なかなか味わいのある町です。そういう意味では東京に良く似ています。東京なら浅草、谷中、月島あるいは深川などと江戸の名残がある界隈を歩くのが好きな僕にとっては、ミラノだったらまず運河のあるナヴィリオ界隈、次にローマ時代の遺跡や中世やルネサンス時代の教会が点在するコルソ・マジェンタとヴィア・トリノに挟まれた地区、そしてこの写真の“カッフェ・ジャマイカ”があるブレラ界隈です。
 

カッフェ・ジャマイカで赤,白のリキュールが入ったグラスをコマにダーマ(チェス)を楽しむ若者
一駒取るごとに一杯飲めるが、勝てば勝つほど酔いがまわってしまうのでちょっとアブナイ
こちらもだいぶ飲んでいるので、気楽に話し掛けてすぐに意気投合できるのがいい



 ブレラ通りには美術館があるので、どことなく芸術的な雰囲気もします。美術館の少し先にそのカッフェ・ジャマイカがあるのですが、そうした立地からか、かつては画家や詩人などがよく集まる店でした。僕も何度か著名なアーティストだと言われる人を紹介されたことがあります。最近は20代、30代の若者たちが集まり、深夜、午前1時、2時までもお酒を飲みながらおしゃべりを楽しんだり、ゲームをしたりして賑わっています。ブレラの美術アカデミアで絵画など芸術を学んでいる学生も少なくありません。昼間はほとんどエスプレッソとかカプチーノなどコーヒーを飲みに来るお客さんが多いのですが、夜はとたんに酒場と化しますが、秋から冬、芸術を観賞したあとで、こんな芸術家たちが集まるカッフェで夜のひと時を過ごすのも楽しいです。

深夜になっても人通りは絶えず、タロット占い、手相占い、星占いなどの占い師たちが並んでいる

2005年10月08日

歴史とみどころ ~ヴェネツィアその1~


 
 イタリアは春夏秋冬、いずれの季節に旅をしても楽しめるのですが、やはり一番お薦めの季節は春と秋です。冬は南のローマやナポリであっても、雨が多く、時には雪も降るほど冷えます。フィレンツェなどでは町の中心を流れるアルノ川が氷結するほどの寒さになり、ウッフィツィ美術館やピッティ宮殿のルネサンス美術観賞がなければ耐えられないかも。この寒さと、じくじくと雨に降られ、どんよりと重い雲に覆われているけっして楽しいとは言いがたいですね。まして取材の仕事で写真を撮りに行ったときなどはもうホテルの窓からじっと空を眺めるだけで憂鬱になります。イタリアを魅力的にしているのはやっぱり青い空と輝く太陽、オーソレミオなのです!

 しかし、ヴェネツィアだけは冬を薦めたいです。確かにヴェネツィアは北部に位置しますから冬は寒いし、時には雪も降ります。また、冬から春先にかけてはアックア・アルタというこの町の名物にもなっている洪水に見舞われることもあるでしょう。それでも、ヴェネツィアの冬はなかなか味わい深いのです。もともと車も通らないところなので、人びとは歩くか水上バスやゴンドラなどを利用します。ですから、町を歩いていて聞こえるのは人々の話し声、水上バスのエンジンの低い唸り、ゴンドラの櫂が水をかく音くらい。春から秋までは観光客に溢れ、路地を歩くのもままならない時もありますが、冬は観光客も少なく、静かな町がいちだんとしっとりと落ち着いた佇まい取り戻し、ヴェネツィアの素顔が見えてくるようです。
 
 ヴェネツィアが水の都と言われ、建物は水の上に造られているというとちょっと信じがたいというか、やはり行って見るまでは実感は出来ませんでした。しかし、初めてこの町を訪れ、列車が長い橋を渡って終着駅、サンタ・ルチア駅に着いて、駅前の運河に架かるスカルッツィ橋から眺めてみると、運河の両脇に並ぶ建物がほんとうに水の上に浮かんでいるかのように見えて、しばしその不思議な光景に見とれてしまいました。初めてヴェネツィアに訪れたのは1977年の真夏、8月上旬で、ローマからアッシージ、ペルージャ、フィレンツェと内陸の都市を巡って来たものですから、その水の都を見たときの感動は今もなお忘れられません。まさに、一目惚れですね。

 ヴェネツィアの冬の魅力を実感したのは90年頃でしょうか。仮面と仮装で有名な謝肉祭、カルネヴァーレの撮影に行ったのですが、霧が立ち込めた運河沿いで時代衣装に仮装した人が佇むと、まるで自分が300年も400年も前にタイムスリップしたかのような幻想的な雰囲気に包まれてしまいました。もっともカルネヴァーレの時には真夏並に、あるいはそれ以上に人が溢れるので、むしろこの時期よりもその前後も味わいたいですね。

 イタリアは晩秋から春先まで雨が多くなるのですが、ヴェネツィアはもともと水辺の空間ですから、雨もまた似合うのです。雨で濡れたり、アックア・アルアで洪水になったサン・マルコ広場に寺院や鐘楼が映っている光景もなかなかいいですし、旅情をより感じたりします。冬こそヴェネツィアへ!


 夜のカナル・グランデとリアルト橋。リアルト橋の右手の建物はカメルレンギ館と呼ばれ当時の財務局があり、1階には刑務所がありました。その並びの長いアーチの建物はファッブリケと呼ばれ,現在は倉庫、居酒屋のバンコ・ジーロ、端には裁判所が入っていますが、この建物の裏手に青物市場が広がっています。左側には1508年に建てられたドイツ人商館がります。ドイツはヴェネツィアからオリエント貿易商品を買う上得意先の国でした。当時はドイツ人商人の宿泊施設や倉庫として使われていましたが、現在は中央郵便局になっています。

2005年09月24日

歴史とみどころ ~ヴェネツィアその1~

  

イタリアは春夏秋冬、いずれの季節に旅をしても楽しめるのですが、やはり一番お薦めの季節は春と秋です。冬は南のローマやナポリであっても、雨が多く、時には雪も降るほど冷えます。フィレンツェなどでは町の中心を流れるアルノ川が氷結するほどの寒さになり、ウッフィツィ美術館やピッティ宮殿のルネサンス美術観賞がなければ耐えられないかも。この寒さと、じくじくと雨に降られ、どんよりと重い雲に覆われているけっして楽しいとは言いがたいですね。まして取材の仕事で写真を撮りに行ったときなどはもうホテルの窓からじっと空を眺めるだけで憂鬱になります。イタリアを魅力的にしているのはやっぱり青い空と輝く太陽、オーソレミオなのです!

 しかし、ヴェネツィアだけは冬を薦めたいです。確かにヴェネツィアは北部に位置しますから冬は寒いし、時には雪も降ります。また、冬から春先にかけてはアックア・アルタというこの町の名物にもなっている洪水に見舞われることもあるでしょう。それでも、ヴェネツィアの冬はなかなか味わい深いのです。もともと車も通らないところなので、人びとは歩くか水上バスやゴンドラなどを利用します。ですから、町を歩いていて聞こえるのは人々の話し声、水上バスのエンジンの低い唸り、ゴンドラの櫂が水をかく音くらい。春から秋までは観光客に溢れ、路地を歩くのもままならない時もありますが、冬は観光客も少なく、静かな町がいちだんとしっとりと落ち着いた佇まい取り戻し、ヴェネツィアの素顔が見えてくるようです。
 ヴェネツィアが水の都と言われ、建物は水の上に造られているというとちょっと信じがたいというか、やはり行って見るまでは実感は出来ませんでした。しかし、初めてこの町を訪れ、列車が長い橋を渡って終着駅、サンタ・ルチア駅に着いて、駅前の運河に架かるスカルッツィ橋から眺めてみると、運河の両脇に並ぶ建物がほんとうに水の上に浮かんでいるかのように見えて、しばしその不思議な光景に見とれてしまいました。初めてヴェネツィアに訪れたのは1977年の真夏、8月上旬で、ローマからアッシージ、ペルージャ、フィレンツェと内陸の都市を巡って来たものですから、その水の都を見たときの感動は今もなお忘れられません。まさに、一目惚れですね。
 ヴェネツィアの冬の魅力を実感したのは90年頃でしょうか。仮面と仮装で有名な謝肉祭、カルネヴァーレの撮影に行ったのですが、霧が立ち込めた運河沿いで時代衣装に仮装した人が佇むと、まるで自分が300年も400年も前にタイムスリップしたかのような幻想的な雰囲気に包まれてしまいました。もっともカルネヴァーレの時には真夏並に、あるいはそれ以上に人が溢れるので、むしろこの時期よりもその前後も味わいたいですね。
 イタリアは晩秋から春先まで雨が多くなるのですが、ヴェネツィアはもともと水辺の空間ですから、雨もまた似合うのです。雨で濡れたり、アックア・アルアで洪水になったサン・マルコ広場に寺院や鐘楼が映っている光景もなかなかいいですし、旅情をより感じたりします。冬こそヴェネツィアへ!


篠 利幸

1977年初渡欧、画家としてしばらく活動後、イタリアの写真を撮り始める。書籍、雑誌等で写真と文筆の両面で活動、「田園のイタリアへ!アグリトゥリズモの旅」(NTT出版)、「トスカーナの青い空」(東京書籍)など著書多数。 2004年11月、ヴェネツィアで写真展(www.toshi-shino.com)を開催した。

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