2009年11月16日

「トスカーナの青い空」復刻

 もう、かれこれ15年ほど前になるが「トスカーナの青い空」という本を出版した。10年間発行され続け、4,5年前に絶版となったが、自分にとってはイタリアとの関係をより深めるきっかけにもなった思い出深い本である。

 その本を書くために1995年の1月から6月まで2回に分けてフィレンツェに暮らしたのだが、それまで閉鎖的に感じてきたこの町の人々との交流により、旅人としてではなくフィレンツェやトスカーナ各地を見ることが出来た。

もっとも、そこの何十年も暮らしている日本人の友人たちに比べれば、まだまだ知らないことばかりなのだが、生きるための基本姿勢としては、「住めば都」、「住みづらいからこそ詩が生まれ、画が出来る」という考え方を支えとしている。

すると、このトスカーナの、ことにフィレンツェという町の人々が、わが町、東京生まれの人々のように親しみを感じてくるのである。

本を書く仕事をしていると、自分の本でありながら出来上がってしまったものを、再び手に取り読み直すということはほとんどない。この「トスカーナの青い空」のように15年も前のものであれば尚更であるが、最近、これを復刻してみようかという思いになるきっかけがあり、久々にいくつかの章を読んでみた。そして、いまだにこの本をよろこんでくれる読者もいるようなので、今日は、その序章だけを紹介してみる。

序章 トスカーナへの誘い

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 トスカーナ、この美しい響きをもった地名をどれだけの人々が憧れてきただろうか。ヨーロッパの北からは太陽の光とレモンやオレンジの香りを求めて、イギリスやフランスからは食卓に置かれた葡萄酒やオリーブ油の生まれた故郷をひとめ見たくて、またスペインやポルトガルからも同じ神と学問の流れを育んできた兄弟の土地を訪ねるように、この地に向かって旅に出た。二十世紀に入ってもっとも盛んにイタリアを訪れてきたのはアメリカ人だろう。なんといっても新世界を「発見」したコロンブスはジェノヴァに生まれたイタリア人だということを知らぬ者はない。フィレンツェに生まれたイタリアン・モードを支えてきたのもアメリカだった。

 フランス料理がフィレンツェのカトリーヌ・メディチがフランスに嫁いだときに持ち込んだというのはよく知られた話。ガラスは東方からヴェネツィアを通ってヨーロッパに広まったが、その中身のワインや香水そしてさまざま薬も毒もルネサンスの時代にフィレンツェで盛んに研究されてヨーロッパに広まっていたもの。柔らかで、エレガントな革のバッグや靴、そして何よりもミケランジェロやダ・ヴィンチ、ラファエロ、ボティチェルリなどの絵画の名作、オペラの発祥もフィレンツェを中心にこのトスカーナで生まれ育ったものばかり。

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 麗しきトスカーナ、オリーブの葉は銀に輝き、甘い葡萄の汁は樽の中で熟成の眠りをむさぼり、糸杉の梢はヤマバトやクロツグミの羽を休ませ、若草の野はアフロディーテがいましがたまで横たわっていたかのように、やわらかくうねり、甘い香りを漂わせている。なだらかな丘に羊飼いと農夫の小屋があり、そのまわりには真っ赤なケシやアイリスが咲いている。そこに住む人々は、悠久の日々をあたかも毛糸を紡ぐようにゆったりとしかし休むことなく生きている。

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 シエナやルッカ、フィレンツエのような町の生活もある。そこには酔い潰れた飲んだくれもいれば、気位の高い貴婦人や、河の流れに涙する詩人もいる。鼠はその河の両岸を往き来して右と左の情報を流しては、朝の鶏がそれを町中に知らせる。もう何百年もそんな毎日が飽きもせずに続き、積み重ねられ、いっそう珈琲色に艶々と照り、調合の秘密を明かさぬ香油のように、うっとりと夢想の世界に誘いこみ、道に迷った旅人をどうにでもしてくれとすべての拘束から解き放つ。

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 トスカーナの臍はどこにあるのだ。フィレンツェこそトスカーナの臍に違いない。そこからシエナの丘を越えて南の草原、マレンマの湿地帯に遊べば、エルバやジリオの島々はもうすぐそこの、青々としたティレニア海に見えるだろう。フィレンツェはトスカーナだけでなくイタリアの臍でもある。臍はちょっと窪んでいる。フィレンツエも町の周りを山に囲まれ、真ん中をアルノという河が流れている。大昔はピサから船でこの町に入った時代もあっただろうが、現代は鉄道を利用すれば、急行でローマから二時間半、ミラノからボローニャ経由で三時間、ヴェネツィアからニ時間程で着く。フィレンツェにも飛行場があるから飛行機を利用すればミラノ、ローマ、ヴェネツィアのどこからでも一時間で市内に入ることができる。

 私がいつもフィレンツェに入るときはローマからアッシジやペルージアなどのウンブリアの町を旅してからか、ミラノからヴェネツィアをゆっくり楽しんでからにしている。どちらにも古くからの友人がいるので、いきなりフィレンツェに行ってしまうと怒られる。ゆっくりと鉄道で移動する旅情もいいものだ。時間が無いときはもちろん飛行機を使う。いずれにせよフィレンツェにいればどこに出るにも都合が良い。

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 船や馬車で訪れた昔から比べれば、今では飛行機が世界のどこからでも運んでくれる。思いついたら吉日、その日の夜にはトスカーナのどこかのホテルのベッドで旅の疲れを癒すことが出来るのだ。いつかフィレンツェの中華料理の店で働く中国人に、北京へはどうやっていくかと訪ねたら、カンポ・ディ・マルテから乗ればいいと答えた。フィレンツェのふたつ手前のローカル駅だ。世界はこんなにも小さくなった。恐れることも、迷うこともない、トスカーナの魅力に誘われたあとは近くの旅行代理店へ行ってキップを手に入れさえすればいい。旅に出るより簡単な決断はない。いざ、ボン・ヴィアッジョ!

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2009年05月15日

芸術と美食の旅、北イタリア・ピエモンテを行く 州都トリノ その2

トリノのシンボル的な建造物と言えば現在、映画博物館になっているモーレ・アントネッリアーナであることは、この街を一望できるポー川沿いのカップッチーニ山にある国立モンターニャ・ドゥーカ・デリ・アブルツィ博物館前の広場に立てば一目瞭然である。前回のパノラマもここから撮影している。ちなみにこの博物館はヨーロッパ各地から収集された山岳関連の文化的資料を展示している。
 
さて、このモーレ・アンテネッリアーナだが、設計をしたのはアレッサンドロ・アントネッリで1798年にピエモンテ州ゲンメに生まれた建築家である。ゲンメはワインの生産地としても知られ、ロヴェロッティという生産者を日本にも紹介したことがあるが、ネッビオーロ種から作られる赤ワインは秀逸で、日本でももっと飲まれるべきワインだ。アントネッリの設計したものには高さ121mの巨大な天井を持つノヴァーラのサン・ガウデンツィオ聖堂がある。ロヴェロッティを訪ねたおりにこの聖堂も見に行ったが、正面からはその巨大な聖堂の全貌を見ることが不可能な引きのない場所に建てられている。

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モンテベッロ通りから見上げたラ・モーレ・アントネッリアーナ

モーレ・アントネッリアーナは高さ165.15mで1863年に建設が始まり設計者のアントネッリが他界した翌年の1889年に完成した。始めは1863年にユダヤ人コミュニティーからユダヤ教会(シナゴーグ)として設計を依頼された。ところが、アントネッリが設計を度々変更し、そのため工期が延びて資金が続かなくなり、プロジェクトはトリノ市に譲渡された。トリノ市はヴィットリオ・エマヌエーレ二世の記念堂とする予定で工事が続けられたが、その間にも設計は変更され塔の高さもその都度引き上げられた。結局、設計者のアントネッリは完成を見ずして他界してしまったのだが、完成後も豪雨と強風で1953年には丈夫の47mが崩落し、1961年に再建されたが当初はレンガと石造りだったのが現在見るような金属製のドームに変わったのだった。

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展望台へ上がるエレベータから見える内部

映画博物館としては1958年9月にオープンしたがその後火災に寄り長く閉鎖され、2000年に再オープンした。この時、中央にあったエレベーターは四方が透けて見えるスケルトンタイプになり、1階にあるカフェや2階、3階の映画上映スペースや展示風景も見えてなかなか面白い。2006年に日本でも公開されたイタリア映画「トリノ、24時の恋人たち(原題:Dopo Mezzanotte 真夜中過ぎ)」の舞台にもなり、現在のトリノの一面を見せるなかなかよい映画であった。

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展望台はデートの場所にも人気?

エレベーターで地上85mの高さにある展望台に昇ったパノラマは圧巻である。ポー川、ドーラ川に挟まれているので春から秋口にかけては川から昇る靄、冬は立ち込める霧に包まれることが多いトリノだが、快晴に恵まれれば眼下の街並みはもちろん、周囲を囲むアルプスの山脈まで360度の景色を満喫できる。
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アルプスの山々と右から左へ王宮、マダマ宮殿、カリニャーノ宮殿が見える

西側の眼下には右から王宮庭園の緑が広がり、王宮の白亜の正面とその後方にドゥオーモとその鐘楼が見える。そのまま視線を左に移動させるとサン・ロレンツォ教会の八角型の屋根やマダマ宮殿の4本の円筒型の塔がある。人間の眼の遠近感にほぼ近い中望遠レンズの30度ほどの画角で撮影した写真では左端にカリニャーノ宮も少し見えている。そのカリニャーノ宮をズーム・アップして見ると、カルロ・アルベルト広場に面し19世に改築された白亜のファサード部分のようすがよく分かるだろう。

カリニャーノ宮殿の建物はサヴォイア家の分家であるカリニャーノ家の館で1679~1685年にかけてグアリーノ・グアリーニの設計により建てられた。白亜のバロック様式のファサードは1864年から1871年にかけてガエターノ・フェッリのプロジェクトにより完成された。1848年から1865年までイタリア統一の前後を通じて国会議事堂して使われたこともあった。

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白亜のファサードが美しいカリニャーノ宮殿

視線をさらに左へ向けると長方形の中央に円形の屋根を持った置時計のような形をした建物が見える。これはトリノの中央駅、ポルタ・ヌオーヴァ駅でイタリアが統一された1861年からアレッサンドロ・マズッケッティの設計により建設が着工され1868年に完成した。一日に約20万人,年にすると7千万人が利用し、ローマ、ミラノの次ぐ大きな駅である。

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真ん中の円形の屋根が目を引くポルタ・ヌオーヴァ駅

場所を移って東側の眺めを見ると右手の小高い丘の上にドームの屋根の聖堂が見える。1703年、トリノを攻めていたフランス軍をヴィットリオ・アメディオ二世が破り、その勝利を記念して建てられたスペルガ聖堂で、1731年、フィリッポ・ユヴァッラの設計による。以前ここを訪れた時に撮影した写真を前回の記事で掲載したが、標高670mからの眺望はトリノの全貌を見渡すことができる。しかし、その高さ故に起きた悲劇もあった。1949年5月4日、ACトリノのサッカーチームはポルトガルのリスボンで開催されたベンフィカとの親善試合から帰国するところだった。ところが当日は激しい雷雨に見舞われ視界が悪く、彼らを乗せた飛行機はスペルガ聖堂の壁面に激突し、チームと乗員を含め31名全員の命が奪われた。

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サヴォイア家の陵墓にもなっているスペルガ聖堂

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スペルガを往復する鉄道のサッシ駅

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駅を出るとすぐ急斜面を登る線路が続く

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サッシ駅にはレストランもある

スペルガ聖堂に行くには麓のモデナ広場にあるサッシ駅からケーブルカーを利用できる。1884年4月26日に開通した路線で標高650mのところまで約3kmの距離を20分くらいかけてゆっくりと登って行く。サイトで調べた料金は片道2ユーロ、土曜・祝日は3.5ユーロだそうだ。

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トリノのドゥオーモ、サン・ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者ヨハネ)大聖堂

さて、モーレ・アントネッリアーナの展望台から地上に降りて、トリノでは必見のドゥオーモに行ってみる。このドゥオーモを世界的に有名にしたのは、「聖骸布」があるからである。聖骸布とは磔刑されたキリストの遺骸を包んだ布にキリストの姿が写っていると信じられている布で、それ以前の記録は不明だが1353年にはフランスのリレのシャルニー家が所有していたものを、1453年にサヴォイ家が所有し、1578年、サヴォイ家がシャンベリからトリノに首都を移す際に、このサン・ジョヴァンニ大聖堂に運んだ。1898年にはイタリア人写真家、セコンド・ピアが初めて写真撮影に成功した。その真贋についてはいろいろと言われているが、興味のある方はいくつか本も出ているので読んでみるのも一興だろう。ドゥオーモで土産品として売られている小さな布にはセコンド・ピアが撮影した写真を利用してキリストと思しき顔が印刷されていた。2010年にはこの聖骸布が一般公開される。

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シンドーネ礼拝堂の聖骸布のレプリカ

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土産の聖骸布のキリストの顔

ドゥオーモの前の9月20日通り(Via XX Settmbre)を渡った向かい側を見ると、両端が円筒型になったレンガ造りの建物がある。これはポルタ・パラティーナと呼ばれ、ローマ時代の城門で、その下の広場にはジュリアス・シーザーのブロンズ像が立っている。カステッロ広場にあるマダマ宮殿もかつてはこの門と同じようなローマ時代の城門であったものを中世から徐々に現在のような姿に増改築をしてきたのだ。

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パラティーナ門

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パラティーナ門に立つシーザー像

トリノの市内地図や俯瞰図を見ると道路が整然と直角に交差した碁盤の目のように造られているが、それはポンペイやエルコラーノなどの古代ローマ都市の構造からも想像できるように、まさにローマ人が基礎を築いた都市なのである。18世紀にユヴァッラが設計したスペルガ大聖堂や19世紀にアントネッリが設計したモーレやポー川の岸辺にフェルディナンド・ボンシニョーレが設計したグラン・マードレ・ディ・ディオ教会を見れば、それらがローマのパンテオンなどの神殿を手本にしているのがよく分かる。

トリノは一見、近代的な産業都市のようなイメージがあるが、実はその下には古代ローマから中世の地層が幾重にも積み重ねられた古の都なのである。

2009年05月08日

北イタリア、芸術と美食の旅、ピエモンテを行く 州都トリノ(その1)

ミラノ、ヴェネツィアと並んで北イタリアを代表する都市、トリノはフランスやスイスとも国境を接するアルプスの麓に栄え、かつてはイタリア王国の首都でもあった。現在、トリノと言えば、フィアットの本拠地として自動車工業や近代産業のリーダー的存在として知られ、またカフェ文化や美味しいチョコレートの街としても知られている。フィギュアスケートの荒川静香選手が金メダルを獲得した2006年の冬季オリンピックの開催地であったことも記憶に新しい。その歴史を紐解くと、紀元前44年のローマ時代まで遡り、街を歩けばローマ時代の遺跡にも出会う。ドーラ川とポー川挟まれ、ガリアを攻めたジュリアス・シーザー初め歴代のローマ皇帝たちもこの地の重要性を見抜き、植民地を築き、タウリ人の土地、タウリノールムと呼ばれていたのがトリノの語源である。タウルはギリシア語、ラテン語では牡牛を意味するので、現在も牡牛はトリノのシンボルマークになっているがインド-アーリア語源では山を意味するので、本来の意味は“山の人”であったようだ。ピエモンテとは山の麓を意味しトリノはアルプス山脈に抱かれた地理条件にある。

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モンテ・カプチーニから見たトリノ市内

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スペルガから見たトリノ市内

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トリノ市内からアルプスの山並みを望む

ローマが滅びた後、ロンゴバルドやフランクの領土となり、11世紀にサヴォイア家が興り勢力を広げ、フランス東部からニース、リグリア、スイスのジュネーヴあたりまで支配下に置き、1563年にフランス東部のシャンベリからトリノに首都を移した。中心部の道路が碁盤の目のように整然と造られたトリノの町のほぼ中央に位置するサン・カルロ広場には1553年から1580年までサヴォイア公であったエマヌエーレ・フィリベルトの騎馬像がある。フィリベルトの生涯は常に戦いの日々であったようで、彫像や肖像画は甲冑姿であることが多いが、「鉄の頭」という別名がついていたというのもうなずける。この騎馬像は1838年にカルロ・マロケッティによって造られたもの。

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サン・カルロ広場, サン・カルロ教会(右)と サンタ・クリスティーナ教会(左

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鉄の頭とも呼ばれていたエマヌエーレ・フィルベルト

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サン・カルロ広場

サン・カルロ広場は17世紀にカルロ・ディ・カステルモンテの設計で造られ、広場の開口部は向って左に1639年創建のサンタ・クリスティーナ教会、右側に1619年創建のサン・カルロ教会が建っている。1715年にサンタ・クリスティーナ教会のファサードはピエモンテを代表する建築家、フィリッポ・ユヴァッラにより現在見られるようなデザインに改装され、またサン・カルロ教会も1836年にロンバルディア人のフェルディナンド・カロネージによりサンタ・クリスティーナ教会と対を成すような形に改装され、現在では双子の教会として親しまれている。

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サン・カルロ教会とサンタ・クリスティーナ教会の背面にあるふたつの彫像

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左はポー川を象徴

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右はドーラ川を象徴

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カフェ・トリノの前にある牡牛の絵

サン・カルロ広場の二つの教会の裏側には2対の大理石彫刻があり、左はポー川を、右側はドーラ川を象徴している。また、サン・カルロ広場に面して開いているカフェ・トリノの入り口の歩道には真鍮製の牡牛が象嵌されており、ミラノのガレリアの床にあるモザイクの牡牛像と同じように、この牡牛の後足の間を踏むと幸運を授かると言われている。
サン・カルロ広場からそのまま北へ出るとグアリーノ・グアリーニの設計による科学・アカデミー館があり、エジプト博物館とサバウダ美術館が入っている。エジプト博物館はヨーロッパでも最も充実した収蔵を誇るもので、今年は日本でも8月1日から10月4日まで東京上野の東京都美術館でこの博物館の収蔵展が開催される。また、サバウダ美術館には15,6世紀のピエモンテの芸術家の作品の他にもトスカーナのベアート・アンジェリコやヴェネトのヴェロネーゼ、ティントレット、マンテーニャなどの作品の他、フランドル派の名品も多数収蔵している。
科学・アカデミー館の並びにはヴィットリオ・エマヌエーレ二世が誕生したカリニャーノ宮殿があり、現在はリゾルジメント博物館として公開されている。リゾルジメントとはイタリア統一運動のことで、フランスやオーストリアと勢力争いをしていたサヴォイア王国が1720年のハーグ条約によりサルデーニャ王国となり、その後、フランス革命、ナポレオンの支配など怒涛の時代を経て、カルロ・アルベルト国王の時代になると当時支配力を強めていたオーストリアに対する独立とイタリア統一の気運がヴェネトやロンバルディアなどイタリア各地で高まり、アルベルト国王の後を継いだヴィットリオ・エマヌエーレ二世の代の1861年にフランスの後押しもあってイタリア統一を実現させた。

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エジプト博物館

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ヴィットリオ・エマヌエーレ二世が誕生したカリニャーノ宮西面

カリニャーノ宮殿から更に北へ向うとトラム(路面電車)の行き交う大通りの向かいに4つの円筒形の塔を持った大きな建物がある。マダマ宮殿で広場に面したファサードは大理石のバロック様式で、カリニャーノ宮殿同様に中世のレンガ造りの建築に1721年、ユヴァッラの設計によってバロック様式の部分を増築したので、このような裏表の趣が全くことなる建築になっている。
マダマ宮殿はサヴォイア家のヴィットリオ・アメデオ一世の未亡人であるカルロ・エマヌエーレ二世の摂政であったマリー・クリスティーヌの住居であったのでマダマの宮殿と呼ばれるようになった。現在は市立古典美術館となっているが、トリノ市の迎賓館としても使用される。

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カステッロ広場にあるマダマ宮殿

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マダマ宮殿夜景

マダマ宮のファサードが面している広場はピアッツァ・カステッロと呼ばれるが、右奥を見ると、白亜の横長の宮殿が立っている。これが1660年に建設され1865年までサヴォイア家の王宮となっていたところで、背後には広大なフランス式庭園があり夏季に公開される。王宮とマダマ宮殿の間にあるふたつの建物は王立兵器博物館と王立図書館で、兵器博物館にはヨーロッパ各地で製造された16,7世紀の武器やアジアの珍しい兵器などが陳列されている。4月25日はリベラツィオーネ・ディタリア(イタリアの解放)即ち、第二次世界大戦でイタリアが連合国軍によってナチスドイツとムッソリーニのファシズム体制から解放された日を記念する祝日だったが、王宮広場ではロック歌手などが出演するコンサートが開かれたくさんの若者たちが集まっていた。

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王宮

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王宮前広場で開催された4月25日の夜の音楽イベント

王立兵器博物館の対面にはサン・ロレンツォ教会があり、建設は1668年から1680年で、特徴的な八角形のクーポラを持ち、グアリーノ・グアリーニの代表作のひとつである。その教会の脇の道を直進する通りが支庁館通りで突き当たりにトリノ市庁舎があるが、この建物もオリジナルは中世もの館であったところを1663年、ロンバルディアの建築家、フランチェスコ・ランフランキにより現在の形に改築されている。

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正面のトリノ市庁舎に続く通り。Via Palazzo di Citta

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トリノ市庁舎

今回の取材はピエモンテ州観光局の招待によるもので、4月22日から25日までの正味4日間を先ず第1日目はトリノ市内の要所とカッフェを中心に回り、23日から25日まではガヴィやアックイ・テルメ、ネイヴェ、アルバ、ドリアーニと各地のワイナリーを中心に回った。トリノではゴールデン・パレスというホテルに最初の2日と最後の1晩の計3泊をした。外観は極めてシンプルだが、内装はロビーやレストラン、そして各部屋などモダンなデザインだが落ち着きのある豪華さを感じさせる快適な空間であった。ホテルのあるArcivescovado通りも街の中心であるサン・カルロ広場にも徒歩で数分の距離にあり、道に迷わなければ、街の要所には徒歩でも十分回れる。夜になってライトアップされた建物を観賞しつつ、歩き疲れたらカフェで一休みする。このカフェについては改めて章を設けて紹介するがカフェ文化発祥の地とも言われるトリノならではの楽しみのひとつだ。
次回はトリノのシンボル的な建物、モーレ・アントネッリアーナの上から見た風景や聖骸布で知られる大聖堂、ポー川沿岸などを歩く。

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Hotel Golden Palace www.goldenpalace.thi.it Via dell Arcivescovado 18 Torino

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Golden Palaceの室内

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Golden Palace Hotelの朝食

2009年02月12日

列車の窓から見た風景・ポー河を渡って光の中へ

ヴェネツィアのサンタ・ルチア駅を出た列車はアドリア海に沿ってアンコーナに向けて走り出しました。この列車は最終的にはプーリア州のバーリまで行きます。パドヴァ、ロヴィーゴ、フェッラーラ、ボローニャ、リミニ、ペーザロ、そしてアンコーナで私は降ります。ヴェネツィアを出るときにはまだ夜の闇のようでしたが、3,40分もしてパドヴァを過ぎた頃から東の空の明るさが増し、霧が少し晴れてくると白く、小さな太陽が遠方にある木々の梢の上に見えて来ました。しばらくして、鉄橋を渡りましたが、この川はヴェローナの上の方から流れてくるアディジェ川です。水源はオーストリア、スイスの国境が接するアルプス山脈。そのアディジェ川流域とピエモンテ州からエミリア・ロマーニャ州を通りアドリア海まで北イタリアを横断するように流れるイタリア最大のポー河流域は肥沃な平野が広がる豊かな農業地帯になっています。

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ポー川は過去、何度も大きな氾濫を起こしていますが、9年前の2000年10月の洪水もすさまじく、ちょうどマジョーレ湖からヴェネツィアまでの取材旅行をしていたのですが、洪水によりあちこちの道路は寸断され、ポー河流域のほとんどが水没しました。その洪水によってまた土地に養分が蓄えられ農地としてふさわしい大地となるのでしょうが、被害の大きさはイタリア史上最大とも報道されていました。しかし、普段は退屈するほどのっぺりと広がる平野です。

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車窓から見える平野の風景は、どこか遠い記憶の彼方で見たことがあるような懐かしさを感じるのです。しばしば、整頓した並木を見せるのはポプラの木で、これは防風林や成長が早いので主にパルプの材料になるらしいのですが、春先は綿毛を付けた種子が飛びアレルギーの原因にもなります。私もポプラのこの綿毛には弱く鼻炎や時には喘息を起こすこともあります。しかし、ひょろひょろと伸びた幹と枝ぶりに柔らかでハート型の葉は風に吹かれるとさざ波のような音を聞かせてくれるし、なによりも絵に描きたくなる姿が好きです。二十歳代の頃は聳え立つアルプスの山容に憧れを抱き、山登りもしましたが、最近はむしろ一見退屈しそうな平野の風景やなだらかな丘陵の風景に親しみを感じるようになりました。ことに霧に包まれたりして、朧げに見えるくらいの風景に心引かれるのです。それを歳のせいと言うのでしょうか。

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平野に植えられている木々は他にもシナノキや菩提樹、時には白樺に似た木も見かけます。北イタリアでは稲の栽培も盛んでピエモンテのヴェルチェッリやノヴァーラ近郊が有名ですが、実はマントヴァからポー河に合流するミンチョ川を挟んだ辺りのお米も良質で高く評価されています。北イタリアではまたポレンタというトウモロコシの粉から作るすいとんのような食べ物が必ずと言って良いほど料理に付きますが、そのトウモロコシ栽培や砂糖の原料になる甜菜の畑も多いですね。その他に忘れてはならない農産物としてはワインのための葡萄やりんご、梨、キウイなどの果物の栽培も盛んですし、ことに有名なのはチーズやバター、生ハムやサラミなどの酪農製品で、列車の窓からも牛舎や牛を見かけます。

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肥沃な農業地帯とは言え、かつては貧しさの象徴のようにも思われた農村地帯で、ベルトリッチ監督の長編映画「1900年(ノヴェチェント)」で描かれる生活がそれを良く伝えています。ボローニャとペーザロの中間あたりにフォルリという町がありますがここはムッソリーニの出身地として知られています。イタリアは1861年の統一にともないローマ時代からの伝統であった封建的な大土地所有制が解体されましたが、さまざまな歪みも生まれました。資本主義的な大農場では農民と経営者の対立が激しくなり社会主義運動が活発になります。ムッソリーニも初めはそうした運動家の一人でしたが、後にまったく逆の立場で独裁的な政治家になってしまったのです。

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鉄道の車窓から見えるイタリアの大地はどこへ行っても絵になるような風景を見せてくれますが、それは長い年月を重ねて農民が作り上げてきたものです。かつては打ち棄てられたような農家も多く見かけましたが、近年は明るいパステルカラーの新しい家並みが現れたり、80年代以降のイタリアの経済発展が漸く農村にも行き届いてきたかのように思えます。農家は現代的な農機具や設備投資が盛んになり、また、様々な分野の工場や流通関連の建築が平野の中に目立つようになり、時として、せっかくの美しい風景を台無しにしているとしか思えない光景も眼にします。それが資本主義的な発展の結果で、生活が豊かになった反面失われていくものもあるわけです。

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イタリアの風景を見てしばしば懐かしさを覚えるのは、かつて日本で見た風景を思い出させるからなのかもしれませんが、そのイタリアも最近は急速に変わりつつあり、少なからず憂いを抱かざるを得ません。だからこそ、余計にまだ壊されていない風景がよりノスタルジックな感情を生むのでしょうね。

2009年01月15日

鳩のいる風景

1月も半ばを過ぎると、お正月気分もすっかり消えますね。特に今年は昨年から続くあまり喜ばしくない社会状況のせいか、お正月すら慌しく過ぎた感があります。イスラエルのパレスチナ攻撃ばかりでなく、どことなくキナ臭い、不穏な空気が地球を覆い始めているような予感さえします。
平和ボケとよくいいますが、良いことが続くと人間は緊張感を失い、判断力や危機感が薄れるということでしょうか。鳩が平和のシンボルとなったのも、洪水が終わり、ノアの箱舟から放たれた鳩がオリーブの枝をくわえて戻ったので、地上に再び平和が訪れたことを知ったというエピソードに由来しますが、やはり世界が常に戦火にあり、人々が平和を望んでいたからだったのでしょうね。

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サン・マルコ広場の鐘楼と鳩

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サン・マルコ広場で鳩の豆を売るマリーノさん

最近は鳩と言うと教会や家の窓辺や遺跡を汚したり、広場に溢れる鳩が飛び立つと思わず口を押さえたくなるような鬱陶しさを覚える人もいると思います。 しかし、街を歩き、ふと気がついてみると、僕は案外に鳩を入れて撮っています。猫の写真も多いのですが、ちょっと思いついて集めてみるとすぐに10や20の鳩がいるシーンの写真がまとまります。まあ、それだけ身近にいつでもいるし、雀やカラスみたいにカメラを向けてもすぐに逃げ出したりしないから撮り易いということもありますが、同時に飛翔する姿など絵になる形にも惹かれます。
これまでに撮った写真の中でも一番気に入っているのが3番目に掲載している、冬のサン・マルコ広場で朝霧の中を飛ぶ鳩のシルエットです。同じく、サン・マルコ広場がアックア・アルタで水が溢れ出してきた時に飛び立つ鳩の群れです。それぞれの鳩の翼の動きが、一羽の鳩を連続して撮ったように並んでいます。この広場ではマリーノさんという鳩の豆売りの友人がいます。僕の顔を見ると、プロセッコを飲もうとカフェ・ラヴェーナに誘ってくれます。
ヴェネツィアは鳩が多いので、中には鳩に行方を遮られて渋い顔で歩く人もいれば、子供たちが鳩を追い回すシーンは良く見かけます。しかし、鳩はやはり平和のシンボルと言われるだけあって愛されてもいるのでしょう。鳩も愛情深いのか、雨のヴェネツィアで運河を眺めながら雌鳩を見つめる雄鳩に思わずシャッターを切りました。鳩がやたら増えるのが繁殖力も強いからですね。

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冬のヴェネツィア、サン・マルコの朝霧の鳩

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ヴェネツィア、サン・マルコからカナル・グランデを眺めつつ

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ヴェネツィア、S.Aponal運河の夫婦鳩

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好きな鳩

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嫌いな鳩

昨年末、シチリアのエリチェを訪ねたとき、マトリーチェ教会の美しい薔薇窓のところに白い鳩がいて、これぞまさに平和のシンボルと思いました。南イタリア、プーリア州のロコロトンドの路地を歩いていたら、家の中から女性が出てきたと思ったらそこに群がっていた鳩がいっせいに飛び立ったのですが、その女性は感動のあまり、両手を広げて喜んでいました。
もうひとつ、お気に入りはアッシージのサンタ・キアラ教会前の噴水で撮った写真です。噴水の水の上がり方はちょっと不満ですが、全体の雰囲気と飛び立つ鳩がいいですね。これはデジカメでしたから、ブルーに発色するようにWBをタングステンに合わせて撮ったのですが、朝の空気を感じさせるものになりました。
ええ、鳩を愛する人にはもうしわけありませんが、実はイタリアでは鳩の料理も多いのです。いつだったか、コルトーナで鳩料理のフル・コースに招待されたことがありました。ちょっと、食べ切れなかったですね。鴨料理は大好きですが。

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シチリア、エリチェのマトリーチェ(母)教会の薔薇窓の白鳩

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ロコロトンドの街で

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アッシージのサンタ・キアラ教会前の噴水

2008年12月15日

ヌマーナからグラン・サッソを抜けてローマへ

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ロッソ・コーネロの葡萄畑

12月4日の午後14時50分発の成田行きアリタリア機に乗るべく、ヌマーナを朝8時半に出発しました。コンテ・レオポルディ・ディッタユーティのオーナー、ピエールヴィットリオの娘と息子がローマに住んでいるので、彼は週に何度か車で往復するそうです。その車に乗せてもらいローマのテルミニ駅まで送ってもらうことになったわけです。当初は冬場の山越えの道路が凍結などで通行止めになってはしないかと心配でしたが、それよりもアリタリア機のストライキや欠航の方が心配大だということでアウトストラーダでローマに向かう方法に決めました

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絵にしたい夕暮れの風景

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ヌマーナの夜空に寒さを忘れる

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Leopardi Dittajuti家の自宅の大きな松

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ヌマーナの伝統的な民家、壁の白い石が特徴

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ローマへ向かう途中に農家により野菜を仕入れる

まずはヌマーナからアドリア海を左に見ながらアブルッツォに入る。ヌマーナを出るとロレートの大聖堂がより大きく見えてきます。1291年にサラセンの追撃を受けて退散する十字軍、そのさなかにナザレにあった聖母マリアとヨセフの聖家族を天使があらわれ、この地に避難させたという伝説が15世紀に誕生し聖堂が建立されました。
朝日に輝くアドリア海を眺めながらさらに走り、アルバ・アドリアティコ、10年余り前にここから内陸に少し入ったトラノ・ヌオーヴォという村にあるアブルッツォのワイン造りの名人、エミディオ・ペペを訪ねたことがありました。車は海岸線に沿って更に先にあるジュリアノーヴァからテラモ方面へと内陸に向かいます。しばらくすると遠方に雪を被った山並みが見えてます。山脈の稜線が徐々に鋭角をましていくと、一気にイタリア半島の最高峰であるグラン・サッソの威容が眼前に迫ります。車はその山塊に突撃するように走り続け、そしてついにグラン・サッソを貫くトンネルを抜けます。アブルッツォの州都ラクイラが現れ、大地はとたんに優しい傾斜の山並みになりました。この自動車専用道路A24のドライブは左右の山並み、など風景がとても良く、変化に富んだ適度なカーブの連続で退屈な疲れを感じません。

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翌朝、ヌマーナからローマへ出発

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ロレート大聖堂。建築はブラマンテも大きな貢献をしている

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アドリア海沿岸からアブルッツォの山中へ

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グラン・サッソの雄大な山脈を眺めつつ走る

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イタリア半島を縦走するアペニン山脈の最高峰グラン・サッソ2912m

ローマのあるラツィオ州に入ると大地が暖かくなっているのか山からの冷たい冷気と大地から上る空気がぶつかり合い深い霧が発生しています。その霧が晴れたころ、風景はもうローマの中心に近いことを感じさせます。糸杉と笠松の並木が見え、青っぽい光がやや金色を帯びて、我々はローマの市外の外環道路に入って行きます。渋滞に少しイライラし始めるピエールヴィットリオを奥さんがなだめるように次を右、その次は左よ、と支持を出し、ついにテルミニ駅に到着した。予定より20分ばかり早い快適なドライブでした。車を止めて構内に入るとすぐにフィウミチーノ空港行き列車が止まっていました。列車の脇に特設の切符売り場があったのですぐに切符も買うことが出来11時22分発のその列車に乗れたのもラッキーでした。空港までは20分ほどで到着します。以前はローマ市内のホテルからタクシーを利用しましたが、この料金が条例では40ユーロとか決められているそうです、大きな荷物がどうのこうのと理由をつけ50ユーロを要求されたり、時にはそれ以上をぼったくる雲助タクシーも多いので、ローマから空港行きはこの列車が一番いいですね。

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グラン・サッソを貫く長いトンネルを抜けるととたんに景色が変わる

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ティヴォリの手前、ローマは近い。突然、霧が立ち昇る

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ティヴォリを過ぎると笠松の並木が見えてきた

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ローマ市内に突入。道路の渋滞がひどい

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ローマ、テルミニ駅に到着


篠 利幸

1977年初渡欧、画家としてしばらく活動後、イタリアの写真を撮り始める。書籍、雑誌等で写真と文筆の両面で活動、「田園のイタリアへ!アグリトゥリズモの旅」(NTT出版)、「トスカーナの青い空」(東京書籍)など著書多数。 2004年11月、ヴェネツィアで写真展(www.toshi-shino.com)を開催した。

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