ヴェネツィアのアックア・アルタ
11月30日のタオルミーナ
11月末、10日間ちょっとですが、シチリアからミラノ、ヴェネツィア、そしてマルケの名ワイン、ロッソ・コーネロの郷を回って来ました。シチリアは前々回に紹介したコースで、1日だけ、シロッコが吹き荒れた大風と翌日は集中豪雨に見舞われました、全体的には素晴らしい晴天に恵まれました。その報告はまた改めてしますが、そのシチリアのタオルミーナを月30日に発ち、夕方にミラノに着いたときにはみぞれ混じりの冷たい雨。タオルミーナでは気温が23度で、日向では25,6度にもなるほどだったのに、ミラノでは8度、その気温差はなんと15度以上。ミラノは1泊で、翌日の昼にはピエモンテのネイヴェでバルバレスコを作っている友人、エリオ・フィリッピーノ夫妻とヴェネツィアに行く予定でしたが、その日も朝から小雨模様で吐息が白くなる寒さ。車で走行中のラジオのニュースでヴェネツィアではアックア・アルタ(高潮)が記録的な高さだと聞いて、エリオの奥さんのミリアムがヴェネツィアに入れるのかと心配顔。途中、パドヴァのカフェ、ペドロッキでお茶をして休憩しているうちに、外はだいぶ暗くなり午後7時近くに漸くヴェネツィアに到着。 アックア・アルタは引き潮とともにすでになくなっていましたが、定宿であるアックア・アルタ書店のルイジ・フリッツォの家に着くまでの道のあちこちには浸水で駄目になった物が積まれ、ミリアムがこれじゃまるでナポリだわとびっくり。翌朝、サン・マルコからリアルト界隈を歩いたのですが、朝、サイレンがなりまたもやアックア・アルタ警報がありましたが、この日は前日ほどではなく、既に冬の名物として知られている洪水を初めて体験するエリオもミリアムも面白がっていました。リアルトはリーヴォ・アルタ、高い岸と昔から呼ばれて洪水の被害にはあいにくいところだからこそ、ヴェネツィアの中心として発展してきたのですが、昨日ほどではないといっても、そのリアルトの大運河に沿ったワイン河岸はすっかり水に覆われています。もちろん、洪水で歩けなくなったところは歩行用の台を並べて歩道を作るので、動きが取れなくなるという心配はありませんが、回り道などは仕方ないし、もしこれが大きな荷物を持っていたりすればさぞかし不自由なことだと思います。
11月30日の夜のミラノ
アックア・アルタのサン・マルコ広場
リアルトのワイン河岸
今回のアックア・アルタは一番高いところでは1メートル60センチにもなったと聞きます。1966年に記録的な高潮で大被害がありましたが、今回もそれに匹敵するほどの高さだったそうで、翌日、12月1日の新聞でもサン・マルコ広場をボートで移動するシーンなどが載っていました。実は僕も思わぬ被害を受けたのです。というのも、8月に出した新刊の「ヴェネツィア」をルイジの書店に預けてあったのですが、それが全て水没してしまいました。取材をさせてもらった80件ほどのオステリアやショップの皆さんにお礼かたがた本を届けるつもりで当初は80冊を1度に送るつもりでしたが、結局は1冊づつここに送り、住所が定かではなかったところの6冊分だけを預けておいたのが被害を受けたので、不幸中の幸いと言えるかも知れませんね。それにしても、ルイジの書店にはゴンドラやカヌーを置いてその上に本を積んで相当な重さだったのにもかかわらず、それらが上がった水で浮き上がり転覆したそうで、水というのは予期せぬ被害をもたらすものです。アックア・アルタに慣れているはずのヴェネツィアっ子もさすがに今回はその後始末でへとへとになっていました。地球の温暖化でシロッコやアックア・アルタなどもこれまで以上に強烈なものになりがちです。これからイタリア旅行を予定している方は気をつけて下さいね。といっても、何をどう気をつければいいのか分からないので、とりあえずは雨具や防寒具通常の旅支度どおりにして、肝心なのは何か突発的な事が起こっても、慌てず、騒がず、冷静に、そうすれば、シロッコの強風もアックア・アルタの洪水も日本にいては体験できない面白い現象として楽しめ、良い想い出になるはずです。
66年の記録的な水位を示す書店のルイジ
浸水で大混乱のルイジの書店内
書店内のカヌーの上に積んであった拙著「ヴェネツィア」も全滅

2008年12月1日の朝刊には156cmを記録したと報道された



夏は海のリゾートとして賑わうオルティージャ.
路地からイオニオ海の水平線が見える.


シラクーサの路地
オルティージャの猫

























エリチェの石畳
エリチェの公園の彫刻



















チェファルーの浜辺
チェファルーの入り江で























































ゴンドラは観光用だけでなく庶民と足として渡し舟にも使われている。 
マスカレータという女子の競艇用のボートで、浅瀬のラグーナ(潟)に適したスタイルをしている。


ゴンドラの舳先にある櫛状の形は、一番上部がヴェネツィア総督の帽子の形で、その下にはヴェネツィアの7つの地区を表わしている。
スクエーロと呼ばれるゴンドラの造船所。ヴェネツィアで最も古い17世紀から続くサン・トロヴァーゾの造船所をモデルにしている。 

館の内部は公共の施設として開放されています。
ライナーテ市立図書館もヴィッラ・リッタの中にあります。
かつては町のはずれにアルファロメオの本社工場もありましたが、町の佇まいは静かなベッドタウンです。
大都会、ミラノとは違った趣きがあるライナーテ。
町中を散策していたらこんな本格的な日本趣味の家がありました。日本人の観光客は歓迎されそうですね。
ライナーテに住む親友のグラツィアーノ・ヴィターレ。僕と一緒に作った絵本「ニコラ・サウロのあしたはやるぞ」(岩崎書店)など日本でも子供向けにたくさんの本を作っています。
2005年にグラツィアーノと作った”ヴィッラ・リッタ”の絵本。ヴィッラ・リッタで子供達に配布されています。

モザイクで飾られた歩道を歩くと突然、噴水が出ます。この先には円形の中庭にバッカスの噴水があります。
回転しながら美しい曲線を描く噴水。
子供達が手を叩くと噴水から水がほとばしります。
庭園には毎日のように近隣の幼稚園や学校の子供達が見学に訪れます。
洞窟の中にも様々な大理石彫刻と噴水の仕掛けがあります。
ガラテアの噴水の全体は円形に造られているが、これは世界を球体と捉えて象徴的に表わしています。
噴水の水はこのバッカスの噴水の後ろに見える搭の上に水が上げられて、そこから落ちる水力を利用していました。しかし、バッカスの噴水からはワインが吹き上がる仕掛けがあったと言われています。
絵葉書やカードといっしょに貴重なアンティークの版木が壁一面に飾られています。棚の上には古いワインのボトルまで。お好みはピエモンテのバルバレスコのようです。
ヴェネツィアの風景絵画をモチーフにしたエッチングの原版。
蔵書票などに使われる伝統的な絵柄の原版。
精緻な描写のエッチング作品。
これは”Ex Libris”、蔵書票です。
ジャンニがサン・ラザロで働いていたのは1969年、彼が15歳の時から今の工房を開くまでの15年間、30歳の時までです。工房には1800年代に作られた印刷機が2台、3台、所狭しと並んでいます。壊れたら修理も自分でやる。現代的なものはアンティークなラジオから流れる音楽やニュースだけ。頑固に活版印刷の技術を守りつづけています。名刺も一枚づつ手で刷ります。そんな彼の姿勢から生まれた名刺にはいつのまにか世界中にファンが生まれ今では日本人の注文も少なくありません。
小さな名刺の紙を一枚づつ手で置いて刷っている。
路地の名前が工房の壁の上に書いてある。
自分の生き方に自信を感じる顔。
木彫りのグーテンベルグの肖像の前に立つと嬉しそうな笑顔になった。



6月のピサ県視察旅行の時に、靴の製造工場を訪れました。サンタ・マリア・ア・モンテというところで、ピサからアルノ川に沿って北上し、サン・ミニアートの手前を左に入ったところにあります。工業団地の地域といって雰囲気での中にある、東京なら大田区あたりにある町工場のビルといった感じの建物の前で、バスから降りた視察団もいったいどんな靴の工場に案内されるのだろうかと訝しげでした。
GARDENIA社の靴のメインは女性用です。男性用の靴のデザインは何年経ってもあまり変化はないので作りやすいのですが、常に流行に左右される女性用の靴の生産は毎年新しいデザインを創らなくてはなりません。足にフィットしやすい柔らか素材と製法が当社の特長だそうです。







ヴォルテッラに最初に町を築いたのはエトルリア人です。エトルリア人は紀元前9世紀、あるいはそれ以前に小アジアからイタリア半島にやってきた民族であるということはこれまでの研究で確認されています。かつては元々イタリアから発生したというと説く学者やロレンツォ・メディチのように自分の祖先はエトルリア人であるとトスカーナ人の純血性を強調する発言もありますが、エトルリア人の信仰する肝臓占いなど古代バビロニア人の風習に似たところも多く、現在では小アジアからの渡来民族であることが確認されているのです。

ヴォルテッラのドン・ミンゾーニ(Don Minzoni)通りにあるグアルナッチ(Guarnacci)エトルリア博物館には近郊から出土したエトルリアの発掘物、とくに石棺や600を数える骨壷の収集でイタリアで一番と言われています。テラコッタ製や特産のアラバスターという透明感のある白色のやわらかい石に見事な彫刻を施したもので、着色の痕跡が残っているものもあります。また、金や銅を使った装飾品などを見ても、彼らが大変繊細な芸術的なセンスを持った民族であることが分ります。トスカーナで産出される鉄を求めてやってきたギリシア人との接触によってエトルリアの文化は急速に発展し、始めはローマを支配し、それが逆転しながらイタリア半島での文化の礎となったのです。

ヴォルテッラの町を歩いていると西日が石畳を照らしていました。そこに立つと、まさに”夕暮れの影”が現れました。
トスカーナの大地と言えば、葡萄畑にオリーブの林という風景が定番なのですが、この国道沿いで葡萄畑を見たのは1,2箇所、それもピサとヴォルテッラの中間のペッチョリあたりでした。後でヴォルテッラ市内にあるリストランテの名店、Del Ducaのオーナーから聞いたのですが、ヴォルテッラ周辺は葡萄の栽培には適さない土地なのだそうです。彼は大のワイン好きで、彼は最近になって初めてこの地でワインを作っていてこの秋には飲めると自慢していました。しかし、ワインはエトルリア時代から造られていたし、ヴォルテッラにはアウグストゥス帝時代のローマ劇場
もありますから、ワインも欠かせなかったはずです。その当時はこの地でもワインが造られていたのか、あるいは近隣から輸送されていたのでしょうか。沢山のアンフォラ(ワインや水を入れる素焼きの壷)も出土しています。


ピサの斜塔に登って眺望を楽しんだ後は町中のレストランで手早く夕食を済ませて、アルノ川河畔のお祭りを楽しみました。6月16日はLa Luminara di SanRanieri (ラ・ルミナーラ・ディ・サン・ラニエーリ)のお祭りです。 サン・ラニエーリはピサの守護聖人で、ルミナーラとは”光を灯す”イベントですね。アルノ川 沿いの建物の窓やテラスに全部で7000個ものグラスに入ったロウソクが置かれます。窓や鐘楼のアーチの形は、白く塗られた木枠が造られてロウソクが灯されます。 



30年ぶりにピサの斜塔に登りました。ピサには過去3度訪れ、2度目は95年でしたが、その時にはすでに傾斜が進み倒壊の危険があるというので補強の大工事が始まっていました。日本の建設会社も含め世界中から5,6社が協力した大プロジェクトで、その時の斜塔の下部には大きな鉛の板が傾斜方向とは反対の壁面に撒きつけられ、かつ数本のワイヤーで引っ張られていました。1173年にこの鐘楼の建設は始まりましたが、まもなく土台の傾きが始まり工事は中止されました。地中海から12Km程度しか離れていないこの土地はもともと砂岩質で地盤が軟弱なのです。それからおよそ百年後の1275年にジョヴァンニ・ディ・シモーネによって建設工事が再開されましたが、傾いている側の列柱や壁面を高くして近郊を保つように進められました。1350年、塔はトンマーゾ・ピサーノによって完成され、ようやく鐘楼として鐘の音をピサの町に響かせることが出来たのです。
塔は8階建てで一番上が鐘楼になっていて高さは54.5mです。30年前、僕が登った時には塔の外側の螺旋回廊を歩くことができたのですが、今は内部の螺旋階段のみ使用できます。いつも住んでいるのが48mの高さなので斜塔の天辺に上ってもさほど高くは感じないかと思ったのですが、見渡す周囲が平野で視界を遮るものがないので、空を飛ぶような心地よさです。もっとも高所恐怖症の方は上らない方が無難ですね。
見下ろすと南側に大聖堂と洗礼堂、大聖堂の右手には聖地エルサレムの土を運んで造られたというカンポ・サント墓地などが見えます。ちなみに、このカンポ・サント墓地は第二次世界大戦の時に、アメリカ軍の”誤爆”によって壊滅的に破壊されたものを蘇らせました。アメリカは昔から同じ事を繰り返していたのですね。北側に回るとピサの町が広がりその遠方にフィレンツェが位置するわけです。




チェルトーザ・ディ・ピザの教会内部は壁画ばかりでなく、床を埋め尽くす大理石装飾も素晴らしく興味深いものです。一見、立体に見えますが、これは白と黒とグレーの大理石の板を組み合わせて造られたモザイクの床で、もちろん滑るほど平らです。 現代のデザインとしてもまったく違和感を感じない斬新な装飾で、本来は質素な暮らしがモットーの修道院とは思えない豪華さです。大理石の産地として有名なカッラーラが近くにあるのですから大理石装飾の技術が優れているのは当然のことでしょうね。教会のファサードやこれらの仕事は1700年晩期の建築家、ニコラ・スタッシによるものです。

教会堂を抜けて僧院の方へ回るととたんに雰囲気はシンプルなものとなります。ことに修道士が起居する部屋は小さなベッドと礼拝のための椅子と書見台、そして神学書が置かれている小さな書棚があるのみです。しかし、部屋は思いのほか広く造られています。他の修道院と比べても1.5倍から2倍くらいの空間で窓も大きいのですが、厳格な規律の中で日々を送る修道士が自室ではゆったりと寛げるような配慮があったそうです。17世紀後半から18世紀に増築、改装があったので、その時に改善されたのでしょう。

イタリアの修道会には11世紀にウンブリアのノルチャに始まったベネディクト会や13世紀のフランチェスコ会が特に知られますが、フランスからもカルトジオ会やシトー会など厳格な戒律の修道会が誕生し、イタリアにも修道院を建てています。トスカーナの廃虚の修道院として有名なサン・ガルガーノの修道院も元はフランスから来たシトー会の修道院です。


ヴェネツィアのカルネヴァーレではまさにカサノヴァの時代を蘇らせた雰囲気を楽しむことができますし、リアルトにある居酒屋”Do Spade(ド・スパーデ)”はかつてカサノヴァが美女と連れ立ってしばしば訪れ二階へ上がって行ったという伝説があります。ちなみに、ド・スパーデとは「二つの剣」という意味で、この居酒屋の手前にある小さな橋の上で、ひとりの美女を奪い合って騎士が決闘したのでこの名前が付きました。この界隈のヴェネツィア貴族の家柄の友人の家に招かれた機会がありましたが、映画の世界とまったく同じ、豪奢なものでした。この貴族の名前は非公開にしてくれとのことです。
カサノヴァは1755年に宗教裁判で異端の罪で裁かれ牢獄に入れられたことがありますが、この牢獄はヴェネツィアのサン・マルコ広場に面したドゥカーレ宮殿から”嘆きの橋”を渡った建物にあります。”鉛の牢獄”とも言われ脱出不可能と思われていましたが、カサノヴァは5年後にその鉛の屋根に穴を開けて脱出したと言われています。現在、日本では「カサノヴァ回想録」は全て絶版となってしまったようです。先週、神保町の古書店で河出書房から出ていた全6巻を見付けて買いましたが、フランス文学者、窪田般弥がフランス語から訳したもの。挿画は幻想絵画の巨匠、古澤岩美です。サイトで調べると河出書房からは挿画が池田満寿夫によるものも出ていたそうです。ちなみに岩波文庫でもありますが、こちらの方が高価でした。理由は文庫の方が小さくて人気があるそうです。もちろん、ヴェネツィアにはさまざま本が今でも出版されています。写真にあるのはFilippi Editoreという地元の出版社のものです。

ヴェネツィアで書店を営む親友、ルイジ・フリッツォは自称、現代のカサノヴァ。お腹がでっぷりと突き出た60歳のオヤジですが、本当にいろいろな女性にもてていま す。イタリア語はもちろん、フランス語、ドイツ語、英語を流暢に操るインテリです。また、ヴェネツィアでアパートや短期滞在のレジデンスなども紹介してくれます。書店はオステリア、アル・マスカロンのある路地を行けば見つかります。彼のところにもたくさんのカサノヴァの本がありますし、運河に面した小さなバルコニーが あって、そこでは大好きなワインを一緒に楽しめる空間になっています。ヴェネツィアの運河の水音を聞きながらカサノヴァの本を読み、ときおりワインも飲むなんて贅沢な時間を過ごしたいですね。


オープニング・レセプションに訪れた人たちと気さくに歓談、また会場で配られた写真集にサインを求める人が続出すると、自らテーブルに座り、奥様と並んでサイン会を行いました。古代の遺跡との対話を重ねてきたイョーディチェ氏はコミュニケーションをとても大事にしている方ですね。写真はコミュニケーションの手段でもありますから。
写真展のオープニング・レセプションでスピーチする在日イタリア大使大使館のマリオ・ボーヴァ大使。大使はカラブリア州のご出身で、イョーディチェ氏の作品にもカラブリアで撮影された写真があります。



ベルガモ・アルタのメインストリート、ゴンビト通りには入ってみたくなるブティックや雑貨店、パン屋さん、カフェ、ワイン・バーなどが並んでいます。ここはワイン・バーの”Vineria Cozzi"ヴィネリア・コッツィ。ワインの品揃えもよくお薦めです。
プーリア州の町の多くは建物が白い漆喰で塗り固められていたり、とにかく雪景色のように白いですね。オストゥーニ、チステルニーノ、ファサーノ、ロコロトンド、そして尖がり帽子のような屋根のトゥルッリで有名なアルベロベッロの家も壁は漆喰で白く塗られています。この写真の町、マルティーナ・フランカもやはり白い町です。


曲線を描きながらアーケードが続くブラウニング通りにはブティックや居酒屋など並び、観光客も地元の人と一緒になってこの町の暮らしを楽しんでいます。春先にはこの地方の名物、白アスパラガスの料理を楽しめます。
家々の窓には花々が飾られ、この町の人々がいかに自分の住むところをいとおしんでいるかが伝わります。近郊のポッサーノに生まれ、18世紀から19隻に活躍した新古典主義の彫刻家アントーニオ・カノーヴァのなお付した坂道があります。
ローマという都市は不思議な力を秘めていると思います。世界の道はローマに通ずと言われたほどですが、たしかにローマを一度でも訪れてみると、その記憶は永遠に生き残り、残像はいつも鮮明です。もちろん、個人個人の体験と印象によって違うのでしょうが、僕にとってのローマはイタリアとの最初の出会いであり、今も兄弟のように付き合っている写真誌の編集長もローマっ子だし、ローマに行くといつでも懐かしい匂いを感じます。それは常に子供の頃の記憶と繋がっていて、当時は東京でもあちこちに井戸水がありました。真夏の太陽の下で真っ黒に日焼けして遊んでいた頃、喉が渇くと必ずその井戸のポンプを押して水を汲み上げ浴びように飲んだものです。ローマの泉からこんこんと湧き出る水を飲むといつもその記憶が蘇るのです。
ローマを訪れて何度目かで、友人たちにエスプレッソが一番美味しいのはエウスタキオというバールだと教えてもらいました。すると、ローマに行くたびに日に2,3度はここでエスプレッソを飲むようになりました。パンテオンを正面に見て右側の道を右手に抜けていくとサンテウスタキオ(Sant'Eustachio)教会があります。歴史はとても古く、初期キリスト教時代からの教会で、中世に守護聖人として聖エウスタキオを選びました。聖エウスタキオはローマ時代の軍人でしたが、狩に出た時に頭部に十字架のある鹿を見て改宗しました。その向かいにカッフェ・エウスタキオがあります。そして、この広場の脇に鹿の頭部と本がデザインされた泉があります。この噴水は20世紀に入ってからのもので、ピエトロ・ロンバルディのデザインです。鹿の頭部の上の両脇には書物が重ねられていますが、この書物は近くにローマ大学の学部があったパラッツォ・サピエンツァがあったので、学問のシンボルとしてデザインされてます。ローマの友人はこの泉の水を飲むと頭が良くなると言っていましたので、僕も飲みましたが、果たして・・・
この泉は古代の演劇の仮面をモチーフに1627年に作られ、”仮面の噴水”と呼ばれています。ローマでも魅力的な通りのひとつと言われているジュリア通りにあります。この通りには現在はフランス大使館が置かれているファルネーゼ家の館があり、この仮面の泉の上にはファルネーゼ家の紋章の”百合の花”が飾られています。ファルネーゼ家は祝いの時にはこの泉からワインを流したそうです。ファルネーゼ館の裏手にカンポ・デ・フィオーリがあり、朝市が賑わいます。この広場にはドイツの物理学者、ファーレンハイトの名前が付いた書店があって、写真や映画、演劇関連の本が充実しています。広場には”カルボナーラ”というレストランやワイン・バーなどもあり、朝から夜まで楽しめます。

ローマに行ったら、ぜひ夜のライト・アップされた噴水も観賞して下さい。冬の季節は観光客も少なく、とりわけ夜はゆっくりとその美しさを楽しめるでしょう。

カルネヴァーレの仮装はたいがいは工夫を凝らした手造りのものですが、観光客には貸衣装屋さんもあります。また、仮面は伝統的なものが多いのですが、中には素顔のままで充分に魅力的な人もいますね。




宮殿の入り口に立つと総大理石の階段と高い天井に圧倒されます。それをまた2頭のライオン像が出迎えますが、顔はどことなく泣きっ面ですね。この階段の中央正面にはライオンにまたがったカルロス7世の像があります。
第3広間にあるパラティーナ図書室。壁に掛かる絵画は王妃、マリア・カロリーナの希望によるものでドイツ人画家、ハインリッヒ・フリードリッヒ・ファーガーの作品。絵柄は、パルナッソス神殿のアポロと三美神やアテネの学堂などが描かれている。1768年に完成したこの図書室には14,000冊の書籍がある。
ガッレリア、フランスではパサージュと呼ばれていますが、イタリアではミラノのガッレリアがつとに知られていますね。正式にはヴィットリオ・エマヌエレ二世のガッレリアと呼ばれるミラノのガッレリアは1878年に完成し、ナポリは1890年です。ナポリの方はウンベルト1世のガッレリアと名づけられています。すでにイタリアの中心となっていたミラノに追いつこうとしていたナポリの意気込みを感じませんか?ガッレリアの1階にはブティックやカフェ、電気店など様々な店舗が入っていますが、ミラノのような一流ブランドショップやレストランがひしめいているという感じではなく、ちょっと寂れた感もありますが、むしろ広々とした空間で、カフェもゆったりできます。時々、中心にステージが作られてコンサートがあったり、いつぞやはアルゼンチン・タンゴ愛好会の人たちがダンス・パーティを開催していて、通りすがりの人が飛び入りで踊ったりしていました。
ガッレリア・ウンベルト1世をトレド通りから撮影していたら、とつぜん可愛い女の子がカメラの前に「あたしを撮って!」と可愛い笑顔が現れました。ナポリっ子は天性の人懐っこさでこんな楽しいハプニングもあります。







部屋は20畳くらいある大きさだがシャワーしかない。まあ、慣れればどうということはない。それよりも、見あげるほど大きな窓から外を見下ろせば下には運河と橋が見えて、ヴェネツィアの情緒満点だ。
夜、自分の部屋のある建物を見上げてみた。右側の4つのアーチの並んでいる窓の上に部屋がある。



ペルージャ大学の前にあるエトルスコ門を上がっていくチェーザレ通りから見える眺め。石井柏亭はこの下の階段から絵を描いていた。上の写真もこの階段からの撮影。
僕は85年まで画家を志していました。77年に初めてイタリアに行って、ペルージャの町を歩き、期待を裏切られない思いで、帰国後もこんな絵を書いていました。これは79年にペルージャの路地を描いたものです。





ローマの街のクリスマス飾り。人々はクリスマス・プレゼントやディナーのための買い物に繰り出し、知り合いと出会い分かれるときにはブオン・ナターレ、よいクリスマスを!と挨拶をかわします。ディナーには七面鳥やカピトーネという大鰻のぶつ切りのから揚げを食べたりします。また、パネトーネというドライフルーツなどが入ったパンをスプマンテで食べたりします。僕もミラノの空港でTre Marie(3人のマリア)というブランドのパネトーネを買いました。11.5ユーロでしたがこれが日本に入ると4千円前後にはなるのでしょうね。
この写真はエミリア・ロマーニャ州の小さな教会で撮ったもので、クリスマスの時のものではありませんが、12月24日の夜はバチカンのサン・ピエトロ大聖堂などイタリア中の教会でこのようなミサが行われます。普段、あまり熱心な信者ではなくても、この日ばかりは教会に行く人も少なくありません。
ミラノにはトラムと」呼ばれる路面電車が走っています。ナヴィリオ運河のあたりにも線路が縦横に敷かれ、夜の街燈に照らされて光っています。僕が生まれたのは東京の下町、飛鳥山公園の近くですが、そこには今も都電の荒川線が唯一残されて走っています。少年時代からそんな風景に親しんできたので、イタリアのローマやミラノで路面電車を見ると懐かしさが沸いてきます。東京は自動車が優先されいつのまにか消えてしまいましたが、ミラノでは車とトラムが今でも共存しているのです。
南イタリアのアドリア海側にあるプーリア州には壁面をしっくいで真っ白に塗られた家々がの町が多く点在します。オストゥーニ、ファサーノ、マルティーナ・フランカ、ロコロトンド、そしてとんがり帽子のような屋根の家で有名なアルベロベッロなど一度はぜひ行ってみたいところです。この猫たちはそんなメルヘンチックな町のひとつ、オストゥーニに暮らしています。紀元前からギリシア人が移住したり、2万4千年前に北方から人類の祖先が住んだ遺跡なども発掘されています。石灰質の大地には大きな洞穴も多く、そこにビザンチン時代の修道士が隠遁した痕跡として聖人の壁画が残されていたりします。そしてまたプーリア州はイタリアで最も多くオリーブのオイルを生産する農産王国でもあります。



”我輩は考える猫である”とでも言いたげなこのポーズ。ところは背景にある教会を見てお分かりの方もいると思いますが、中部イタリア、ウンブリア州にあるアッシージです。アッシージと言えば、聖人フランチェスコの生誕の町で、このサン・フランチェスコ大聖堂にはルネサンスの夜明けの帳を引いたと言われる画家、ジョットーの傑作やその師匠、チマブーエの壁画があります。アッシージの現在の町の様子はジョットーの時代、つまり中世からルネサンス時代の建物で、この周辺から産出するバラ色の石を積み上げて建てられているので、とても明るく優しい雰囲気があります。町の歴史は古く、中心には紀元前1世紀に建てられたローマ時代のミネルバ神殿が残っていますが、16世紀中ごろにキリスト教の教会に改修されサンタ・マリア・ソプラ・ミネルバ教会となりました。この町、いかに穏やかかこの猫を見れば一目瞭然ですね。広角レンズの28mmで大接近して何枚も撮影したのですがまったく動じませんでした。実は僕も聖フランチェスコを敬愛しております。








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