2009年10月16日

ブラボー! 新生ビショップ博物館

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この夏、いよいよ再オープンしましたね~。そう、ビショップ博物館のハワイアンホールのことです! なにせ開館以来の大規模改装工事のため、ハワイアンホールが閉鎖されたのが2006年の夏。以来、工事が遅れに遅れ、やっと今年8月初旬に待望のオープンを果たしたのでした。


私も駆け足での見学でしたが、噂のハワイアンホール、行ってきましたよ! 展示内容も含め、すっかり様子が変わっていて、まるで初めて訪れた時のような興奮を感じました。やっぱりビショップ博物館は、ハワイ指折りのエキサイティング・ゾーンですネ。


今回の改装工事の主なポイントは、車椅子の人々も3階まで上がれるようにエレベーターを入れたことや、空調設備を入れたこと、そして、天井から自然光が入るようにして内部がグッと明るくなったこと、などだそうです。そういえば、3階まで吹き抜けのハワイアンホールは、コアの階段のみで、身体障害者の方々には不便でした。そして空調がなかったことで展示物の管理が難しく、これまで展示できなかったものもあったとのこと。今回の改装で、永らくお蔵入りしていた貴重な品々も出せるようになったとのことです。もちろん、むし暑い思いをせずゆっくり見学できる点もハッピー!


とにかく外観こそ変化なしですが、ホール内部は激変。一歩足を踏み入れるなり、ワァ~ッと圧倒されたのは、私だけではないはず。天井から、リアルサイズの海の生物のリプリカがたくさん吊り下がっているんですもの。マンタとか巨大な魚とかいろいろでしたが、特にシャークのリアルなこと! 「ここは博物館? それとも水族館?」と、一瞬頭の中で考えてしまいそう…。BGMもそこかしこから流れ、これまで以上に、五感に訴える楽しい内装が施されていました。小さな子供連れでも、これならOKかも!
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各階の展示内容も一新され、1階は神々がテーマ。女神ペレの話やハワイ4大神カネ、ロノ、クー、カナロア、先祖神のアウマクアなど、ハワイの神話世界がティキ像や逸話とともにそこには立体的に展開されています。説明書きも新しくなって、大変大変興味深い内容に。英語だけなのが残念ですが、辞書片手にでもジックリ読みたい内容でした。


2階は古代ハワイアンの生活がテーマ。タパ布など工芸関係の展示や、フラなどアート関係のものもココに。各自がビデオをONにして、画面を見ながらフラのモーションを体験するコーナーもあったりして、結構遊べますよ~。しかも。私の好きな薬草のコーナー、カフナのセクションまであり、地味なフロアのようでいてスピリチュアル色も強いのが素敵。


3階は王族関係、そしてキャプテン・クックが来訪し、西洋世界との交流が始まって以来のハワイを描いています。昔は主に移民のコーナーでしたが、似た内容を新たな切り口で紹介しているということですネ。王族のコーナー1つとっても、ハワイ各島ごとに王族の系統が紹介されていたりして、すごくディープ! ハワイの人々が訪れてもいろいろ学べるフロアだと思います。


思い返せばもう何年もビショップ博物館の会員だったのに、ハワイアンホールが閉鎖中はストップしていた私。今回、改めて家族会員になり、再び1年間無制限に入場できるようになったので、これからまたしげしげと通いたいと思います! また面白いネタを拾ってきたら、ご紹介しますね。どうぞ皆さんも、新生ビショップ博物館、出かけてみてください~!

2009年10月01日

ボールドウィン家、今昔

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マウイ島ラハイナのフロント・ストリートを訪れた方なら。そのど真ん中にあるボールドウィンハウスを見かけたこと、あるのではないでしょうか? 石造りの2階建ての家は今、博物館になっており、1階にはギフトショップも入っています。


この家は元々、ドゥワイト・ボールドウィンが1834年から1868年まで住んだ家だそうです。ドゥワイト・ボールドウィンといえばパイオニア的な、ごく初期のアメリカ人宣教師ですが、ご存知でしょうか? その息子が友人と創設したアレキサンダー&ボールドウィン社(A&B)は、今でもハワイを代表する大企業。そもそもは砂糖きび製造業からスタートし、現在はあのマトソンを運営する海運業や、不動産の分野でもハワイのビジネス界に君臨しています。今でも何せ広大な土地をハワイに所有していて…。A&B社を知らない人はハワイのロコには絶対いないでしょうから、ボールドウィン家といったら、日本でいえば三井家とか住友家? とかっていう名家でしょうか。


A&B社についてこれくらいの知識しかなかった私にとって、アレキサンダー…とか、ボールドウィン…とかという名前に、あまりよい印象を持っていませんでした。昔々の宣教師の子孫が土地持ちになり、結果大儲けしてその子孫全てが大金持ち…という構図、ハワイでは結構あるんです。でもなんだか、あまりいい気持ちのする話ではないような…。だって本来は宗教家だったアメリカ人の子孫が、ハワイの土地を乗っ取ったような感じがするんですもの。そう思いません?


でも今回のマウイ滞在の際、ボールドウィンハウスの説明書きなどよく見てみると。初代ボールドウィンさんは、宣教師とはいえ、本来、医師だったのですね! イエール大学を出て、ハーバード大学院で学んだ、それはそれは有能な。で、そもそもはハワイで医療活動をするため、宣教師の身分でマウイにやって来たのだそうです。それも海外に赴任する宣教師は妻帯者でなければいけない、との規則があったので、ハワイ入りの直前に妻を娶ってまで…。


当時のハワイといえば、はしかや百日咳、天然痘などの大流行で、大量の死者が出ていました。ボールドウィン医師はマウイ、そしてモロカイ、ラナイの病人に献身的に尽くしたそう。特に1853年の天然痘の流行の際、ハワイ各地で数千人の死者が出ましたが、マウイではわずか250人が亡くなったのみ。ボールドウィン医師がワクチン接種や病人隔離を積極的に進めたお陰ですって。初代ボールドウィンさんは強欲な宣教師では全くなくって、英雄だったのですね! …長年の誤解を、ここで心からお詫びしたい気持ちです(ペコリ)。


さてさて。実は以前、ボールドウィン家の一員と、ごく軽~く接触する機会がありました。それはマウイ島のフラ学校を取材した際。クムフラ(フラの先生)がこっそり、「あの青年は、ボールウィン家の出身なんだよ」と教えてくれたんですね~。彼はロングヘアのハンサムさん。髪をハワイアン風にアップにまとめて、フラを踊っていました。スラリとしたハーフ顔の素敵な男性でしたよ! 若いのにベンツでフラのレッスンに駆けつけてきたのを目撃しましたが、ボールドウィンの一族と聞いて納得。


で、またクムフラがポツリ。「彼のお母さんはハワイアンなんだけどね。なんと。ボールドウィン家の中でハワイアンと結婚したのは、彼のお父さんが初めてなんだよ」。…結構これには驚きました! だって。初代ボールドウィン氏がマウイ入りしてから、かれこれ170年。その間、誰も、土地のネイティブであるハワイアンと結婚しなかったのですか!? これにはちょっと複雑な気持ちがしました。別に白人以外の血が入ってないわけではないでしょうが、ハワイアンとの結婚が、今の今までなかったというのは不自然。どうしても「ある意志」のようなものを感じてしまいます。


初代ボールドウィン氏を讃えた後で話が矛盾しますが、やはり、その子孫一族の中では、ネイティブ・ハワイアンと自分達は違う…みたいな、ある種の妙なプライドが働いていたのでしょうか。そう思うと、ちょっとショックな話ではありませんか?


…レッスンの後には皆で食事に出かけ、その話をボールドウィン青年も交えてするチャンスがありました。「あなたのお父さんは偉い! 立派な人ですね」と、よけいなことを言ってしまいました、私。でも本当にそう感じたのですもの。ああ、あの青年は今でも元気にフラを踊っているでしょうか? 今も堂々と、「ハワイアン道」を極めていることを祈ります!

2009年08月28日

マウイの悲劇の王女の墓

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まだ1本もマウイ・ネタを書かないうちに、冬眠してしまいました。いえ、夏眠? 息子の学校も今日からやっと始まり、ホッとしています。6月初旬から夏休みですから、優に2ヶ月半も…。途中5週間のサマースクールがありましたが、それにしてもアメリカの夏休みは長すぎますよね~!


さて、このあたりで本題へ。今回、2年ぶりに訪れたマウイで、どうしても行きたい場所がありました。というか、探りたい場所が…。2年前にマウイでバケーションした際、「マウイの悲劇の王女」というタイトルのネタを書いたのですが、覚えていただいているでしょうか?(詳しくはココhttp://blog.tabista.jp/zatsugaku/2007/08/post_148.htmlをご覧ください) この悲劇の王女というのは、わずか21歳で亡くなったナヒエナエナという王女のことです。カメハメハ大王と、その聖なる妻ケオプオラニの娘だったナヒエナエナ。当時の慣習にのっとり兄であるカメハメハ3世と結婚し出産しますが、産後の肥立ちが悪く、若くして亡くなってしまったのでした。


その悲しい葬列が通ったというルアキニ・ストリートを、前回のマウイで歩いのですが。ではその葬列は、ルアキニ・ストリートを通ってどこへ続いたのでしょう? そのお墓はどこにあるの? というのが、今回どうしても知りたかったことの1つ。そんなわけである1日、ハワイアン夫と子供達をホテルのプールに残し、一人でラハイナ散策に出かけました。


この質問をラハイナにあるマウイ観光局にぶつけてみると。母ケオプオラニ女王の墓が、ルアキニ・ストリートの先にあるので、おそらくそこでしょうとのこと。そこで炎天下を歩くこと15分。…ビンゴ! 王女ナヒエナエナの墓は、ワイオラ・チャーチという由緒ある教会に、母と一緒に葬られていました(上の写真)。


ラハイナの中心地から離れ、海からグッと山側に入った静かな教会の真横に、特別な柵に守られて、ナヒエナエナの墓はありました。そのつつましい墓所を見たとたん、なんだか涙が溢れました。目的の墓を発見して嬉しく、感動したから? …それも1つ。そして。


墓所のある美しい場所は、ナヒエナエナにとっては生まれ故郷のマウイなのですもの。それでいいのかもしれません。けれど、どうして母と一緒に埋葬されているのか? 夫だったカメハメハ3世と一緒に埋葬されていないのはなぜなのでしょう。カメハメハ3世の墓は、ホノルル・ヌウアヌにある王家の霊廟、ロイヤル・モザリアムにあります。


ロイヤル・モザリアムの盛大な様子。そして、そこでカメハメハ3世は2人目の妻である王妃カラマとともに眠っている事実を考えると、なんだか悲しくなってしまった私。そう、ナヒエナエナは3世の妃としてはあまり認識されておらず、歴史上3世の王妃は、あくまでもカラマなんですよね。その墓にも、ナヒエナエがカメハメハ大王とケオプオラニの娘とは記されていましたが、カメハメハ3世の妻とは一言も書かれていませんでした。


ワイオラ・チャーチの墓は、きれいに掃除されていましたが、かけられているレイは古いものでした。あまり訪問する人がいないのかしら? 教会の方にお聞きすると、ナヒエナエナ王女、その母ケオプオラニ女王のための記念祭などは特に行われていないそうですが、毎週日曜日の教会で礼拝が行われる際は、王朝時代の衣装に身を包んだロイヤル・ガード(王族警備隊)の兵士が墓の周りに立ち、墓を守っているとのことでした。


愛する兄であり夫であったカメハメハ3世からは遠く離れ、母と一緒にひっそり眠るナヒエナエナの逸話は、なぜか私の涙腺をひどく刺激します。悲しく切ない気持ちになって、この日も教会を後にしました。

2009年08月01日

古代ハワイにもいた飛脚

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上の写真のハワイアンは、ちょっとコワモテですが、戦士とかではなくて…。古代ハワイで活躍したランナーだそうです。


ランナーといってもスポーツ選手という意味ではなく、飛脚、伝令とでも言いますか? 古代ハワイでは走るスピードとその粘り強さによって飛脚が選ばれ、酋長の伝言を運ぶ役割をしたとか。ハワイ語ではKukiniクキニと呼ばれます。クキニは風のように走ったそう。クキニを描いたとされるペトログリフ(ハワイの絵文字)を見たことがありますが、まさにランナー風に、跳ねるような姿が描かれていました。


クキニは酋長の様々な伝言を運びましたが、ハワイアンが文字を持たなかった時代のことです。全て口承での伝言だったのでしょうネ。ということは、体力だけでなく知力も優れていたことに…。また宣戦布告をする際、クキニには免責の政治特権が認められ、敵は絶対にクキニに手を出さないルールだったとか。


クキニは伝言係というだけでなく、時には酋長に魚を届ける、なんて役割も果たしたそうですよ。カメハメハ大王にはマココというクキニがいて、ある時マココはハワイ島コハラコーストを出発し、ヒロで魚を採り、またコハラコーストに戻ってカメハメハ大王に献上したという…(当時もヒロに水産市場があったのでしょうか―なんて冗談です)。それも1日のうちに!


コハラからヒロといったら、あのビッグなハワイ島を半周するような感じです。車でも2時間はしっかりかかります。ルートがわからないので推測になりますが、カメハメハ大王像のあるハヴィからヒロまでが81マイル、つまりザッと130キロ! フルマラソンの3倍近くの距離がありますよ。これでは古代ギリシャのマラトンも顔負けという感じ。現代のランナーなら、3日はかかる距離といわれています。


しかも。カメハメハ大王の元に到着した魚はまだ生きていて、まばたきしていたというから驚きです。いったい、どんなスピードでマココは野山を走り抜けてきたのでしょうか。大王はその活きのいい魚を、さぞ楽しんで召し上がったことでしょうネ。ハワイアンって、海でも、そして山でも野原でも長けた、強靭な民族なんですね~。


ちなみに上の写真は、今年初めに、ホノルル港のマリタイムセンターを訪れた時に撮ったものなんです。ここは大好きな海の博物館なんですが(ビショップ博物館経営)、なんと驚いたことに、5月に一時閉鎖されてしまいました。財政難のためです。ああ、早く再オープンしてくれないかな~! 皆さんも早くこのランナーの展示を見ることができますように!


さて私事ですが、明日から1週間、マウイ・バケーションのために留守にしま~す。8月7日に帰ってきますので、それまで皆さんもお元気で酷夏を乗り切ってくださいね。ALOHA!

2009年04月07日

名曲「プアマナ」の舞台

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プ~ア~マ~ナ、クウホメ・イ・ラハイナ~♪
(プアマナ、ラハイナの私の家よ)

と謳う名曲、「プアマナ」。人気のフラソングですから、フラを踊る方なら必ず、この曲をご存知でしょうネ。マウイを代表するハワイアンソングの1つとも言えるかも? 私にとっても、大変大変数少ないフラ・レパートリーの1つ。大昔、フラを習っていた時代に、習ったことがありました。


曲の作者は、イルムガード・ファーデン・アルリ。この曲はファーデン一家が住んでいたラハイナの美しい屋敷を謳った歌で、お屋敷はその名もプアマナというんですね~。イルムガードの英語の歌詞を、その父、チャールズがハワイ語に訳したのだそうです(1935年の作)。


家はラハイナの中心地フロント・ストリート沿いに面した海沿いの土地に建っていたそうで、イルムガードが4歳だった1915年に、一家はこの家に移り住みました。一家には12人の子供があり、プアマナは6寝室もある2階建ての大きな家だったとか。一家はこの家で幸せな時間を過ごし、その良き時代を謳ったのが、この名曲なんですねえ。


イルムガードの回想によると、子供達は一人ひとり、この家に引っ越した後にヤシの木を植えたそうです。それぞれのヤシの木の合間にもヤシは植えられましたが、子供達はどれが自分の木であるかしっかり覚えていて、成長を競ったりもしていたそう。そんなわけでイルムガードのヤシの木への想いは特に強く…。歌の2番に「…私の家よ。堂々と立つヤシの木に囲まれて…」のような歌詞があるのも、そんな理由からなんですね~。


プアマナの家は後に売却され、一帯は再開発され今では当時の面影はないのですが、家に隣接していた海辺の土地は州立公園となり、プアマナ・ビーチパークと名付けられました。今でもこの公園には、ファーデン一家の子供達の植えたヤシの木から広がったヤシの木の林の名残りがあり、それが上の写真のヤシの木たちというわけなんです(遠くから撮ったので、どうしようもない写真でゴメンナサイ!)。


この公園の周辺にはさらに、プアマナ・リゾートホテルとか、プアマナ・タウンハウスとか、プアマナ絡みの名が付いた建物がいろいろ。なんたって「プアマナ」は、ハワイでも知らない人がいないほどの名曲ですものね!


…もっともファーデン一家が引っ越す前から、その地域全体がプアマナと呼ばれていたそうですよ。本来はそもそもカウアパウピリとの地名があったのですが、近くにマナという名の酋長が住んでおり、彼が人々を助ける立派な酋長だったことから花に喩えられ(花はハワイ語でプア)、その地もプアマナと呼ばれるようになったのだそうです。お屋敷自体もプアマナと呼ばれていたので、ファーデン一家はその縁起のよい名前をそのまま引き継ぎ、後の名曲が生まれることになりました。


前回のヤシの木の話から飛び火? して、今回はマウイの有名なヤシの木の林の話をシェアさせていただきました。今夏もまたマウイを訪れるので、ぜひこのプアマナ・ビーチパーク、ゆっくりと訪れてみたいと思っています。

2009年03月24日

ビショップ博物館の岩々

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皆さ~ん、お元気ですか? 私は難…いえ、何とか生きておりました。またブログが突如休止して、ごめんなさい~!!! 私が読者だったら、こういうブログは嫌いです。ふざけるな~と怒ってしまうかも。失礼しました(私、季刊誌の仕事が多いため…3ヶ月に一度、最高に煮詰まってしまう時期があり…)。


と、その間、久しぶりにビショップ博物館に足を運ぶ機会がありました。2006年から閉鎖して改装中のハワイアンホールが、いよいよこの夏再オープンだそうです。楽しみですね~。やはり、ハワイアンホールあってのビショップ博物館ですよね。ハワイアンホールが閉鎖中は、ちょっと足が遠のいてしまった私です。


さて、その際、ハワイアンホールの横にある中庭をブラブラしていると。ありました! 昨年9月25日のブログ「カジメロ様の不思議話」で紹介した鮫の神の神像、カパアヘオが!(詳しくはここを参照ください) とても大きなポハク(石)で、これだったら昔からよく見ていたかも…(写真)。そうか、これがハワイ島コハラコーストから、カジメロ家の祖先が運んできたというカジメロ様ゆかりの神像かァ…。しげしげ、眺めてしまいました。


おまけにもう1つ、そのはす向かいに、面白い石を見つけたので、ご紹介します。その名はポハク・ハナ・イカイカ。大昔、力比べに使われた丸い岩をこう呼ぶのですって。イカイカは力とか強さ、ハナは使う、ポハクは石を表すハワイ語。ちなみにこれらの丸い石は、あるものは自然の形、あるものは人間が丸く削ったものだそう。
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それぞれの石はボーリングの玉よりもさらに大きい感じ。手前に写ってしまった私の足先と比べてみると、その大きさがよくわかりますねえ。畏れ多くて触れなかったのですが、いったい、どんなに重いのか…。昔は、これをヒョイッと持ち上げるハワイアンがたくさんいたのでしょうか。
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これらの石がある中庭は、ハワイアンホール正面入口の真裏のあたりにあります。ロビー部分を突き抜けて裏に出られるようになっているので、ぜひ覗いてみてください。目立たない場所にある小さな中庭ですが、いろいろなポハクや植物があって、私の好きな場所なんですよ。

2009年01月23日

エディ・アイカウの記念碑

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サーファーなら。そしてハワイ好きなら。エディ・アイカウの名は絶対ご存知でしょうネ。エディは1970年代に活躍したサーファーであり、オアフ島ワイメア・ベイのライフガードとしても大変有名だったハワイアンです。時には数メートルの波が訪れるサーフィンのメッカ、ワイメア・ベイにおいて、エディの救った命は数知れず…。英雄的なライフガードだったと言えるのではないでしょうか。


そんなエディでしたが、1978年に海で亡くなっています。タヒチへの遠洋航海に出発したホクレア号がトラブルに見舞われた際、クルーだったエディは助けを求めてサーフボードで荒海に乗り出し、そのまま行方不明になってしまったからです。1978年3月のことでした。


あ、ホクレア号も皆さんご存知ですよね? 古代ハワイのカヌーを再現し、近代機器を一切使わずにポリネシアの軌跡をたどる航海を繰り返しているこの双胴型のカヌーは、昨年日本も訪問して、大歓迎されたのでしたよね。


ホクレア号が完成したのは1975年。76年、処女航海を終えたホクレアは、再度78年にホノルルを出航してタヒチに向かいましたが、出航第1日目に船体が水漏れし、夜中の海で転覆してしまったのでした。そこで翌朝、約20キロ離れたラナイ島に助けを求めるため、一人出発したエディ。「大丈夫だよ、僕は無事やり通せるから心配しないでくれ」と言い残して、サーフボードに乗り出立しましたが、そのまま海に消えてしまったのでした。一方、残りのクルーはハワイアン航空のジェット機に発見され、救出されたのですから、皮肉なものです。


さて、昨年のことです。ワイメア・ベイ・ビーチパークを訪れた際、公園の一角に、エディの記念碑があるのに気付きました。もしかしたらずっと昔からあったのかもしれませんが、全く気が付かなかった私。大きくて立派な記念碑なのに、なぜでしょう! 皆さんはご存知でしたか?


石でできたその記念碑には花が手向けられ、ティーリーフで包まれた石(ハワイ式のお供えですね)も置かれていました。表面には、エディを讃える言葉が彫られていますが、これがまたよく書かれていて。ジーンとくる内容だったので、以下に翻訳してご紹介します。


「エディ・アイカウ
1946年―1978年

エディ・アイカウは1978年3月17日、ポリネシア航海協会の双胴型カヌー、ホクレアのクルーのため助けを求めに行く途中、海に消えました。カヌーは3月16日の夜、オアフ島から約32キロの荒れた海上で転覆したのです。

エディは消え去りましたが、その名はハワイの英雄伝の記録の中で生き続けることでしょう。彼の精神もまた、ホクレアが航海する時は必ず、そして彼がホノルル市のライフガードとしてその危険な海から数千もの命を救ったワイメア・ベイのビーチでも、生き続けるでしょう。

彼は偉大な男であり、偉大なハワイアンでした。彼は私達の心の中で、永遠に生き続けるでしょう」


どうです? ごくシンプルな内容ですが、彼の死、英雄的な行為について、しっかり書かれていますね。もちろん私は写真でしかエディを知らないのですが、何だか彼の死が悼まれ、悲しくなってしまいました。


一方、うちのハワイアン夫は、エディをワイメア・ベイでよく「見かけた」そう。と言っても夫は当時まだ中学生だったので、話などしたことはなかったそうです。もっとも、当時エディはセレブ的な存在だったわけでない様子。もちろんサーファーとして、ライフガードとして有名でしたが、人々が遠巻きにするようなお高い存在ではなく、フツーの海の男だったようです。


ただ、ホクレアの事故の後はやはり騒ぎになったよう。夫はワイメア・ベイでのお葬式にも出かけたとか。それはフラを踊ったりミュージシャンが歌ったりという派手なものではなく、地元のサーファーがたくさん参加しての、シンプルな式だったそうです。


「でも葬式の最中でも、あのエディが死んだなんて信じられなかったなあ。今にも沖からサーフボードに乗ってヒョッコリ帰ってくるんじゃないか。そんな気がしてしょうがなかったよ」


と夫。きっと誰もがその頃、同じように感じていたのではないでしょうか。海の英雄、エディが海で死ぬなんて、バカな! と…。エディはこうして、皆の心の中で永遠に生き続けていくのでしょうね。皆さんも、もしワイメア・ベイを訪れたら。写真の記念碑、ぜひ探してみてください!

2008年06月25日

本当にロイヤルなショッピングセンターの話

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先日の夜、久しぶりにワイキキのロイヤルハワイアンセンターを覗いてきました。ロイヤルハワイアンセンターといえば、ワイキキ随一のショッピングエリア。…悪くいえば観光チックな場所という印象があり、家族で出かけることはあまりなかったのですが…。近年、大変貌を遂げつつありますよね。


写真のように、緑の広場を建物の合間に設け、ハワイらしさを打ち出しているのも1つ。巨大なコンクリートの渡り廊下を取り去り、すっきりとした歩道橋をかけたり…。今や観光客だけでなく地元の人々も楽しめる場所にしようと、様々な努力が続けられているようです。


昨年は、センターの文化担当ディレクターに、人気ハワイアンバンド、ホオケナのメンバーでクムフラのマヌ・ボイドを招聘。ハワイ語堪能なマヌさんはセンター内の新施設にハワイ語で名称をつけたり、多彩な文化プログラムを改革したりして、頑張っていらっしゃるようです。


なぜ、著名クムフラのマヌさんがロイヤルハワイアンセンターの改善に駆り出されたかを聞いて、私もちょっとビックリしたのですが…。マヌさんは、ハワイアンの子孫だけが通えるハワイの名門校、カメハメハスクールの卒業生なのですが(私の敬愛するロバート・カジメロもしかり)、ロイヤルハワイアンセンターの所有主は、なんとカメハメハスクール財団なのですって!


センターの建つ土地は、もともとハワイの王族所有の土地だったそう。16世紀の昔から、オアフ島の大酋長カクヒヘヴァのヤシ園が広がり、古来ヘルモアと呼ばれていたのがココ。時を経て土地はカメハメハ大王の手にわたり、最終的にそれを引き継いだのは、カメハメハ王朝末裔のバーニス・パウアヒ王女でした。


パウアヒ王女は自身の全ての財産を「ハワイアンの子供達の教育に役立ててほしい」と遺言し、それがカメハメハスクール、そして財団の設立につながったわけですが、カメハメハスクール財団は今だヘルモアの土地を所有するだけでなく、ロイヤルハワイアンセンターそのものを管理・所有しているのだそう。しかもセンターがもたらす収入は、カメハメハ財団の収入源の中でも最大だそうで。つまり、「ロイヤルハワイアンセンター」という名称も、なまじつけられたものではなかったのですね~。本当に王家の土地に建てられたわけで…。


そんなこともあって、写真では見ずらいとは思うのですが、センター中央の緑の庭園、ロイヤル・グローブには、慈悲深きパウアヒ王女が、小さな女の子に聖書を読んでいる素敵な銅像が設置されています。その周りにはさまざまなハワイの植物が植えられ、ちょっとしたワイキキのオアシスのよう…。


結論から言えば、ロイヤルハワイアンセンターは観光チックどころか、ハワイの歴史に深~く結びついた由緒正しき場所だったわけで。これには私も、ちょっと驚きました。これからは心を入れかえ? 家族連れで遊びに出かけたいナ、なんて考えたりして。だってその収入は、ハワイの子供の福祉に還元されるのですから…。


そうそう、ロイヤルハワイアンセンターに関しては、ハワイ在住者にもグッドニュースが1つ! 以前は頭痛のタネだったセンターの高~い駐車場代も、ここにきて改善されていますヨ。今では、買い物先でスタンプをもらえば2時間$2、食事をすれば4時間$4で駐車可能になりました。しかも買物額に下限はありません。私は先日、2箇所で計$10の買物をしたので(ABCストアとサテューラケーキ。2時間×2)、4時間駐車してお代はたったの$4でした。なんたってワイキキの真ん中に駐車できるのですから、これは便利かつリーズナブル! 今度はビーチ行きの前後にも利用しちゃおうかしら。その帰りにセンターでお茶でもしてスタンプをもらって…と画策中です。

2008年05月13日

ビショップ・ストリートの名の由来

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前回は、ホノルル・ダウンタウンにかつて存在したという、「ハオの泉」の話をしました。その際いただいた中に、泉のあった時代のダウンタウンには、もっと木々が茂っていたのかな…とのコメントがあったのですが…。そうだったと思うんですよ。というのも…。先日ビショップ博物館で、その昔ダウンタウンのど真ん中にあった、バーニス・パウアヒ王女のお屋敷の絵を見たばかりなんです!


大変まずい写真ですが、まずは上の写真をじっくりご覧ください。鬱蒼とした緑に囲まれた、美しく素敵なお屋敷ですよね~。これは19世紀半ば、カメハメハ王朝の末裔であるパウアヒ王女と、その夫であるチャールズ・ビショップ氏が住んでいた邸宅。なんと、現ビショップ・ストリートとキング・ストリートの交差点に建っていたそうです。


今ビショップ・ストリートといえばホノルルのビジネス地区ダウンタウンの中心を貫く大通り。通り沿いには、ビッシリと高層ビルが立ち並んでいます。パウアヒ王女が1884年に亡くなった後、夫のチャールズ・ビショップも邸宅を去り、1900年に取り壊されてビショップ・ストリートが造られたそうなのですが…。なるほど、そのためこの通りは、ビショップ・ストリートと名付けられたわけですね~。


ちなみに写真の邸宅はパウアヒ王女が建てたものではなく、元々はその父で主要な王族メンバーだったパキにより、1847年に建造されたものとか。パキが1855年に亡くなり、その後パウアヒ王女が受け継いだのでした。


…この絵からは邸宅の向きまで伺いしれませんが、この邸宅からほんの100m~200mも行けば、そこはホノルル港なんです。もしかしたら、もしかして。邸宅前の庭はそのまま、海へと続いていたのかもしれません。こんなお屋敷が、今はコンクリート・ジャングルとなっているダウンタウンの真ん中にあったなんて…。ちょっと信じられませんね!

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余談ですが、チャールズ・ビショップはNY生まれの銀行家。ハワイを代表する銀行、ファースト・ハワイアン・バンクの前身であるビショップ&カンパニー・バンクの創設者です。そのファースト・ハワイアン・バンクは今年創業150周年を迎え、ハワイ最大の銀行として健在。お屋敷のあったビショップ・ストリートとキング・ストリートの交差点近くには、今も30階建ての立派な本社ビルから建っています(上の写真)。まさに隔世の感がありますネ。

2008年05月06日

ダウンタウンのハオの泉

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皆さん、今年のゴールデンウィークはいかがでしたか? お天気は今1つだったようですが…。


さて、前回のブログで、WAI(ワイまたはヴァイ)、水の話が出たところで。今日は私の住むオアフ島ダウンタウンの、WAI絡みの伝説を1つ紹介しましょう!


うちから徒歩で約10分のカワイアハオ教会は、ハワイの王族の結婚式なども行われた由緒ある教会です。時の君主カメハメハ3世が、キリスト教宣教師にこの土地を払い下げたのは1820年。ですがそもそも教会が建設される以前、ここにはある王族女性がよく水浴びした美しい泉があったそうです。王族女性は、車でもダウンタウンから10分はかかるモイリイリ地区に住んでいましたが、儀式など特別な機会の前に、よくこの泉で身を清めたとか。


王族女性の名はハオと言いました。そしてハオの愛した泉にちなみ、1820年、この地に教会が建立された時、教会はカワイアハオ教会と名づけられたのでした。カワイアハオとはカ・ワイ・ア・ハオ、つまり「ハオの水」を意味するハワイ語なんですね。


今でもその泉は教会の庭に残っており…(上の写真)。感動しますね~、と言いたいところなのですが、実は今、その水は湧き水ではなく、水道水なのですって。そもそも泉はドンピシャリここにあったのではなく、少し離れた場所にあったのですが、教会が完成した際、泉の周辺の岩をここに移し、ハオゆかりの泉を再現したものだそうです。そう、岩だけが本物というわけです。いったい、どの岩がそうなのかはっきりわからないのは残念ですが…。


とはいえ、カメハメハ王朝時代に、わざわざハワイ初の教会の名が「ハオの泉」と名付けられたのですもの。この泉、よほど由緒ある聖なる泉だったのだろう、と私は推測しています。場合によってはカメハメハ3世教会、とかって名付けてもよかったはずですからねえ。

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余談ですが、ちょっともう1枚の写真もご覧ください。泉の横に、少し変わった形の鉄製のベンチがありますね? このベンチは、あのカイウラニ王女の家に置かれていた「正真正銘」のものだそうですよ。カイウラニ王女といえば、ハワイ王朝崩壊から6年後の1899年、23歳の若さで亡くなった悲劇のプリンセス。王朝最後の女王で叔母にあたるリリウオカラニが跡継ぎに指名していたので、本当ならばハワイの女王になるはずだった女性です。


ベンチは、王女が幸せに暮らしたワイキキの邸宅(現在はプリンセス・カイウラニホテルが建っています)から教会に運ばれたものだそう。もしかしたら昔このベンチに、可憐なカイウラニが腰かけたのかも…? カワイアハオ教会を訪れた際は、ぜひこちらのベンチもしっかりご覧くださいネ。

2008年04月12日

航海術のためのヘイアウ

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皆さんは、オアフ島西部のワイアナエ地方に足を伸ばしたことはありますか? ワイアナエへは、ホノルルから車で約1時間。はっきり言って田舎であり、ハワイアンをはじめポリネシア系の住民のきわめて多い地域です。小錦の住むナナクリも、ワイアナエの一部。ハワイアンミュージックの大御所、マカハサンズの出身地マカハも、ワイアナエなんですね~。


なにせ地元の人々以外、観光客は滅多に足を踏み入れないエリアですから、私のような外国人は目だってしまって行きづらいというか…。正直、行くのが少しはばかられる、辺境のエリアなのです。


そんなこんなで、ワイアナエのポカイベイと呼ばれる海辺のエリアには、訪れたかったけれどなかなか行く機会がありませんでした。ポカイベイは、11世紀前後にタヒチ(もしくはマルケサス)からやってきた大酋長ポカイが上陸した地点とされ、ポカイの植えたヤシの木の林が広がる風光明媚な土地として有名。そのヤシの林の美しさは、古い歌にも詠われるほどです(今は林…といえるほどのヤシの木はすでになく、数本が残るのみなのが残念ですが…)。


とはいえ私が常々ポカイベイに行ってみたかったのは、ヤシの木を見たかったわけではなく。ここには大きなヘイアウ、クイリオロア・ヘイアウがあるからなのでした。…先日、仕事でやっとポカイベイを訪れる機会があったので、今回はこのヘイアウについて、軽くご紹介しましょう!


古代の神殿であるヘイアウといっても、戦いの神のためのヘイアウや平和と豊穣の神のためのヘイアウなど、様々なタイプがあります。またヘイアウは祈祷の場所というだけでなく、カフナ(祈祷師、神官、ある分野の専門家)の本拠地というような意味合いも持ち、たとえばある時は医術のカフナが人々を癒す病院のような場所だったり、医術を教える学校のような役割をも果たしていたようです。


そしてこのクイリオロア・ヘイアウは、ハワイをはじめポリネシア各地で崇拝される神、クーを祀るヘイアウであると同時に、航海術のエキスパートであるカフナが支配するヘイアウでもありました。昔カフナはこのヘイアウに若い王族を集め、大海原を渡るのに必要な様々な知識、つまり潮流や波、風、星、雲の読み方を教えたのだそう。ホクレア号の航海で日本にもお馴染みだと思いますが、古来ハワイアンは、航海のエキスパートでした。大昔、なんの科学的な手段も持たずに星の位置や潮流の方向などを解釈しながら、広い海を自在に行き来したわけです。

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クイリオロア・ヘイアウは岬の先端に位置し、三方を海に囲まれて建っているので、海の様子を勉強するにはまさに最適だったはず。実際、海に突出するようにして建つヘイアウの先に立っていると、まるでカヌーの先端に立っているかのような錯覚に陥るほどなんです! しかも付近には建物もあまりなく、夜の闇も深いでしょうから、海だけではなく星を学ぶのにも最適の場所だったことでしょう。


さて、この日ヘイアウについてレクチャーしてくれたのは、ワイアナエ出身のクムフラ(フラの教師)でした。そのクムフラが、ヘイアウについてもう一つ面白い史実を紹介してくれました。なんでもクイリオロア・ヘイアウは航海術を教える場だっただけではなく、ワイアナエ地方の見張り台のような役割も担っていたのだそう。なにせ素晴らしく見晴らしがいいので、もしもよそから見知らぬカヌーがやってくれば、一目瞭然だったわけですね。もしくは、魚の大群が近づいてくるのも即、察知できます。この見張り台から太鼓を叩いてもほら貝を吹いても、きっとワイアナエ中に響きわたったはず、とクムフラ。いずれにしろこのヘイアウは、ワイアナエの要所だったことは間違いないようですネ。


昔このヘイアウでカフナが大勢の弟子を引き連れ、海の流れや雲の動きを教えた…。もしくはここに大太鼓があって、不審なカヌー軍団が近づいてくると「すわ一大事!」とばかりに太鼓を打ち鳴らしたのかも? …海風に吹かれながら、ヘイアウの端で、いろいろな場面を想像してしまった私。クイリオロア・ヘイアウは、古代のロマン?を感じるな~んだか不思議な場所でした。それもまたヘイアウに漂うマナ(霊力)のなせるわざなのかもしれませんネ。


クイリオロア・ヘイアウはポカイベイ・ビーチパークの海側の端に建っており、週末にはピクニック客なども訪れるのですが、なにせ一言で言ってポカイベイは「辺境の地」。人気のない夕暮れなどに訪れるのはオススメできないので、そのあたり、どうぞご注意くださいね。

2008年03月19日

ハワイで「釣りですか?」はタブー

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ダウンタウンとアラモアナの間にある臨海公園、カカアコ・ウォーター・フロントパークは、私のお気に入りの公園の1つ。広大な芝生のエリアでピクニックしたり、ただ海沿いの遊歩道を散歩するだけでも気持ちのいいものです。なんたって、目の前にバーンと広がるのは、クリスタルブルーの雄大な海。穏やかな夏の朝、この公園でボーっと海を眺めるのが私は大好きです。


といっても公園の一帯の海は岩場で、泳ぎに海に入るのは大変。ですが、1箇所だけ海に下りる階段が設けられているのが嬉しいところ(写真)。その下はちょうど岩で囲まれた天然のプールのようになっていて、子供連れのファミリーもよくここで泳いでいます。以前は、ワンちゃんまで泳いでいるのを見かけました。お散歩中のワンちゃんが飼い主に連れられて、ここから海にドボン。せっせと犬かき?をして、嬉しそうに泳いでましたっけ。


さて、前置きが長くなりましたが…。先日その岩場を通りかかると、銛らしきものを持った男性二人が、ちょうどそこから海に下りていくところでした。バケツは階段にくくりつけて行ったので、恐らく魚を取りに行くのでしょう。こんなところで魚獲り? 「何が獲れるんですか?」と聞きたかったのは山々でしたが、やめておきました。


というのもハワイでは、釣り人に「釣れますか?」とか「釣りに行くんですか?」と聞くのはタブー! ハワイアンの信条ではそれを海の魚が聞きつけて逃げてしまうのだそうで、「釣りに行くの?」なんて聞かれたら、イヤ~な顔をする釣り人がいるのは事実。ハワイの魚って、耳がいいんですネ。


確かに海の民ハワイアンにとり、魚釣りは生活の糧を得る大切な方法でもあったわけで。古来ほかにも様々なタブーが存在したようです。魚の神のための祭壇やヘイアウ(神殿)も昔はたくさんあり、漁師それぞれに、崇拝する魚の神様がいたのだそうです。魚の神のためのヘイアウは一般に、Kuulaクウラ・ヘイアウと呼ばれました。


釣りに関するタブーも神ごとにあり、たとえばある神にとって「黒」がタブなら、漁師や家族は絶対に黒を身につけず、家に黒いものは置きませんでした。また家の前にもテープを張って、黒を着た人が家に入るのを禁じたりもしたそうです。


漁師は漁に出る前、必ず魚の神の祭壇やヘイアウにお参りしたわけですが、中でもオペルと呼ばれる魚や、カツオの漁が解禁になる際には、特別な儀式が行われたとか。たとえばオペル漁なら、解禁前日に人々はクウラ・ヘイアウに魚網を持って集まり、ほかにも豚やバナナ、ココナッツ、ポイなど、たくさんお供えもしたそうです。


その後皆でカフナ(祈祷師)を中心にお祈りをし、夜は1カ所に集まって眠り、翌朝オペル漁をスタート。漁のあとまた儀式があり、この日を境に、漁が正式に解禁となったそうです。


ハワイアンにとり、このオペルやカツオがどのように特別だったのかはよくわかりませんが…。禁漁シーズンを設けていたぐらいですから、きっと貴重でスぺシャルな魚だったのでしょうネ。


そんなわけで、もし皆さんがハワイで釣り具を抱えた人を見かけても。決して「釣りですか?」な~んて聞いてはイケマセン。下手をするとその人は釣りをキャンセル。怒って家に帰ってしまうかもしれませんからね!

2008年01月31日

ハワイの小鳥とイギリス人の過去

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先日、「ケ・カニカウ・ノ・ナ・キア・マヌ」という題名の古代フラを観る機会がありました。私にとっては、そのチャントを聞くのも、フラを観るのも初めて。男性ダンサーの踊ったそのフラは、スピード感があって見応えあるフラだったのですが…実はそのチャントの内容が大変興味深く、いろいろ考えさせられてしまいました!


というのは、チャントの内容はこうなんです。ハンターが森にやってきて、オオという鳥を撃ちまくり…。ハワイの森から鳥がいなくなった…という悲しい内容で。「森に走れ! 走れ!」「撃て、撃て!」「ああ、鳥たちがハンターに撃たれた」「鬱蒼とした森から鳥たちが消えた」などなど、けっこう衝撃的な言葉に溢れ、ティーリーフの衣装をつけて鳥に扮したダンサーが「ああ~! ああ~!」と嘆く場面もあり、見ていて悲しくなってしまうフラでした。


ちなみにチャントに出てくるオオというのは、ハワイ原生の小鳥です。ハワイは古来、オオをはじめとする小鳥の羽根を使った工芸に優れ、王族男性は羽毛のマントやヘルメットをつけたし、王族女性は羽毛のレイ(フェザーレイ)やヘッドバンドをつけることがありました。つまり羽毛の装飾品は王族の象徴だったわけですね。


特に男性のマントは神聖な儀式か戦場でのみ着られる特別なものでした。位が高くなるほど長いマント、低くなるほど短いマントをまとったそうです。ほんの小さな羽根を1枚1枚縫って大きなマントを作るのですから、それは気の遠くなるような作業だったハズ。


最も著名な羽毛のマントといえば、ビショップ博物館所蔵の、カメハメハ大王のマントです。大王のマントは、マモという小鳥の羽根45万枚を使って作られたもので、キア・マヌと呼ばれたハワイのバード・キャッチャー、つまり鳥を捕まえる専門職人が数世代にわたり、なんと8万羽ものマモから集めた羽でできたものだそうです。


あ、鳥を捕まえる…といっても、キア・マヌは鳥を殺すハンターではありませんヨ。キア・マヌは鳥もちで鳥を捕らえ、美しい羽を数枚抜き取ったあとは、鳥を放すのが常でした。たとえばオオは黒い鳥で、尾の近くにほんの数枚、鮮やかな黄色の羽を持っていました。キア・マヌは鳥を捕まえると数枚の美しい羽だけを抜き、そのままオオを放したわけです。もちろん資源保護のために。


では、冒頭で語ったチャントに出てくるハンターというのは、誰のことでしょうか? …これはイギリスからやってきたプロのハンターのことなのですって。…18世紀にキャプテン・クックがハワイ諸島を発見し、ハワイの見事な工芸品が初めてヨーロッパにも紹介されることになりました。


クック自身、見事な羽毛のマントを献呈され、日誌の中で、マントを「それは最も厚みがあり上質なベルベットのようだ」と記していますし、多数のフェザーレイも持ち帰ったそうです。またハワイの王族女性がヨーロッパを訪問するようになり、そのフェザーレイの美しさに目を留めた人々も多かったそう。


そんな経緯で、ヴィクトリア時代のイギリス人は自分達も美しい鳥の羽を手に入れようと、ハワイにプロのハンターを送ったそう。そして…あとはもうおわかりですね。ハワイアンのように羽だけを抜き取るなんて器用なことはせずに、あちこちの森でズドン、ズドンと鳥を撃ちまくった、というわけです。ほんの数枚の羽のために、希少なハワイ原生の小鳥たちを殺してしまったんですね。そのため、1880年代に、オオやマモ、ホアといった小鳥たちは、絶滅してしまったのでした。


私もこれらの希少な鳥が絶滅したのは聞いていましたが、その理由がイギリスから送られたハンターだったなんて! ちっとも知りませんでした。このフラを観るまで。


やはりフラには、歴史や物語など、意味深い知識や事実が秘められているんですね。それにしても…罪深いハンターたち!

2008年01月17日

古代ハワイと日本の関係

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日本から初の移民がハワイにやってきたのは、1868年。明治元年のことだったので、一般に「元年者」と呼ばれています。この時、149人の日本人は日本政府から正式な許可を受けて出国したわけではなく、あくまでも非公式でした。ハワイ―日本間の契約に基づく公式な移民、いわゆる官約移民がスタートしたのはグッと遅く、1885年のこと。


ところが…。以前ご紹介した「楽園考古学」(「篠等先生のハイビスカス」参照)を見ていたら、面白い話が紹介されていました。それよりはるか昔、なんと12世紀頃に、日本からの漂流者がハワイに来ている可能性がある、というのです! ハワイ王国7代目君主のカラカウア王の著書「伝説と神話」によると、12世紀、オアフ島東部のモカプに日本船が漂着。男女が乗っていたという話が残っているそうです。


その後13世紀にも、今度はマウイ島ワイルク沖でやはり日本船が見つかり、息たえだえだった男4人女1人が救助されたとか。篠遠喜彦博士がこの記録を調べてみたところ、この船の船長は日本刀を持っていて、ハワイアンは日本刀を「神聖な神よりの賜」と呼んだそうです。そして5人の日本人の子孫が、オアフとマウイに残っているとも。


古代ハワイに鉄器はなかったのでハワイアンは鉄を非常にほしがり、キャプテン・クックがハワイに上陸した際も、そもそも釘がほしくてクックの船からハワイアンがボートを盗んだのが、クックーハワイアン間の争いの直接の原因だったと言われていますネ。クックによると、クックがハワイを発見した時、ハワイアンはすでに鉄の存在を知っていたそうです(それならハワイアンの目から見た西洋の帆船は、さぞ宝の山、と映ったことでしょうね)。クックは、あるハワイアンは折れた日本刀を持っていたとも言っています。


これが19世紀に入ると、無人、有人含め、日本船のハワイ漂着の記録がたくさん残っているそう。…となると、文字のなかった古代ハワイの時代にも、日本の漁船がハワイに流れ着いていた可能性というのは、十分あるのではないでしょうか?


実際、ビショップ博物館の人類学者、ジョン・ストークス博士によると、古代ハワイには日本の影響? と思われるものが10以上も残っているそうです。たとえば、コナネというゲーム。これは石の碁盤のようなものの上で白と黒の石を使って遊ぶゲームなのですが。篠遠博士によると、ハワイのたいていのゲームは、タヒチなどポリネシアのほかの島々にも残っているのですが、コナネだけはないのですって。


そのほか、日本で大名行列などで使われた毛槍が、似たような形、同じ使い道でハワイではカヒリとして残っていたり。モコモコという、柔道によく似た格闘技が残っていたり…。もしかしたら、もしかして…! 古代ハワイに、本当にわが日本の影響が残っていたとしたら、面白いですね!


ちなみに碁は中国発祥ですが、ハワイ近辺で中国船の漂流とか沈没とかの記録はほとんどないんだそうですよ。日本も中国も地理的条件は同じですが、日本船が多いのは、鎖国時代の日本では造船についても厳しく制限されており、貧弱な船しか作れなかったからではないか、と篠遠博士。中国船は、あまり難破とかしなかったというワケですね。


もちろん、12世紀、13世紀の日本船の真偽は藪の中ですが…。おおいにロマンを感じる話ではありますよね~。

(冒頭の写真は、ホノルル港のマリタイムセンター横に停泊しているフォールズ・オブ・クライド号です)

2007年12月30日

ココはどこでしょう? 第2弾

早いもので、もうアッという間に年が暮れそうです! 皆さんのクリスマスはかがでしたか? 年越しの準備は万端ですか?


ハワイはまだ12月29日ですが、一足先にご挨拶。「本年もお世話になりました。来年も、よろしくご愛読くださいませ!」


相変わらずちゃんとブログが更新できず恥ずかしい限りですが、今年最後の、写真中心のネタをご紹介しましょうね。今日は「ココはどこでしょう?」シリーズ?の第2弾。以下の、素晴らしいクリスマスツリーをご覧ください(ハワイではクリスマス飾りは、年明けまで残されるのが常です)。綺麗でしょ? さて場所はどこだと思いますか? ワイキキのホテル? レストラン?
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実は…なんとダウンタウンにある、ハワイ州最高裁判所なんです(カメハメハ大王像の後ろに建つビル)。最高裁判所のホール…なのにこんなに派手なデコレーションが! 昨日、私も図書館に行く途中ひょいと覗き、いやあ驚きました~。それを2階から見下ろしたところが下の写真。
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ホールだけでなく、法廷の位置する2階もこんなに素敵です。いいですね~。お堅い裁判所がこんなに明るく美しいなんて。ほのぼのとしてしまいます。
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このクリスマスツリーに引かれて、昨日初めて、私も最高裁判所に入ってみたのですが…。それがなかなか興味深くて! 見学者歓迎の歴史センターなどがあり、こちらは改めて出かけ、このブログでもいつかご紹介したいです。で、今日は軽く1つだけ歴史ネタをご紹介。


1階ホールの奥に、ハワイ王国時代に、裁判所として使われていた法廷が残されています(下の写真)。当事からは改装されているのですが、この法廷は同時に、ハワイ王国の議会が開かれた議事堂(でいいのでしょうか?)でもあったそう。その昔はカラカウア王も、イオラニ宮殿からキング・ストリートを渡って議会に出席したのだそうです。議会初日には大砲も鳴らされ、議会のスタートを知らしめたのだそうですよ。
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そうですよね。昔ハワイはれっきとした王国であり。議会もあれば裁判所もあった。それなのにアメリカに国も奪われ、今は…? 


クリスマスツリーに魅かれて入った最高裁判所なのに、最後はついシンミリしてしまいました。いけないいけない。


ともあれ、皆様! 素晴らしい2008年をお迎えくださいね。ハッピー・ニューイヤー!

2007年10月08日

リリウオカラニを慰めた花束

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イオラニ宮殿といえば、ご存知のようにハワイ王国の宮殿ですね。ハワイ王朝7代目のカラカウア王によって1882年に建てられ、カラカウアの死後、王位に就いた妹のリリウオカラニ女王もこの宮殿で暮らしています。


当時としては最高の贅を尽くしたイタリア調の豪華なイオラニ宮殿は、特にカラカウア時代、華やかな社交の中心として機能していました。ですがこの宮殿は同時に、リリウオカラニ女王が幽閉された、悲しい歴史の舞台としても知られています…。


1893年のこと。ハワイ在住の白人ビジネスマンを中心にする革命グループは、リリウオカラニ女王に退位を迫り、アメリカも軍艦をホノルルに派遣するなどして、革命グループをバックアップしました。そんななか、リリウオカラニは戦いによって人命が損なわれるのを避けるため、退位を決意。さらに2年後、リリウオカラニは裁判にかけられ、ハワイアンによる革命を支持した容疑で刑務所に収容されることになりました。


結局、リリウオカラニは刑務所ではなく、イオラニ宮殿に幽閉されたのですが…。上の写真で、2階の角に白い窓当てのある部屋があるのがわかりますか? 宮殿東端のこの部屋でリリウオカラニは、侍女を一人付けただけで外部との接触を一切断たれ、5ヶ月間幽閉されたということです。


当時はダウンタウンにも高層の建物など当然なかったので、本来なら2階のリリウオカラニの部屋からは、真っ青な海や、緑濃いホノルルの街の様子がよく見えたはず。でも窓も一切ふさがれ…。女王の座を奪われたうえに幽閉されたリリウオカラニは、一人どんなことを考えていたのでしょうか? …想像するだに、心が痛みますねえ。


さて、5ヶ月もの間、外の世界とは連絡の取れなくなったリリウオカラニのために、機転を利かせた一人の青年がいました。彼は毎日、リリウカラニに花を届けたのだそうです。


従来ならば外部からの贈り物も禁止されていましたが、そこは美しい生花です。守衛も、まあ花ならよかろうと、青年の花束をリリウオカラニに届けさせたのですが…。この青年が賢かった! 青年はその花束を、新聞に包んで届けたんですね~。そこでリリウオカラニは新聞を毎日読むことができて、世の中の動きを知ることができた、ということです。


この青年の名は、ジョニー・ウィルソン。後に優れた政治家にとなり、1920年から3期ホノルル市長も務めた人物です。そうそう、パリ・ハイウェイに、ウィルソン・トンネルというトンネルがありますね? あれもこの青年の名を取って、命名されたものなのだそうですヨ。


今もイオラニ宮殿では、リリウオカラニの幽閉されたその部屋の窓の白い覆いを、そのまま残しています。私も宮殿の敷地を通過するたびについ見上げては、リリウオカラニを慰めた花束(と新聞)の話を思い出したりして…。皆さんもイオラニ宮殿を訪れた際には。白い板で塞がれたその窓を、ぜひ見上げてみてくださいネ。

2007年08月22日

マウイの悲劇の王女

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ラハイナの街をブラブラしている際、ルアキニ・ストリートLUAKINI STREETというストリートに突きあたりました。ギフトショップが並ぶ賑やかなフロント・ストリートの、ほんの1本山側の道がそれ。ルアキニといえば、ヘイアウ(古代ハワイの神殿)の一種。特に人身御供の捧げられたヘイアウが、ルアキニ・ヘイアウと呼ばれています。「もしかしてこの近くにルアキニ・ヘイアウがあったのかな?」。そんなことを考え、フと撮った写真が上の写真です(しょーもない写真ですみません)。


その後資料をめくってみると、ヘイアウうんぬんの歴史は残念ながらわからなかったのですが、この道にはちょっと悲しい史実がまつわることがわかりました。なんでもこのストリートは、1837年、ナヒエナエナという若い王女の葬列が通った道なのだそうです。


ナヒエナエナはハワイ王室のなかで悲劇の王女として知られているそうですが、正直私は知りませんでした。さっそくリサーチしてみると、悲劇も悲劇、ナヒエナエナはカメハメハ3世の妃で、赤ちゃんを産みましたが、赤ちゃんはたった2時間後に死亡(まだそういう時代でした…)。悲嘆したナヒエナエナもその4か月後、わずか21歳でこの世を去ったということです。


もうちょっと詳しく説明しましょうね。ナヒエナエナはカメハメハ大王の娘。カメハメハの数あるお妃のうち、聖なる妻と呼ばれた高貴なるケオプオラニがその母。ハワイの王族にもランクがあり、うち、当時ハワイ諸島にただ一人残った最も高貴なランクの王族が、ケオプオラニだったそうです。


ケオプオラニはたくさんの子を産みましたが、当時の習慣により、子ども達は母の元を離れ、ほかの王族のもとで育てられていました。けれどナヒエナエナが生まれたとき、ケオプオラニは決して手離さず、自分で育てることにしたのだそうです。もっともナヒエナエナが7歳の時、ケオプオラニは死んでしまうのですが…。


これまた当時の習慣として、昔ハワイの王族の間では、聖なる血流(あ、ダビンチ・コードみたいな表現に…)を守るため、兄と妹の結婚ということも行われていたようです。そのためナヒエナエナも、実兄であるカメハメハ3世と幼い時に婚約。1836年10月に息子を産みましたが、前述のとおり息子は2時間後に死去してしまいます。ナヒエナエナはその後病床を離れることなく、4か月後、息子の後を追ったのでした。彼女の死を嘆いたカメハメハ3世は命日を王国の祝日に定め、毎年盛大に供養したということです。


この話を読んだ翌日、ルアキニ・ストリートに戻り、通りを歩いてみました(夜だったので写真がなく、すみません)。その通りは一方通行のほんの狭い通りで…。この細道を170年前に、若くして死んだ王女の葬列が通ったのかと思うと…。なんとも言えない気持ちになりました。こうして書いている今も、再び、悲し~い気分になってしまったりして。


ハワイ王朝のなかには悲劇の…と形容詞が付く女性が何人もいます。悲劇の女王リリウオカラニ(ハワイ王朝最後の女王)やエマ(待望の息子を5歳で亡くし、数年後夫も死去)、悲劇の王女カイウラニ(リリウオカラニの姪で王座の後継者だったが、王朝は転覆され、王女も若くして亡くなった)など。でも私の耳には、なぜかこのナヒエナエナの短い人生が妙に悲しく響くのです。


この王女が19世紀のマウイでひっそりと亡くなり、歴史の表舞台からも隠れていた、という事実のせいなのかも…しれませんね。

2007年08月15日

ラハイナ歴史散歩

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マウイに6日間に滞在したうち、1日はゆっくりとラハイナの街を探索してきました。ラハイナといえばギャラリーが多いことで知られていますが、宝石店も多いですね~。ですが高尚な芸術作品にもゴージャスな宝石にも手が出ない私は、買物は早々に済ませ(笑)、街の歴史探訪を楽しみました。


なにせラハイナは1790年にカメハメハ大王がマウイを征服後、息子のカメハメハ2世、3世の時代には、ハワイ王国初の首都が置かれた土地でもあります(1795年~1845年)。19世紀初頭、ラハイナの海では捕鯨が盛んで、捕鯨基地として栄えたのもこの街。キリスト教宣教師が多数住みついたのも頷けますね。


そんなこんなでラハイナには史跡を巡る「ラハイナ・ヒストリカル・ウォーキング・トレイル」というのがあり、60以上の見所が地図に落とされています。そのウォーキングマップがいくつも作られており、写真にある3種は、「ヒストリカル・ラハイナタウン・ウォーキングマップ」「マウイ・ヒストリカル・ウォーキングガイド」「ラハイナ・オ・モオレロ」。街中にある観光案内所やツアーデスクに置いてありますので、まずそれらを手にしてから、ゆっくりラハイナの街を歩いてみてください!


62の見所には宣教師の家や教会、墓地、元裁判所などが含まれていますが、私が真っ先に出かけたのは、デビッド・マロの屋敷跡。デビッド・マロといえば、ハワイアン初の歴史学者です。18世紀末、カメハメハ大王に仕える父のもとに生まれ、古代ハワイの風習や歴史について多くの文献をハワイ語で書き残したマロ。彼のお陰で、貴重な大昔のハワイの様子が今に伝わっているとも言えるほどです。なにせ昔ハワイには文字がなく、歴史も何も全てチャント(詠唱)により伝わっていたのですから、古代の知識を文字にしたマロの功績は大きいわけですね(私もマロの名著「ハワイアン・アンティーク」、持っています!)。


マロはハワイ島生まれですが、その後ラハイナに移り住み、現在ラハイナの繁華街ともなっているフロント・ストリートから2ブロック山側に入った屋敷に住んでいたそう。「もしかしてマロの書いたハワイ語の原書とか、マロの使用した机やペンが飾られているのかしら?」。胸をはずませて出かけたところ、残念ながらそこには何もなく、まあ「跡地」ということだけだったのですが…(泣)。それでも私は興奮しました! あの歴史学者マロがここに住んでいたのか~と思うだけで、いろいろな感慨に襲われたものです。


ラハイナにはマロの学んだラハイナルナ・スクールも残っていますし(ロッキー山脈以西の高校としてはアメリカ最古だそうです)、ラハイナを見下ろすボール山(下の写真)には、マロの墓も残っています。そう、ラハイナは、私の尊敬するマロゆかりの街だったんですね~。
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なんでも1853年に亡くなったマロは、白人たちの影響がハワイを大きく変えつつあるのを嘆き、「外国の侵略の潮流からはるか上に位置して安全な」、ラハイナを見下ろす山の上に眠りたい、とリクエストしたそう。マロもキリスト教に帰依し、自身も牧師を務めていたのですが、移り行くハワイの未来に胸を痛めていたのですね。それが、彼がハワイの歴史を本にした理由の一つだったのかもしれません。できたら、今度はマロのお墓を詣でてみたいナ、と思います。

2007年07月12日

パンチボウルの丘の過去

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うちの窓からはパンチボウルの丘がよく見えるのですが、そもそもパンチボウルのクレーターといえば、第2次大戦や朝鮮戦争などで亡くなった4万6000人の兵士が眠る、国立墓地ですよネ。国立墓地が設立されたのは、1949年だそうです。


ですがそのはるか以前からこのクレーターは、実はハワイアンによって、埋葬地として使われてきました。首長一族の多くが、ここに埋葬されているのだそうです。そのほか養魚池の遺跡などもあり、クレーター内は歴史的に、大変重要な地域だったのでした(この養魚池は、メネフネが作ったとの伝説もあります)。


19世紀、初めてクレーターに国立墓地を造る案が持ち上がった際、「死者の町を生者の町のうえに造るのか!」と激しい反対の声が上がったそうなのですが…。その背景には、こうしたクレーターの文化的・歴史的重要性も関連していたのかもしれませんネ。


さて今でこそパンチボウル、なんてキュートな名称で親しまれているこの丘ですが、古来ハワイ語では、Puowainaプオヴァイナと呼ばれていました(今も墓地に通じる通りはプオヴァイナ・ドライブと呼ばれています)。そしてプオヴァイナとは…ハワイ語でズバリ「いけにえの丘」を意味します。昔クレーターの淵に大きな岩の祭壇があり、そこで無数のいけにえが燃やされたことから、この名前があるのだそうです。


この岩の祭壇はクレーターの東端、今、白いコンクリートの展望台があるあたりに鎮座していたそう。いけにえにされたのは、さまざまな社会の規律を破った罪人たちでした。古代ハワイには「女性は豚肉、バナナを食べてはいけない」「酋長の影を踏んではいけない」など無数のタブーがあり、それらを破った罰がなんと死刑だったんですね。恐ろしいことです!


こういった罪人は各島から集められると、まずは丘の下方にあるケワロの泉に連行されたとか。ケワロの泉の別名がまたコワイ。なんと「溺死の泉」! この泉は、罪人たちを溺れさせるのに使われていた泉なのだそうです。


ケワロの泉ではまず、カフナ(神官)が罪人の頭を水のなかで抑えつけて溺死させます。抵抗すれば自分の家族までが死刑になる可能性があったため、多くの罪人は静かに死んでいったよう。そしてもし暴れる罪人がいたら、カフナはこんな言葉を囁いて、さらに頭を抑えたのでした。


「Moe Malie I Ke Kai O Ko Haku」(上位者の水に、静かに横たわりなさい)


次いで遺体はパンチボウルの裾野にあったヘイアウ(神殿)、カネラアウ・ヘイアウでの儀式を経て、クレーター縁のいけにえの岩に運ばれ焼かれました。人々は丘を仰ぎ見て煙が立っていると、「ああ、またいけにえが捧げられた」と噂しあったということです(ゾゾッ)。


ちなみに、カネラアウ・ヘイアウに最後のいけにえが捧げられたのは1862年。ハワイ王国4代目君主、カメハメハ4世の息子アルバート王子が危篤状態になった時、カメハメハ4世は王子の回復を祈っていけにえを捧げたのでした。愛児の消えいく命を前に、カメハメハ4世も必死だったのでしょう。いけにえの命と引き換えにしてまで祈ったにもかかわらず、王子は病死。このいけにえはハワイ史上最後のいけにえとして、歴史書に記録されることになりました。


くだんのいけにえの岩はもうクレーター内に残っておらず、その後の行方は不明。国立墓地に展望台が設置された時に取り除かれたまま、どこにいったかは誰にもわからない、と国立墓地の職員さんは言っていました。相当大きな岩だったようなので、恐らくいくつかに砕かれて、撤去されたのだと思います。


余談ですが、ついでにこんなことも職員さんに聞いてみました。


「クレーター内で幽霊を見たとか、何かコワイ経験はありませんか?」 


ところが「まったくナイね」と職員さんはそっけない。


「真夜中にここでひとりきりになることも多いけれど、静かで平和でいいところだよ。僕はすごく落ち着く。ゲートも閉めるから、悪い奴も入って来ないしね。僕にとっては幽霊なんかより、人間のほうがよっぽど怖いよ」


一度夜に来てみるかい? なかに入れてあげるよ、とも言ってくれたのですが、もちろんノー・サンキュー! ハロウィーンの夜なら面白いカモしれないですけれどね~。どうです、皆さんは中に入ってみたいでしょーか?
 

2007年06月03日

タブーを改めた王様

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前回まで2回続けて、ちょっとおどろおどろし~い話題をお届けしました。今回は爽やかに…教会のお話です!


ホノルル・ダウンタウンのカワイアハオ教会は、これたびたび触れてきたように(「ハワイアン初のクリスチャン」参照)、私も挙式した、私の大好きな教会です。1820年、カメハメハ3世の命により建立されたハワイ初のキリスト教会であり、歴代の王の戴冠式や結婚式、葬式も行われた、由緒ある教会なんです~。


ハワイ王朝ゆかりの教会ですから、礼拝堂の一番後ろには、なんとロイヤル・ボックスも(上の写真)。コアの木でできたロイヤル・ボックスに、その昔は、美しく着飾った女王や王女、凛々しい王様たちが座ったわけですね。


1893年、白人勢力によるクーデターにあってハワイ王朝が崩壊した後は、その席に座る人はなくなったわけですが…。今でもそこにはカヒリ(古代ハワイで、身分の高い人が行くところ必ず掲げもたれた、王族のシンボルのようなもの。小鳥の羽根で作られている)が掲げられており、なんとなく神聖な雰囲気が漂っています。そう、もし誰かがいたずらに腰かけたのなら、罰があたってしまいそうな雰囲気が…。


ただこのロイヤル・ボックスについては、教会を建てる際、ちょっとした悶着があったそうです。ちょっと下の写真をご覧ください。教会には中2階というか2階に回廊があり、ここにもたくさんの席が設けられています。ところが古来ハワイには、「絶対に庶民は、王族より高い場所に立ったり座ったりしてはいけない」というタブーがありました。昔は王族の影を踏んだら死刑になったほどですから(「ハワイアンと影の関係」参照)、こういったタブーは古代の生活のなかで絶対的な束縛力を持っていたわけですが…。
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そこで、1階席の後方に王族たちの座るロイヤル・ボックスがあるのに(ちょっと高めに造られています)、2階席を造るのはもってのほか! という意見が出たのだそうです。


結局、時の国王、カメハメハ3世が特別に許可を出したため、無事予定通り教会に2階席が造られることに。カメハメハ3世、なかなか話のわかる人だったようですネ。


今教会の回廊には、ハワイの王族たちの肖像画がグルリと掲げられ、ブラブラ見て歩くのも一興。もしもこの教会を訪れることがあったなら…ぜひぜひ、曰くのある2階席とロイヤル・ボックスも、見学してみてください! 

2007年04月30日

「銃後の守り」はハワイになかった?

日本では昔よく、「銃後の守り」なんて言葉が使われましたよネ。男が戦場に赴いた後、妻たちが村や家族を守る…といった意味で。ところが古代ハワイの妻たちの役割は、日本とは大違いだった様子。時には妻も夫に同伴して戦いに出かけ、運命をともにすることが多かったのだそうです!


19世紀初頭のハワイに滞在したイギリス生まれの宣教師、ウィリアム・エリスによると、ハワイの女性はしばしば、水の入った瓢箪や食べ物を抱えて戦士たる夫に付き添ったとのこと。妻は夫の後ろに控え、夫が疲労したときには、サッと面倒を見れるように備えたのでした。もちろん、夫が負傷した時も同じこと。妻がかいがいしく介護したようです。


なかには夫の後ろではなく同列に立ち、左手に水入りひょうたん、右手には槍や石を持って戦った妻もいたのですって! ですが夫が戦死した後は、妻が生きて帰れることはマレだったよう。傍らで守ってくれる人がいなければ、いかなる猛女も戦場でサバイバルすることはできなかったのは当然ですね。


…つまりハワイでは「銃後の守り」ではなく、「死なばもろとも」だったワケです! ウ~ン、ハワイではまた、女性も勇猛だったんですねえ。あ、ただこれは当時のソサエティ諸島(タヒチ)でも、同じだったようですが。


ウィリアム・エリスは特に、マノナという誠実な酋長の妻の例をあげ、その勇気を讃えています。マノナの夫は、カメハメハ大王の甥のケクアオカラニ。カメハメハの死後の1819年、カメハメハ2世に宗教戦争を挑み、戦死した酋長でした。この時、妻のマノナも夫に付き添って出征し、その日、夫とともに終日勇猛に戦ったそう。


夫が敵の銃弾に倒れ、着ていたフェザーケープ(古代ハワイで王族だけが身に着けることができた羽毛のマント)で顔を覆って死ぬと…。マノナもまた、味方を呼び寄せようとしたその瞬間に撃たれ、夫の亡骸のうえに崩れ落ちて死んだそうです。なんだか、ディズニー映画かなにかにしてほしい、悲しくも美しいお話ですね。


…そういえば以前にも、王族の妻は夫と一緒に戦いに出かけ、夫が殺されれば夫のフェザーケープをまとって戦った、という話を読んだことがあります。もちろん、ハワイの全女性がそうして戦ったわけではないでしょうが…。なかには勇敢な妻たちがいた、ということなのでしょうネ。


女性はバナナやポークが食べられない、男女同席しての食事が許されないなど、古代ハワイでは女性の地位が低かったような側面も確かにありますが…。どうやら古代ハワイの夫婦は、絆が強いというか、一心同体、運命共同体のようなものだったようです。…ちょっと感銘を受けました。

2007年03月29日

クックの遺体に何が起こったか

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アロハエクスプレスの次号取材で、2月下旬、ハワイ島コナを訪れました。そう、コナコーヒーの取材です。ですが、キャプテン・クックが上陸し、後に殺されたコナのケアラケクア湾を通過しながら、私の脳裏に浮かんだのは…キャプテン・クックの遺体に何が起こったか? という不気味な(不謹慎な?)トピックでした!


1778年、クックがハワイ島に上陸した際、ハワイアンは当初クックをハワイ神話上の神ロノと勘違いし、大歓迎。ところが後々クック一行とハワイアンの間に行き違いが生じ、結果的にクックはハワイアンに惨殺されてしまったことは、「私はキャプテン・クックが嫌い」でふれた通りです。では、その後クックの遺体はどうなったのでしょうか?


それについては、実は1823年にハワイを訪れたイギリス人宣教師、ウィリアム・エリスがいろいろ書き記しています。エリスがハワイ入りした時、ハワイ島にはまだたくさん、「クックの殺害現場にいた」または「親戚や家族がその場にいた」という人々がいたそう。そこでクックの死についても、エリスは詳しく知ることができたのですが…。


それによると、クックの死の翌日。カフナ(ハワイの祈祷師)からイギリス人一行に返されたのは、クックの手など、ごく一部だったそうです。手はタパ布と、白黒の鳥の羽で作ったマントに包まれていました。クックの手には大きな傷があったので、すぐにクックのものとわかったそうです。一説によると、その手には塩漬けにされていたとか(なぜか、保存されようとしていたんですね)。


その後イギリス人の要請により、頭蓋骨や腕、足の骨が返還されましたが、顎や足の骨、肋骨などが欠けていました。しかもそれらは、肉をはぎとった骨だけ。…一般に見るとずいぶん野蛮な…と感じるでしょうが、「ハワイアンの遺骨」で書いた通り、遺体から肉を取りのぞくのは、古代ハワイの埋葬方法ですからネ。イギリス側はそれらを受け取って、水葬したということです。


この時返されなかったクックの骨について、イギリス人がハワイを訪れるたびに探しましたが、「骨はもう焼かれた」「紛失した」等々の情報しか入ってきませんでした。ただ、どうも真相は、クックをいまだロノ神と信じる一行により骨が隠された…ということのようです。ケアラケクア湾からずいぶん遠くにロノ神のためのヘイアウ(寺院)があり、そのヘイアウのカフナがクックの骨を守っていて、崇拝対象としていた模様。つまり御神体というわけですネ。


ロノ神のカフナは年に一度、島中を巡ってヘイアウへのお布施を集めましたが、その際、クックの骨も一緒に島を巡ったとか。しかしその後クックの骨がどうなったのかは、神のみぞ知る…。今もその行方はわかっていません。


…クックは怒れるハワイアンに殺されてしまったわけですが、それでもクックを白い神と信じ、死後骨が崇拝されただなんて…。ハワイアンの心情にも、なんだか複雑なものがあるようですネ。実際、エリスによればクックの死に関し、ずいぶんハワイアンたちも苦い思いをしたそう。話が前後しますが、その話題についても、いつかお話したいナと思います!


今日はなんだか、おどろおどろしい話題になってしまいました。先日コメントで「怖い話、不思議な話を」とのリクエストがありましたが、今日の話題は怖い…というより、ちょっと気持ち悪かったですね?(すみません)


次回は、なにか可愛らしい話でもご紹介しますので、お楽しみに~。

2007年03月02日

続ハワイアンと鮫のディープな関係

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前回お話したように、ハワイの海で鮫は、まさしく向かうところ敵なし。激しく噴火する火山への畏怖が、怒りっぽくて残酷な火山の女神ペレの神話を創りあげたように、鮫へのそんな恐怖もまた、鮫を神格化したのでしょう。女神ペレがタヒチからやって来た時、兄である鮫の神も一緒にやってきたとか、真珠湾の鮫の神の話などなど、鮫に関する神話・伝説は枚挙にいとまがありません。クジラ神話が見当たらないのとは、大きな差があります。


鮫は一般的に神であるばかりでなく、ハワイで各ファミリーにいるとされる守り神アウマクアの一種なので、鮫を崇めるファミリーも多いもの。そのため、「病気になった祖母に頼まれ、ある入り江に住む白い鮫に餌をやりに行った。すると祖母が回復した」なんて、一見(一聞?)ナンセンスな話を聞くことも、ハワイでは珍しくありません。


たとえばマウイ・オーシャン・センター水族館の文化コンサルタントを務める宗教家、チャールズ・カウルヴェヒ・マックスウェルさんは、2001年1月14日付けの地元紙ホノルル・アドバタイザーのなかで、鮫に関する逸話をいくつか紹介しています。チャールズさんは昔モロカイ島沖で、鮫に餌をやるハワイアン・ダイバーを見たとか。ダイバーは銛で魚を突いており、1尾突いては海に投げ、次の1尾を自分のものにする…と、実に2尾に1尾を海に捧げているのでした。


「すると、どこからともなく大きなタイガー・シャークが現れたんだ。僕はダイバーが襲われるかと思った。ところがダイバーが僕に言うんだ。『この鮫は僕の守り神なんだ。僕の行く先どこへでもこの鮫は現れて、助けてくれるんだよ』」


チャールズさんはまたその記事のなかで、1930年代に起きた海難事故にも言及しています。ある時モロカイ島沖でツアー・ボートが沈み、乗客は皆、鮫に殺されてしまったそう。ところが船長のハワイアンがチャント(詠唱)を始めると、船長の一家の守り神である大鮫が現れ、船長を背に乗せて陸まで送り届けてくれたのだそうです。不思議な話ですね~。


その記事のなかではほかにも、「守り神の鮫が現れると、その日は必ず大漁なんだ」と語るハワイアンなども紹介されていて、ハワイアンと鮫の愛憎関係というか複雑な関係を浮き彫りにした、興味深い記事でした。


なお現在のハワイアンと鮫の関係?ですが、ハワイで年に数回は鮫の襲撃事件が起きているものの、「鮫に噛まれた」だけで鮫に食い殺されたという事件はここ数年起こっていないかもしれません。鮫は人間をカメなどほかの生物と間違えて襲うのであって、そもそも人間を食べる習性はないというのは本当のようですネ。


ちなみに私も幸いなことに、今のところハワイの海で鮫に遭遇した経験は皆無。ただしハワイアン夫は一度、深夜にサーフィンをしていて、少々怖い体験をしました。サーフボードに寝そべって浮かんでいたら、下からなにかがドンッ!とボードに当たったので、あわてて海から上がった、と夫。


それが鮫だったのかどうかは、「神のみぞ知る」ですネ。ただ鮫は夜間、獲物を狩ると言いますから、夜中にサーフィンなんて命がけもいいところ。皆さんも、どうぞ夜中に海に入るなんてことはなさいませんよう…。映画「ジョーズ」の冒頭シーンの再現になっては、大変ですからね!


お知らせですが、明日から3日間、今度はハワイ島ヒロに出張です。コメントのお返事などは帰ってからになりますので、よろしくお願いいたします~。

2007年02月25日

ハワイアンと鮫のディープな関係

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ハワイ語で鮫はManoマノ。ハワイにもブルー・シャーク、ガラパゴス・シャーク、リーフ・シャークなど数種の鮫がいますが、そのうち人を襲うことがあるのはタイガー・シャーク、そしてシュモクザメです。映画「ジョーズ」に登場したホオジロザメもごく少数いるのですが、幸いなことに滅多にハワイでは目撃されていません(ホッ)。


ホオジロザメが人を襲ったとされる事件も、私が覚えている限りでは1度だけ。オアフ島ワイアナエコーストでイルカと泳いでいた男性が、ふくらはぎを噛まれたというものです。それだけのけがで住んだローカル男性は、本当にラッキーでしたね~。


ハワイアンにとって鮫は古来、少々複雑な存在でした。恐怖の的でもあり、同時に尊い神として崇められてもいて、いずれにしろ、ほかの海洋生物より格段に重要な意味合いを持つ存在だったと言えるでしょう。この点、以前お話したクジラとは、大違いだったと言えます。


鮫を神格化するハワイアンは古来、積極的に鮫を食料としたわけではなく、鮫釣りが王族の勇猛なスポーツだったほかは、ごく必要分だけ捕まえたようです。鮫の歯をノコギリの歯のように埋め込んだ棍棒は武器として重宝されましたし、皮は大太鼓を作るのに使われました。


もっともいくら神格化されているといっても、ハワイアンが海で鮫と遭遇するのを恐れなかった…なんてことはありません!


「鮫は荒れ狂う海のライオンであり、鮫を飼いならすことは誰にもできない」


鮫の恐ろしさをこうピタリと表現したのは、19世紀のハワイアン歴史家、カマカウ。鮫が海のライオンとは、まさに言いえて妙ですよね! カマカウは名著「ピープル・オブ・オールド」のなかで、さらに以下のように続けています。


「鮫は人を丸ごと飲みこむこともできる。誰かが鮫を怒らせれば鮫は何十もの歯を剥き出し、そこを海水がタプン、タプンとよぎり――鮫に襲われてカヌーをバラバラにされ、鮫の上下の歯に挟まれて上下左右に振り回される時の恐怖は、何事にも例えることはできまい。ハワイにはまだ、こういったシーンを目の前で見たという人々が存在する」


カマカウ自身が恐ろしい鮫の襲撃を目にしたわけではありませんが、マウイではしばしば、鮫に襲われた人に会う機会があったようです。ある時は片足と手を鮫に食いちぎられ、臀部は欠け背中には大きな傷があり、顔面も片目と頬に切り傷が走っている人に出会ったとか。ゾ~ッ!


また「本当に気の毒な女性にも会った」とも。「彼女は危うく鮫に飲み込まれそうになり、体の前面と後ろに、鮫の歯形を残っていた。彼女は海に仕かけた魚網をチェックしていて、目の前を小さな鮫が過ぎていくのを見た。そのとたんに体が生ぬるく感じたと思ったら、何と全身が大鮫の口にすっぽり入っているのだった。と、大鮫の口が閉まりそうになったその時、最初に見た小さな鮫が大鮫の口をなんとか開こうとしていて、女性はなんとか大鮫の口から抜け出ることができた」


カマカウは1845年、マウイ島ラハイナでこの女性に会ったそうで、頭のてっぺんから足先まで走る鮫の歯形を見た、と記しています。昔は今よりも海の生物も潤沢だったでしょうし、ハワイアンと海の精神的、物理的な距離も近かったでしょうから、鮫の事故も多かったのかもしれませんネ。


(次回に続く)

2007年01月22日

ハワイアンとチャント

古代ハワイアンが文字を持たなかったのは、皆さんもご存知ですよネ。「初めてハワイアンが文字を持った日」で書いたとおり、ハワイアンは歴史や天変地異などすべて重要な出来事を、チャント(詠唱)に盛りこんで後世に伝えてきたわけで。特に王族一族に関しては、家系図をはじめさまざまな事実が、しっかり記録されていたようです。

18世紀のハワイアン歴史家カマカウによれば、王族の生まれた日や場所はもちろん、どこでへその緒が切られ、どこに隠されたか。胎盤はどこに捨てられたか。そして王族が死ねば、どこに埋葬されたのか。こと細かくチャントに残されたのだそうです。ハワイ諸島のなかでもオアフ島とマウイ島は、王族一族に関する歴史的事実がしっかり残されていることで有名なのだそうです。

そういえば17世紀のオアフの大酋長、カクヒヘヴァについての古いチャントにも、その出世の地としてオアフ島ワヒアワのクーカニロコ(産みの苦しみを和らげるとされる岩があり、王族女性がここで出産しました)の名が謳われていましたっけ! カクヒヘヴァに限らずそれぞれの王族について、こうした人生の重要な出来事が数百年も後世へと伝えられているなんて…。口承伝承を続けてきた昔の人々というのは、ホント、すさまじい記憶力の持ち主だったんですねえ!

…これはハワイの例ではなくて恐縮なのですが。先日メラネシアのバヌアツ共和国(旧ニューヘブリデス)について読んでいた時、面白い事実にぶつかりました。バヌアツもハワイ同様、大昔は文字を持たず、口承で文化・歴史が伝えられてきた島です。バヌアツにはロイマタという偉大な酋長がいたとされ、1265年頃亡くなり、ある無人島に埋葬されたという言い伝えがありました。

そして1967年。フランス人考古学者がロイマタが実在の人物だったかどうかを知るため、無人島で墓を調査したいと申し出、許可されました。すぐに考古学者は墓を発見。それもロイマタだけでなく、伝説で伝えられたのと全く同じ、47人の遺体が発見されたのです! 伝説はロイマタとともに「46人の会葬者が同じ場所に生き埋めにされた」と伝えていました。それが正しかったわけですね!

しかも放射線炭素によって、それらの遺骨が埋められたのは、1250年から1300年にかけてだったことも判明。つまり、700年も前の口承伝承の内容が、きわめて正確だったということになります。

日本人は常に文字により故事を学んできたので、口承伝承ってどんなもの? 口づてで何世代も歴史を伝えるのは不可能、電報ゲームのように内容が変わってしまうんじゃない? と思いがちだと思うのですが。バヌアツの伝説が示すように、どうやらそうとも言いきれないようですね! きっとハワイのチャントに伝わる歴史も、まるで古い書物を紐解くように詳しく古代の生活を伝えてくれているのだ、と私は思います。

こんなことを考えると、「いつかハワイ語を勉強したいな~」という夢が再びムクムクと頭をもたげるのですが…。古代ハワイアンが残した言葉そのままで歴史を学ぶというのは、シェークスピアの文学を原書で楽しむようなもので、もしできたら素晴らしいことですよね! さあ、その夢はいつ、実現するのでしょーか?

2007年01月07日

肥満とハワイアンの関係

前回、古代ハワイアンにとっての「食」は命をつなぐものであり、贅沢という概念からはかけ離れたものだった――と書きました。後からフと思ったのですが…。では「古代ハワイでは太っていることが美人の条件だった」という話、あれはどうなのでしょう? 

この点ちょっとリサーチしてみると、確かに女性に関しては、太っていればいるほど美人であり、やせ型は好まれなかったようです。ハワイ文化の権威、故カヴェナ・プクイ女史によれば、娘がやせていれば母は心配し、太らせる努力をしたよう。一説によれば、それはポイをたくさん食べさせることだったとか。

庶民の娘が丸々太るほど食べられることは珍しかったかもしれませんが、少なくとも王族女性は太っていた、または太る努力をしていたのは確か。カメハメハ大王の妃カアフマヌ(写真)も巨体で知られていますし…。カメハメハ大王のひ孫でどっぷり太っていたプリンセス・ルースに関しては、一度にハウピア・パイ(ココナッツミルクをベースにしたお菓子)を13枚食べた、なんて逸話も残っています。

また古い記録を見ると、ある理想的な美女について「満月のように丸い顔」を持っていたと賞賛され、ある王族の娘は「それほど大きくはない。けれどきれいな顔をしている」と、大きくないのは残念、とばかりに描写されています。

ただし、これが男性となると話は異なり…。男性が太ることは良しとしなかったようですヨ。というのも、古代ハワイで男性は、基本的に戦士でした。いざとなれば戦争に出かけなければなりません。それがブクブクに太っていたら…勇ましく戦うなんてことはできませんからね~。

王族男性であっても、これは同じこと。王族だからと安全圏でごろごろするのではなく、ハワイの王族は必ず、優れた戦士であり、自軍の先頭で戦いました。カメハメハ大王がそのよい例ですね。確かに、古代ハワイのスケッチを見ると、女性は太った人が多いようです。でも男性はそうではない。それは筋骨隆々は求められても、太った男性は男として失格だったからなんですネ。

ですから男性に限っては、俗にいうダイエットもしたのですって。ちょっと太りすぎだなあ、と思ったら、男性はカヴァを大量に飲んだそうです。食事はとらず、カヴァだけで過ごす。…これも肥満同様に、体に悪さそうですけれど。

現代ハワイでは、肥満は男女共通のものですが…。女性の場合は医者に健康上の理由からダイエットを勧められても、断る人がいるようです。「だって夫は、太った女性が好きなんです!」なんて。

現代ハワイにも、今だほんの少しだけ、「肥満は美」という文化の影響が残っているのかもしれません。…これもまた困ったものですね!

2007年01月02日

古代ハワイでの「食」の意味

すっかりご挨拶遅くなりましたが…皆様、新年おめでとうございます! どうぞ本年も、よろしくお願いいたします。

日本から1日遅れて、ハワイでは本日が元旦でした。快晴のホノルルで、やっと先ほど、ささやかなおせち料理をいただいたところです。皆さんもお正月のご馳走はたっぷり楽しまれましたか? そこで今日は、古代ハワイアンにとってのご馳走の意味合いをご紹介しましょう。

ハワイアンといえば食いしん坊というか、食べるのが大好き!という印象がありますネ。古代ハワイアンも食べることは好きでしたが、海の幸が潤沢で常にバナナなど山のようなフルーツに囲まれ、しょっちゅう豚の丸焼きを囲んでルアウ(宴会)を開いていた、なんてことはまったくなく…。けっこう質素な食生活を送っていました。

虫にやられて一帯のタロイモが全滅したりすることもあるでしょうし、魚も確実に、大量にとれたわけではないでしょう。実際にハワイもしばしば飢饉に襲われ、ある土地ではサツマイモを干して貯蔵したとか、ある酋長が余った食べ物を差し出すよう布告を出し、飢饉にそなえて倉庫のような場所に貯めた、などという話も残っています。家族を救うためにパンの木に変身した父親の話などなど、飢餓に関わる伝説も多いですし…。

こうして食べ物が希少だった古代ハワイなので、毎日の食事ですら、お祝い、お祭りのような深い意味合いがありました。食物は命をつなぐ大切な糧であって、贅沢とかそういう概念とはかけ離れたものでした。つまり食事は、その日もまた食べ物にありつけることを神に感謝しながら、神とともに食べる神聖な行為。だからこそ男女一緒に食事するのはタブー、男の子も成人するまでは大人の男性と一緒には食事しないなど、食に関するさまざまなルールがあったのでしょう。

食べ物の有り難みを知るハワイアンですから、客を食事に招くことは最大のホスピタリティでした。逆にこれは、提供された食べ物を拒むことは、最大の侮辱だったことを意味します。人の好意を受けとらない人間はまた、人に好意を示さない人間でもある。そうも受け取られ、嫌われる結果になったそうです。

今は昔のように「飢え」は存在しませんが、人のもてなしを拒絶することは現代のハワイ社会でもまた、無礼な行為にあたります。食事を勧められたら、またはなにか食べ物をもらったら。100%拒否してしまうのではなく、ひと口でもふた口でもとにかく食べなければ、失礼にあたるようです。ハワイアン夫に言わせれば、一度「食べてください」と言われて断るのはいいけれど、2度、3度と勧められてさらに断るのは、とても失礼なこと。

アメリカ式に考えると、イエス、ノー、はっきり答えてOKのように感じますが、やはりここはハワイ。あまりキッパリ拒絶するのは考えもののようですネ。

2007年は私も人々のもてなしの心を踏みにじらないよう、ハワイの心を理解しながら生活していきたいものです。ダイエットももちろん大切な目標なのですが、それより重要なことがこの世にはありますからね!

2006年11月21日

古代ハワイの医者修行

上の写真は、「石ころを並べて遊ぶ子どもの図」ではアリマセン。石ころは石ころでも、「石ころの人体モデルで体内の器官を学ぶ医者の卵と医者」といった図なんですね~。二人の男たちは、古代ハワイで医療を手がけたカフナと、その弟子を表しているのだそうです(ホノルルのハワイ・マリタイムセンター内のカフナ・セクションより)。

古代ハワイにはさまざまな医療分野を担当するカフナがいましたが(「ハワイでも暗躍した黒魔術師」参照)、薬草治療を専門とするカフナは、カフナ・ラパパウと呼ばれました。ハワイ文化の権威、故メリー・カヴェナ・プクイの祖父はカフナ・ラパパウだったそうですが、彼女によれば、カフナ・ラパパウは、まず初めに祈りの言葉を学んだそう。いかなる優れた薬草も、正しい祈りの言葉がなければ何の治癒力も持たないと信じられていたからです。

そして祈りの学習を終えると、いよいよカフナは人体と疾病についての修行をスタート。その時に使われたのが、上の写真でふたりの男が見下ろしている、480の小石で作ったパパ・イリイリでした。一見すると原始的な印象があるパパ・イリイリですが、これがいわば古代ハワイの人体解剖図! ちなみにハワイ語でパパは分類、イリイリは小石を意味します。

パパ・イリイリには赤、黒、白の石が使われ、白い石は頭、赤は胸、黒は手足の器官や関節、痛みのツボを表していました。色の違いだけでなくこれらの石は表面の感触も異なり、見習いカフナは、時に目をつぶって石をさわり、それが体のどの器官か当てることが求められたそうです。

パパ・イリイリを使っての学習も含め、見習いカフナは「頭が熱い」「寒気」「発汗「腹部の腫れ」「ころころ動く腫瘍」「柔らかい腫瘍」などなど、実に217種の病気の症状を知らねばならなかったそう。それこそ目で見て手で感じ、患者の吐く息を嗅ぎ、など、五感を駆使して病気を判断したんですね。

そしていよいよ見習いカフナが一連の学習を終えると、実際に病人を目の前に口頭試験が行われました。様々な疾病を正しく言い当てて初めて、カフナとして一人立ちできたのだそうです。

しかも、(正確な年代は不明ですが)自分が人体実験の実験台になって、医術の発展に尽くしたカフナもいたそうですよ。

死につつあった老カフナがある時、跡取りである息子4人に「自分を解剖して死因を解明せよ」との遺言を残したそうです。カフナの死後、息子たちは実際に遺体を解剖。死因が腸の機能不全だったことを突き止めました。カフナはまた「治療方法も研究すること」とも遺言したので、息子たちは思いついた治療方法を犬を使って実験し、治療法を確立したのだそう。これがハワイでの人体解剖第1号で、以来ハワイでの医療事情は、ぐっと進歩したのだそうです。

(祈りを捧げてから治療に入るなど)神の世界とも結びつき、正直、原始的な印象もあった古代ハワイの医療事情ですが、その実カフナたちは高い知識と技術を持ち、そしてプロとしての自覚と向上心を抱いて、人命救助に取り組んでいたんですネ。なんだか……深く頭が下がる気がします。

2006年11月13日

ロイヤル・ハワイアン周辺の歴史・伝説

ロイヤル・ハワイアン・ホテルといえば、「ピンクの宮殿」の愛称で知られるワイキキの豪華ホテルですね。スペイン・ムーア調の宮殿を模したこのエレガントなホテルに、一度泊まってみたい! そう願う日本人は多いはず。かくいう私もその一人ですが……。このホテルの一帯は大昔、ヘルモアと呼ばれ、王家の椰子園も広がるワイキキの中心地でした(今でもロイヤル・ハワイアン・ホテル近くには、ヘルモア・ストリートという通りが残っています)。今日はこの、ユニークな歴史・伝説に彩られたヘルモアについてお話ししましょう!

伝説によれば、ヘルモアに最初に椰子の木を植えたのは、16世紀の大酋長カクヒへヴァ。一時はなんと1万本もの椰子の木が立っていたそうです。海に面した風光明媚なこの土地を愛した王族も多く、カメハメハ5世も、19世紀、椰子園の中に別荘を建てたことが知られています。またあのカメハメハ大王も、オアフ島攻略後、ここに石造りの住居を構えたそう。そう、この地は古来、王族との縁が深い土地だったわけですね~。

その後ワイキキの一等地であるヘルモアは開発の波にもまれ、現在のように高級ホテルの林立するリゾート地となったわけですが……。1927年にロイヤル・ハワイアン・ホテルがオープンした際には、まだ周辺に1300本の椰子の木が残されていたそうです。今では大変少なくなってしまったものの、最後の椰子の木がまだホテル中庭に残されているので、もしこのホテルに泊まったらぜひ、見上げてみてくださいネ。

さてヘルモアにはまた、大変有名なヘイアウ(神殿)もありました。それは、血塗られた過去を持つヘイアウであり……。マウイ島の王カへキリがオアフ島を征服した1773年、オアフ島の王カハハナが殺され生贄として捧げられたのが、このヘイアウなのでした。

……実はヘルモアという地名自体に、ちょっと怖い逸話がありまして。Helumoaヘルモアとはハワイ語で、「鳥が引っかく」という意味なんです。なぜかというと、ホノルル東部のカアアウ・クレーターに住む怪鳥が、夜な夜なヘルモアのヘイアウの生贄を(引っかいて)食べに飛んできたからだそう。怪鳥はその名もカアアウ・ヘルモアとして知られ、恐れられたそうですよ。カアアウ・ヘルモアはチャントにも謳われ、フラの主題にもなっているので、ご存知の方もいるかもしれませんね。

観光客で賑わうワイキキのど真ん中に、こんな歴史と(怖い)伝説に彩られたエリアがあるなんて……。ちょっと不思議な感じがしますせんか? ……ワイキキの逸話については、またおいおい紹介していきますので、どうぞお楽しみに~。

2006年11月09日

病院下に埋まっていた王家のお宝

ワイキキにほど近いプナホウ・ストリートに、ハワイ最大の婦人科・小児科専門病院、カピオラニ病院が建っているのをご存知でしょうか?(「プナホウの聖なる岩」参照)。在ハワイの女性が多大な信頼を寄せる病院で、私も友人もすべてこの病院で出産したのですが……。

つい先日定期健診で訪れ、時間が早かったのでロビーをぶらぶらしていたら! 立派なコアの木のケースに、カラカウア王のカフスやらカピオラニ女王のブローチなど、ハワイ王朝のお宝がたくさん展示されているではないですか。これらはナント、1970年代に、病院のコーナーストーン(隅石)として地中に埋められていた箱から見つかったものなのだそうです。そこで今日はこのカピオラニ病院のお宝について、ご紹介しましょう。

最初に、なぜこの病院にハワイ王朝7代目君主カラカウア王の妻カピオラニの名がついているかと説明すると……。実際カピオラニ女王が、病院設立に大きく関わっているからです! ハワイアン女性のための病院設立を目ざし、ハワイ各島を回って寄付金を募るなどして尽力したカピオラニ。その功績もあって、1890年、病院の前身であるカピオラニ・マタニティ・ホームが設立されたのでした。

カピオラニ・マタニティ・ホームは当初、現在地から若干山側に建つ平屋建ての病院でした。が、1929年に移転。立派なビルに建て替えられ、同年、改めて開所式が行われました。そしてそのこのとき地中に埋められたのが、くだんのコーナーストーン。それが1977年10月に掘り起こされ(なぜだか詳細は不明)、関係者が箱を開いてみると……大変な価値があるハワイ王朝のお宝が、ザクザク出てきたのだそうです!

ほとんどのアイテムは、カラカウア一族が生前使用したものでした。カラカウア王の紋章を刻んだカフス、カピオラニの象牙のブローチ、ハワイ王朝の紋章の入ったカラカウア王の便箋・封筒、カメハメハ3世の肖像が刻まれたコインなどなど……。そのほかにも王族の写真やハワイ王国の切手、カピオラニ病院の歴史を記した書類や委員会メンバーの写真なども。コーナーストーンの内容については記録がまったく残されていなかったので、開けた人もさぞビックリしたことでしょう!

そしてこれらのお宝が今、病院ロビーのコアのショーケースに陳列されているというわけ。……カピオラニ病院には10年以上もお世話になっていますが、こんな素晴らしいものが展示されていたなんて! なにか王族の写真が飾られているのは知っていたのですが、病院の歴史か何か展示されているものとばかり思っていました。それが、実はユニークな逸話に彩られた王族の贈り物だったんですネ。うれしい驚きでした。

それこそ博物館級の希少な歴史遺物が見られるのですから、皆さんが、もし病院の近くに出かけられたら。(これまでの私のように)ロビーを素通りなんてしないで、しっかりとお宝を鑑賞してみてくださいネ。

2006年10月24日

カメハメハの野望とヘイアウ

前回は、地震で一部崩れたプウコホラ・ヘイアウを中心に、カメハメハと女神ペレの関わりについてお話しました。話は前後してしまいますが、今日はハワイ史上名高いこのヘイアウ(古代ハワイの神殿)建設にまつわる歴史秘話について、お話しましょう。

カメハメハ大王がプウコホラ・ヘイアウの建設を決意したのは、1790年のこと。前回記したカメハメハの従兄弟であり強力ライバルのケオウアが、カメハメハの留守中にその陣地を襲ったことがきっかけでした。この時カメハメハはケオウア軍を撃退し、撤退の際キラウエア火山の噴火で大被害を受けたケオウア軍は、戦意を大いに失ったわけですが……一方、それでもケオウアに対し警戒をゆるめなかったカメハメハ。

……実はカメハメハはこの危機の真っ只中、信頼できる叔母を有名な預言者カポウカヒに送って、次のような預言を授かっていました。

「ハワイ島カワイハエのプウコホラの丘に、戦いの神クーに捧げるヘイアウを建てれば、カメハメハはハワイ全島を征服することになるだろう」

そこでケオウア軍との危機が終了した後、カメハメハはすぐにヘイアウ建設に着手しました。預言者カポウカヒによれば、戦いの神クーを喜ばせるため、ヘイアウは厳密なガイドラインに沿って完璧に造られなければならないとのこと。カポウカヒが責任者となって建設がスタートし、数千人ものハワイアンが丸々1年間、プウコホラの丘でキャンプしながらヘイアウの建設に従事しました。

預言によれば、ヘイアウ建設のための石は、水に洗われた溶岩に限るとされていました。溶岩は海辺に広がるポロル村で調達されることになり、ポロル村からプウコホラの丘まで、人から人への手渡しで運ばれることに。実に32キロにも渡り、人の列ができたそうです。……それは壮観な眺めだったでしょうね~。カメハメハ自身も時おり作業に加わり、1791年、プウホコラ・ヘイアウが完成。わずか1年で巨大なヘイアウを造り上げるなんて……現代ハワイの建設ペースよりも早かったりして?

そして1791年の夏。ヘイアウの完成式が行われ、そこにはカメハメハのライバル、ケオウアも招かれました。ケオウアのカヌーが、ヘイアウの真下の浜辺に到着すると……。カメハメハの部下である王族の一人がケオウアに踊りかかり、ケオウアは殺されてしまったのでした。ケオウアの死体はさっそく丘の上のヘイアウに運ばれ、戦いの神クーに捧げる一人目の生贄にされ、ヘイアウの完成式は厳かに行われたそうです。

この出来事に関しては様々な解釈があります。ケオウアは自分が殺されることを知りながら、自ら覚悟してヘイアウにやってきたという説。そしてカメハメハにケオウアを殺す意図はなかったのに、部下が勝手に殺してしまったという説。……諸説ありますが、ライバルが死んだ後、カメハメハは預言通りにハワイ諸島を統一し、王国を築いたのは事実。つまり預言は実現したというわけですね。

それにしても。従兄弟ケオウアの殺害を自身が望んだかどうかは別として、その死体を戦いの神クーへの貢物にしてしまったカメハメハ……。やはりカメハメハって、恐ろしい戦士だったんですね~。

今このヘイアウは、近くから眺めることはできても、入場は禁止。でも、もし霊的に敏感な人が中に入ったなら……さぞかしゾクゾクすることでしょうね~! 私がその巨大なヘイアウを間近に眺めた時は、カメハメハの強大なパワーをひたすら感じただけでしたが。

……ともあれ、重要な遺跡プウコホラ・ヘイアウの復旧作業が、一刻も早く終了することを祈っています!

2006年10月20日

地震とヘイアウ

驚愕のハワイ地震からはや4日。停電、断水の被害程度で済んでヨカッター! と思いきや……ハワイ島を中心に建物が一部崩れたりと、意外に被害が広がっていることがわかってきました。ホント、死者が出なかったのがラッキーだったのかも……。

そんな中、ハワイ島コハラコーストのヘイアウ(古代の神殿。上の写真)、プウコホラ・ヘイアウの石垣が、30メートルにわたって崩れたとの報道がありました! 目下考古学者が、被害の度合いを調査している最中だそうです。

プウコホラ・ヘイアウといえば1791年、かのカメハメハ大王が建てた、ハワイ島を代表するヘイアウです。カメハメハがハワイ諸島を統一しようという野望のもと、戦いの神クーに捧げるために建てた神聖なヘイアウなのですが……。そのヘイアウが今回の地震で、結構なダメージを受けてしまったんですね~。

カメハメハに関しては歴史書で、「ペレに守られていた」「ペレはカメハメハの味方だった」なんて書かれているのを読んだことがあるので、このニュースを聞いた時、ちょっと意外な気がしました。あのペレがついにカメハメハと決別? ペレとカメハメハの蜜月は終わったのかしら……なんて(あ、ペレというのは、もちろんハワイ神話上の火山の女神ペレのことです。なんといってもハワイでは、ペレが怒ると火山が噴火したり、地震が発生すると信じられていますからネ)。

ペレとカメハメハに関しては、次のような歴史上の逸話が、ハワイではよく知られているのですが……。

……先のプウコホラ・ヘイアウが完成する前年、1790年のこと。ハワイ諸島の統治を巡って、カメハメハと、その従兄弟であるケオウアが激しい勢力争いを繰り広げていました。ある時、カメハメハの陣地をケオウアが攻撃。カメハメハは即座に反撃し、ケオウアの軍隊は撤退を余儀なくされました。ケオウアの軍隊が3つに分かれ、火山の女神ペレの本拠地であるキラウエア火山近くを通過していたのですが、その時。火山が突如、大噴火を始めました。

19世紀の歴史家カマカウによれば、それは大変激しい噴火だったそうです。そのため3隊のうち2つ目の軍隊は、降り注ぐ岩や灰、ガスに包まれ、丸々壊滅してしまったのだそう。……多くの戦士とその家族を失って、カメハメハに対する戦意まで喪失してしまったケオウア。そのため人々はその後、「ペレはカメハメハの側についたのだ」と噂しあった、ということです。

また1801年には、こんな出来事もありました。その年、今度はハワイ島カイルア・コナ近くのフアラライ火山が大爆発。溶岩流が多くの村を飲み込み、人々はペレの許しを求めて祈祷を繰り返しましたが、効果はありませんでした。

そこで登場したのがカメハメハ大王です。カフナ(神官)のアドバイスを受け、カメハメハ自身がペレに捧げ物をし、怒りを静めることになりました。カメハメハは溶岩が海に流れ込むある地点にやってくると、自らの髪をひとふさ切りティーリーフに包んで捧げ物にし、ペレに祈りながら溶岩に向かって投げ込んだそう。

と、不思議なことにその後、フアラライ火山の噴火が収まったではありませんか! そこでまた人々は、それがペレのカメハメハへの寵愛の印、カメハメハのパワーの証しである……と話し合ったのでした。

……今回の地震では、そのカメハメハのヘイアウも一部破壊されてしまったわけで。今ペレはいったい、何にそれほど怒っているのでしょうね? 人間の自然破壊? それとも某国の核実験?

理由はどうあれ、すでにペレの怒りが収まっていることを心から祈るばかりです。あんなビックリの地震は、もうイヤですモンね!

2006年10月01日

ホノルル港の珊瑚でできた教会

今回ご紹介するのは、またまたホノルル・ダウンタウンの歴史遺物。その昔「ハワイのウェストミンスター寺院」とも呼ばれたカワイアハオ教会の建設に使われた、ホノルル港の珊瑚のお話です。

カワイアハオ教会は1820年、カメハメハ3世の命で建設されたハワイ最古のキリスト教会です(「ハワイアン初のクリスチャン」参照)。ハワイ王朝の宮殿であるイオラニ・パレスからほんの数分の場所に建ち、歴代君主の戴冠式や結婚式、葬式も行われました。ハワイのウェストミンスター寺院との愛称のほかに、「石の教会」とも呼ばれましたが、その理由は、教会が1万4000個もの珊瑚のブロック(上の写真)で造られているから。当時まだコンクリートなどはなく、手に入る一番頑強な建築素材が珊瑚だったためです。

教会造りのための珊瑚が収集されたのは、教会にほど近いホノルル港からカカアコ沖にかけての海でした。干潮の時間を狙って深さ5、6メートルの海底からハワイアンが珊瑚を切り出し、カヌーで岸に運んだそうです。夜間でも、松明をかかげながら作業を続けたそう。珊瑚の重さは500キロ以上も! ハワイアンはコアやママキの木にメタルというお手製の斧をそれぞれ持って海に入り、何度も潜水を繰り返しながら珊瑚を集めたのでした。

今から1世紀半も昔ですから、潜水タンクなんて文明の利器もなく……。それって、ものすごく危険な作業ですよね? そのため作業員たちは海に入る前に全員集まって祈りを捧げ、無事海から上がる際にもまた祈るという儀式を、毎回繰り返したのだそうです。

こうして命がけで集められた珊瑚で造られたのが、下のカワイアハオ教会。そんな経緯から、建設当時は「海から浮かび上がった教会」とのニックネームでも親しまれたとか。実はカワイアハオ教会自体は1820年に設立されており、珊瑚の教会が建立されるまでは藁葺き屋根の教会が建っていました。しかし火事などで破壊されること4度。ですから堅強・立派な珊瑚造りの教会が完成した時は、皆、さぞ喜んだことでしょう。


……19世紀の半ばに海から切り出された珊瑚は今も何の損傷もなく、カワイアハオ教会の美しい姿は、当時そのまま。皆さんがこの教会を訪れることがあったなら、壮麗な教会内部だけでなく、外壁にもぜひ目を凝らしていただきたいな~と思います(上の珊瑚のブロックも、教会の前に展示されていますヨ)。真夜中、海に潜って命がけの作業を続けたハワイアンたちも、さぞさぞ誇りに感じると思いますよ!

2006年09月03日

真珠湾の真珠の行方

日米開戦の舞台ともなったオアフ島真珠湾ですが……。なぜ真珠湾との名前で呼ばれるのか、常々不思議に思っていました。真珠が採れるわけでもないのに~? ところがところが……。今日は、そんな真珠湾の真珠についてのお話です。

真珠湾のハワイ語の名称はプウロア(長い丘、との意味だそうですが、語源は定かではありません)。それがいつしかパールハーバー、つまり真珠湾と呼ばれるようになったのは……やはり昔、ここで真珠が採れたからなのですって!

以前、真珠湾には真珠貝がたくさん生息しており、真珠が採れたほか、主に食用として珍重されていたそうです。湾の近くにはWaimomiワイモミ川という川もあり、(momiはハワイ語で真珠を指すので)その名称はズバリ、「真珠の水」という意味に! この川ではさらにたくさんの真珠貝が採れたというのですから、驚いてしまいます。19世紀までは大小の真珠貝が採れ、真珠自体も質のよいものだったそうです。19世紀のハワイアン歴史家、サムエル・カマカウも、著書の中で次のように書いています。

「真珠貝はエヴァ方面の海でたくさん見つかり……その新鮮な肉の中には、真珠と呼ばれる宝石がある。魚の目玉のように白く輝き……虹の中の赤や黄色、もしくは暗い色、時にはピンクがかった白のものもあり大変な価値があった」

それ以前のハワイ語のチャント(詠唱)にも、真珠のことは謳われているようなのですが……。それなら、いったい真珠はどこに行っちゃったんでしょう?

真珠貝の行方については、西洋社会での真珠の価値の高さに一帯の首長が乱獲し絶滅した、という説が一つ。……ホントにそうなのかも。というのは昔ハワイの山々に潤沢だった白檀の木(お香の材料として好まれます)だって、中国にことごとく輸出され絶滅してしまったように、全て採り尽くされてしまったの可能性もありますよね。もう一つ、理由は定かではないですが、19世紀にハワイで天然痘が大流行した時。大勢のハワイアンが亡くなったのですが、それを機に真珠貝が消えたという人もいます。う~ん不思議。

さらにはこんなユニークな伝説もありますよ。

昔、真珠湾は、カネクアアナという守り神によって保護されていました。実はこのカネクアアナはオオトカゲ、モオの精(「ハワイのドラゴン伝説? モオ」参照)。そして。ある日真珠湾で真珠貝をいくつか採った老女を役人が見つけ、罰金を要求するという事件が発生。昔は真珠貝を保護するために禁漁期間というのがあったのですが、老女はその禁漁期間に貝を採ったというので、役人に咎められたんですね。老女は「食べるにもこと欠き困窮している。どうか見逃して欲しい」と懇願しました。しかし役人は聞く耳を持たず、容赦なく老女から罰金を徴収しました。

それを見ていたのが、モオのカネクアアナ。そもそも真珠貝は、カネクアアナがタヒチからハワイにもたらしたものなのだそうです。カネクアアナは非情な役人の仕打ちに怒り、宣言しました。「もう全ての真珠貝をタヒチに持って帰ることにしたわ。この役人の子孫が死に絶えるまで、真珠貝はハワイに返しません!」。その後本当に真珠貝はハワイから消え、今は一つも見つからないのだそうです。……ということは、役人の子孫一族が、今も健在ということですね!

となると真珠湾の真珠貝は、タヒチからやってきたものということになりますね! するとカマカウも「暗い色の真珠」うんぬんと言っていたように、真珠湾で採れたのは、美しい黒真珠だったのかも……? 実は黒真珠が大好きな私。もしハワイ産の黒真珠なんていうのがあったら、素敵でしたよね~。

カネクアアナの怒りがとける日は、もうやって来ないのでしょうか? ハワイで昔、真珠が採れたなんて。それが絶滅してしまっただなんて。なんだか……残念でなりません!

2006年08月26日

ダウンタウンの大砲の過去

ホノルル・ダウンタウンに住んでいるので、ダウタウンを山側からホノルル港へと貫いているフォート・ストリートも、日常的に歩いている私。ストリートの一部は歩行者天国になっていて青空市が出たり、周辺にはカフェやデパートのメイシーズがあったり。ブラブラそぞろ歩くには楽しい、賑やかなストリートなんですよね!

そんなフォート・ストリートの地名につき、先日ちょっとリサーチしてみると……。意外や意外! ホノルル港に面したこのストリートのはしに昔、砦(Fort)があったので、フォート・ストリートと呼ばれるようになったのだそうです。


そういえば……! まさに砦のあったその場所(ニミッツ・ハイウェイとフォート・ストリートの交差地点)は現在、小さな公園になっているのですが、そこに大砲が一つ置かれているんですよね~。何の説明書きもないので日頃から「これって何?」と思っていたのですが、あの大砲にも、しっかりと歴史があったようんなんです。

なんでもその砦はホノルル港の守備のため1816年に造られ、1857年まで立派に機能していたのだそう。1816年といえば、時はハワイ王朝時代の最盛期。ちょうどカメハメハ大王の治世でした(カメハメハ大王は1819年に死去しています)。1779年にイギリスのキャプテン・クックがハワイを発見し、外国との交易も始まっていたハワイで、ホノルルの港もしっかり保護する必要があったのでしょうネ。

当時その砦には、写真のような大砲が40個も、ホノルル港に向かって配置されていたのだそうです(驚きです!)。1857年、砦の閉鎖とともにそれら大砲はあちこちに持ち去られましたが、一部は祝砲用(注:こんな言葉ありますか?)として、パンチボウルの丘に設置されたのだとか。今度はホノルル港に入る船を撃沈するためではなく、歓迎するために、使用されていたのだそうですよ。

そして1938年、その大砲の一つを記念碑として砦のあった場所に戻し、その通りがフォート・ストリートと名づけられたというわけです。ちなみに、同じようにホノルル港の砦からパンチボウルの丘に移されたもう一つの大砲は今、ワイキキのフォート・デルッシーにある陸軍博物館に展示されているということでした。

パッと見るとなんの変哲もない、古い大砲なのですが……。こんな歴史を知ったうえでよく見ると、なんとも趣きのある、歴史の生き証人?のように見えてきたりして。

そう思いませんか?

2006年07月23日

続・悲しい王様&女王様

自らも王族の血を引き、若くハンサムな国王に嫁ぎ、そして可愛い息子に恵まれ……。ところがその幸せの全てを、27歳にして失くしてしまったエマ女王。華やかな人生を歩んでいた彼女が27歳で未亡人だなんて、人生は皮肉ですよね。

特に夫を亡くした時は大打撃だったよう。エマ女王は夫の遺体が安置されたヌウアヌの王家の霊廟、ロイヤル・モザリアム(「お墓で結婚写真ですか? その1」参照)でなんと2週間、キャンプ生活を送ったそうです。24時間家族のそばにいたい。離れられない。そんな想いで、夫と息子の冥福を祈り続けていたのかもしれません。

その後のエマはイギリスを訪問したり、夫の4世とともに創設したホノルルのクイーンズ病院(初代の建物は2人の個人的資金から建てられました)を支援したり、社会的には静かな生活を送っていたよう。ところが1874年のこと。38歳だったエマは、再び歴史の表舞台に引っ張り出されることになります。

この年、ハワイ王国6代目の君主、ルナリロが亡くなり、7代目君主が選挙で選ばれることになりました。人々の目から見た時、血統の上で王座に一番近かったのは、カラカウア。カラカウアよりもカメハメハ王朝に近い王族として、一応カメハメハ直系王族の末裔バーニス・パウアヒ王女、カメハメハ4世と5世の妹であるルース王女がいました。けれど2人は王位への就任を依頼されながらも、きっぱり辞退していたからです。

この時、誰に推薦されたのかはわかりませんが、なぜか。エマは7代目君主への立候補を決め、カラカウアと一騎打ちすることになったのです。しかし結果はカラカウアの勝ち。カラカウアには39議員の投票が集まりましたが、エマの得票はわずか6票だったそうです。カラカウアの圧勝だったわけですね。

ところが結果を聞いて納得できなかったのが、エマの支持者たち。選挙の行われた州議会をグルリと取り囲み、ついに暴動が勃発しました! エマの支持者は議員たちの馬車を壊し、議会になだれ込んで、窓ガラスを叩き割ったり机や椅子を破壊したり、乱暴の限りを尽くしたそうです。最終的には、選挙に備えてホノルル港で待機していたアメリカとイギリスの軍隊が出動し、事態を収拾しなければならないほどの大騒動に。死者が出なかったのは不幸中の幸いでした。

……その後エマは二度と政治の世界に足を踏み入れることもなく、49歳で波乱の生涯を閉じました。夫を亡くしてから、22年後のことでした。

……なんだかこうしてエマの人生をザッと見ていくと、やはり様々な想いに襲われてしまいます。選挙に破れて晩節を汚してしまったのも残念というか。暴走が勃発したのは、なにもエマのせいではないのですが……。元女王として、そして美しき未亡人として華麗なる人生を全うすればよかったのに、と思わずにいられません。

もっともこんなことを考えるのは私だけのよう。エマは今もハワイアンに慕われ、エマに捧げるハワイアンソングも多数! 美しくエレガント、そして悲しい女王として、後世の人々の心に記憶されています。

2006年07月19日

悲しい王様&女王様

最近ハワイの王族物語から遠ざかっていましたが……。今回はカメハメハ王朝の悲劇のキング&クイーンについてのお話です。悲劇のキング&クイーン、というフレーズを聞いただけで、「おっ。カメハメハ4世とエマ女王の話だな」とわかった方、案外多いかもしれませんネ。というのもこの2人、王朝の中でピカ一の美男美女カップルなのですが、その結婚生活は不幸な出来事に彩られ……。数々の悲劇が後世に伝えられているからです。

カメハメハ4世はカメハメハ大王の孫。叔父で養父でもあった3世の死後、20歳で王座についたのですが……。若くして王者になったことが原因だったのか。マナーも洗練され、大変ハンサムで人々に愛された4世ですが、同時に短気で気分屋さんだったようです。それが彼の人生に、様々な悲劇を呼び寄せたのでした。

4世の妻は、美貌で知られるエマ。ハワイ王族の祖母、カメハメハ大王のアドバイザーだったイギリス人のジョン・ヤングを祖父に持ち、イギリス式の教育を受けたエレガントな女性でした。あまりに美人だったためか。多くの男性がエマに恋をしていたようで、(4世の死後の話ですが)5世として王座に就いた夫の兄にプロポーズされたり! また5世の後を継いだルナリロ王が(「お墓で結婚写真ですか?」参照)、ワイキキの地所をエマに遺言で残したため、いろいろ邪推されたりもしたそう。

中でも「美人はつらいよ」という側面がいちじるしく強調されたのが、ある発砲事件でした。自分に仕えるイギリス人の男性秘書と妻の仲を邪推した4世。ある夜泥酔して秘書の家に出向き、持っていた銃で秘書を撃ってしまったのです! 後にそれは根も葉もない噂だったことが判明し、4世は相手に謝罪したのですが、時はすでに遅く……。深い傷を負った秘書は2年後、その傷が元で亡くなったのでした。

そしてさらに悲劇は続きます。二人が結婚してから2年後には、待望の跡継ぎが誕生。カメハメハ2世、3世は子供がいなかったので、アルバート王子の誕生はハワイ王国にとっても、大ニュースでした。国中がこぞって祝福したのですが……王子は、わずか4歳で亡くなってしまいます。直接の死因は高熱のためだったのですが、その原因は脳炎だったという説と、4世によるおしおきが原因だったという説の2つがあるんですよね。

おしおき説というのはこう。ある日ささいなことで癇癪を起こしたアルバート王子。4世は王子をこらしめようと水風呂につけ、それが原因で高熱を出したというものです。水風呂についてはもう一つ説があり、何かの原因で熱を出した王子の体を冷やそうと4世が水風呂につけ、それが致命的になったというもの。

真相はもちろんわかりませんが……。この時4世は息子の命を救おうと必死になり、パンチボウルの丘にまだ残っていたヘイアウ(古代の神殿)に、人間の生贄を捧げて神に祈ったのだそうです。その甲斐もなく、王子は死去。この時の人身御供が、ハワイ史上、最後の人身御供だったそうです(個人的に言ってしまうと、王子の命を救うために、ほかの人間の命を犠牲にするなんて罪ですよネ)。

悲嘆にくれた4世が病死したのは、王子の死から15ヶ月後のことでした。元々喘息持ちで、病気がちだった4世。自らの癇癪が、喘息の症状に拍車をかけたとも言われています。

こうして一人息子と夫を相次いで亡くした時、エマ女王はわずか27歳でした。

(この話、次回に続く)

2006年06月17日

続カメハメハ大王の墓の秘密

前回は、マイオホ氏の7代前の先祖がカメハメハ大王の遺体を隠したところまで、お話しました。今日はその続きです。

マイオホ氏の先祖のホオルウが、カメハメハ大王から王族の遺体の管理を任される以前は、ほかの王族がその任に当たっていました。ところがその人が白人たちに王族の墓の在り処を漏らしていたことがわかり、カメハメハは激怒。自分の甥っ子であるホオルウと、その兄弟ホオピリに、遺体の管理を任せたのだそうです。……前任者はようするに、「墓荒らし」の手伝いをしていたワケですね。

そしていよいよカメハメハが死に、遺体が隠されることに。マイオホ氏によると、遺体がくだんの洞窟に隠されたのは、とある夜中だったそうです(当然ですネ)。ホオルウら一行がコハラコーストの溶岩平原を進んでいると、後をつける影がありました。そこでホオルウは影を銃で追い払い、さらに進んだそう。「本当にあった洞窟の怖い話」のピリ博士のような人や、埋葬品荒らしを目論む人など、様々な理由でカメハメハの墓の場所を知ろうとした人は多かったのでしょう。

カメハメハの死直後の真夜中、銃声を聞いて、周辺の住民はなんとなく事態を察し、「ああ、きっと今晩カメハメハの遺体が隠されるんだナ」と、うっすら悟ったとか。それでもホオルウらはうまく遺体を隠し、大任を果たしたというわけです。

その後カメハメハの埋葬場の位置は誰にも知られることなく、今だハワイ史上指折りの秘密として残されているわけですが……。ホオルウとしてはこの秘密を、なんらかの形で一族に残したかったのでしょうネ。その後生まれた長男に、Kaiheekaiカイへエカイという名を与えました。そして。実はこのハワインネームに、海ほどにも深~いメッセージが隠されているんですね!

カイへエカイのカイは海、ヘエはタコという意味。つまりこれを日本語に訳すと、「海・タコ・海」ということになります。これはナント、カメハメハ大王の墓の秘密を託した名前なのだそうです。墓の場所は「海の中だよ」と、示す名前なのですって。その洞窟の周りにタコが多かったのかどうかは、不明ですが……。う~ん、こうなってくると、話題作「ダヴィンチ・コード」顔負けの暗号と言うか、謎解きの世界になってきましたね~。

そんなわけでカイへエカイという名は、ホオルウの息子に始まり、代々一家の長男に付けられており……。マイオホ氏も長男なのでその名をハワイアンネームとして受け継いでいて、6代目のカイへエカイさんなのだそうです。やはり、ハワイアンネームって奥が深いですね!

……この一族の秘密を、マイオホ氏がなぜ一介のライターである私に話してくれたのかは、よくわかりません。「王様の耳はロバの耳」というか、このスゴイ秘密をシェアしたくてウズウズしてしまったのか? それともマイオホ氏は歴史家として、これくらいのヒントは世に出してもよかろうと思ったのか。いずれにしろ、ゾクゾクするようなハワイ史上の秘密をシェアしてくれたこと、感謝に堪えません。マハロ!

この先も、偉大なるカメハメハの遺体は発見されることはないでしょう。というより、発見されないことを祈る私ですが……。山中の洞窟だけでなく海中の洞窟を見つけても! 決して入らない方がよさそうなのは間違いないようですネ。

2006年06月13日

カメハメハ大王の墓の秘密

お久しぶりです! 一昨日、無事カリフォルニアから戻ってきました。たっぷりリフレッシュしてきたので、また頑張ってハワイの雑学、書いていきますね〜。

さて、今日はハワイ時間で6月12日。ハワイ州の祝日であるキング・カメハメハ・デー、つまりカメハメハ大王の記念日でした(写真は、レイをたくさんつけた大王像です)。そこで今日のお話はカメハメハ大王がテーマ。それも! 今だに発見されていない大王の墓の秘密について、シェアすることにしましょう。

ハワイの洞窟に入るべからず」や「ハワイアンの遺骨」で書いたとおり、古代ハワイでは、故人の遺骨が冒涜されないよう、遺体を注意深く隠すのが常でした。特に王族の遺骨は、それは厳重に守られ、隠されていたんですね。もっともカメハメハ2世以降の遺体については、1865年に完成したホノルル・ヌウアヌの高台にあるロイヤル・モザリアム(王家の霊廟)に安置されていて、厚く保護されています。そのうえ、今では一般の人々が訪問することも可能になりました。時代が変わり、王家の人々も一般人と同様、お墓に収まることになったわけですね。

このロイヤル・モザリアムには、「お墓で結婚写真ですか?」で記した通り、ルナリロ王を除くカメハメハ2世以降の王族全て、そしてカメハメハ大王の10代前の先祖である王族の遺体なども眠っているのですが……。カメハメハ大王の遺体だけは、今だ見つかっていません。その墓の発見はハワイの考古学者の夢というか、もし見つかったなら、大騒ぎになるのは必至。エジプトでツタンカーメンの墓が見つかった時と同じように、少なくともハワイでは「世紀の大発見」と称されるかもしれません(大げさですか?)。

ハワイでは「カメハメハ大王の遺体はハワイ島ワイピオ渓谷の洞窟に眠る」という噂もありますが、真相は藪の中。今でも地滑りなどでワイピオの山の崖の中腹に洞窟が現れたりすると即、考古学者に連絡がいき、調査が行われるのだそうですが。

さて、私がカメハメハ大王の墓の行方について聞いたのは、3年前のことでした。シェアしてくれたのは、ロイヤル・モザリアムの管理者を務めるウィリアム・マイオホ氏。マイオホ氏の一家は代々ロイヤル・モザリアムの管理者を務めていますが、そもそもは王族の末裔です。マイオホ氏の7代前の先祖であるホオルウはカメハメハ大王の甥にあたり、兄弟のホオピリともども、カメハメハ大王じきじきに、王族の遺骨の管理を任されたのだそうです! 

つまりマイオホ氏の一族は、カメハメハ大王の時代から、「王家の墓守り」を務めてきた一家なんですねえ。う〜ん、なんだかロマンを感じます。

そのマイオホ氏によれば……。カメハメハ大王の眠る墓は、ワイピオ渓谷にはありません。大王が眠るのは、大王の出身地であるハワイ島コハラコーストの、とある洞窟なのだそう。それも、ただの洞窟ではありませんヨ。洞窟の入口は海面下にあり、海に潜ってやっとたどり着ける場所にあるそうです。その先は地上の広大な洞窟につながり、そこにカメハメハ大王はひっそりと埋葬されているのだとか。

海中からしかたどり着けない洞窟だなんていうと、なんだか嘘くさいというか、お伽噺の世界のように聞こえますか? でも。ハワイでは「海中から入る洞窟」について、ほかにも話を聞くことがあるんですよね。たとえば。オアフ島ノースショアの街ライエの名の由来になった伝説に、ライエイカヴァイというのがあります。薄幸で世にも美しい王女ライエイカヴァイは出生と同時に、「海中からしか行けない洞窟」に隠されたのだそう。その後その土地はライエと呼ばれるようになったのでした(ちなみにライエイカヴァイを訳すと、「水の中のライエ」という意味になります)。このように、海中からしかたどり着けない洞窟というのは、究極の秘密の場所としてハワイのあちこちに存在するのだと思います。

話がそれましたが、カメハメハ大王の遺体も、こんな、海中に入口が隠されている洞窟に眠っている、というのがマイオホ氏のお話でした……。

(この話、次回に続く)

2006年05月21日

「ラビットアイランド」の名の由来

美しいビーチが連なる、オアフ島東部のマカプウ地区。人気アトラクション、シーライフパークがあるエリアとしても知られ、ハワイのリピーターなら、一度はこのあたりまで遠征した経験があるのではないでしょうか? 

このマカプウ沖には小さな島が4つ浮かんでおり、そのうち最大の島が写真のマナナアイランド。別名ラビットアイランドと呼ばれています。もしかしたら写真を見て、「あ、この島、見たことがある! 形がウサギにそっくりなのよね~」と思った方もいるかもしれませんネ。

そう、確かにこの島、耳の長いウサギの顔が横を向いて海に浮かんでいるように見えますね? だからラビットアイランドと呼ばれるのか……と思いきや! 実は違うんです。昔々この島にはウサギがウヨウヨいたから、この名が付いたのだそうです。

もちろん大昔のハワイにはウサギなんていなかったのですが……。1880年代初頭、近郊のワイナマロにある農場の主が、食用にウサギを育てることを思いたったとか。そこで外部からウサギをたくさん仕入れ、この島に放し飼いにしたのが始まりでした。

ところがビジネスとしての採算が合わなかったことから、「うさぎ牧場」の計画は即中止に。増えすぎたウサギはそのまま島中の草を食べつくしながら、1980年代まで100年ほど生きながらえ……。結局ハワイ州により撤去されてしまいました。海鳥と共存できないというのがその理由です。その後ラビットアイランドは州指定の海鳥保護区になり、今では海鳥だけが快適に暮らしているそうです。……かわいそうなウサギたち。自分勝手な人間たちに翻弄され、結局は絶滅させられてしまうんですからね!

ちなみにこの島は元々、2つの海底火山の爆発によりできたものだそう。古代ハワイアンがここで暮らした形跡はないのですが、祭壇や埋葬場の遺跡が見つかっていて、ハワイアンがたびたび島に渡っていたことがわかっています。祭壇は漁業の神に捧げられたもので、2つ。1つはほとんど風化しているものの、1つはまだしっかり原型をとどめているとのことです。今でも島の周りは魚が潤沢なことで知られていますから、昔からこの島は、よい釣りのポイントだったのかもしれませんネ。

そして気になるのが、島には複数の埋葬場があるという話。「ハワイの洞窟に入るべからず」でお話したとおり、古代ハワイアンにとって遺体を安全な場所に隠すことは大切だったので、こんな、人が足を運ばない孤島に遺体をわざわざ運んだのでしょうか? ……ある遺体は縦穴に、立った形で埋葬されていたそう。またある女性の遺骨は頭蓋骨に傷があり、明らかに殺されたものだというから、ミステリアスですね~。

いずれにしろ、海に囲まれて眠るのはいいけれど、こんな無人島にひっそり埋葬されるのは私だったら絶対イヤかも……。それが殺人の犠牲者だったら、なおさらですよね。皆さんはどう思いますか?

マカプウビーチからこの島は1kmくらいの距離で、なんだか泳いで渡れそうな気がしてしまうのですが、それはやめておいた方がよさそうです。というのも、島の周りには獰猛なタイガーシャークも多いらしく、ここで小さなカヌーが鮫に襲われたこともあるからなんです! やはり岸から、ウサギそっくりの島の可愛らしい横顔でも眺めていた方が……無難というものかもしれませんネ。

2006年05月13日

古代ハワイの人口調査

のっけから石ころの写真なんてお見せしてスミマセン。というのは……今日は古代ハワイで行われた、石を使っての人口調査についてお話したかったからなのでした!

16世紀初頭のこと。ハワイ島は、ウミという立派な酋長に支配されていました。このウミはカメハメハ大王の遠い祖先にもあたる、大酋長なのですが……ある時彼は、ハワイ島の人口調査をしよう思いたったそうです。その方法というのがコレ! 島中の人間に、「一人一つづつ石を持って集まれ~」というおふれを出したんですネ。つまり石の数を数えて、正確な人口を把握しようとしたわけです。戸籍、ましてや文字も持たなかった古代ハワイアンですから、こんな方法を考えたんですね~。

しかもウミはその時、「子供は小さな石を、若者は大きな石を持ってこい」という命令も出したとか。ま、老人になるとまた話は違いますが、石の数だけ調べるのではなく、そのサイズによって、調査に参加した人の年や体力も一緒に把握しようと思ったみたいですネ。うん、これはグッドアイディアだったかもしれません! ウミは、なかなか頭のきれる人だったようです。

その時島民の集合場所として指定したのが、カイルア・コナ近くにある休火山フアラライの中腹に建つ、あるヘイアウ(神殿)でした。そんなわけでハワイ島のあちこちから、老若男女が続々とフアラライ山のヘイアウに集まってくることに……。もちろん、誰もが大小の石を抱えていたのは言うまでもありません。この時ウミはハワイ島をコナ、コハラ、ヒロ、プナなど8つの居住区に分け、居住区別に人口をカウントすることにしました。そこでウミの部下の指示に従い、老若男女は居住区ごとに分けられた場所に、石を置いていったそうです。石はピラミッド型に山積みされ、3角形の一角が、その居住区を指すよう形作られたのでした。

やがて8つのピラミッドがそこに完成しました。そのピラミッドのうち、一番大きかったのはコナ地区。次はコハラ地区だったそうです。つまり。16世紀初頭には、コナ地区の人口が一番多かったことになりますね。今は……ヒロかもしれませんが。ちなみにコナ地区用に積み上げられた石の山は、一辺の長さが約8メートル、高さは5メートルもあったということです。

……残念ながらその時の石の数、つまり当時の人口については具体的に残されていないのですが……なるほど、古代の人口調査って、こんな風に行われたんですねえ。ちょっと驚き、感心もした私。古代の酋長も、案外几帳面に領地を統治していたってことですネ。

ちなみに、この石による人口調査が、フアラライという山の名の由来になったという説もあります。それによるとHualalaiフアラライのHuは積み上げる、alaは調査のために島人が運んできた石のこと、laiはピラミッドの広がりを示す言葉だそう。

いつも言うことですが、ハワイ語の地名にはディープな歴史や逸話が込められていて、侮れませんね!

2006年05月09日

リンカーンを喜ばせたハワイアン

先日、コメント欄でダウンタウンの話題が出たので、今日は久しぶりにカワイアハオ教会絡みの話を一つ。なんと! リンカーン大統領から時計を贈られた、立派なハワイアンのお話です。

この間カワイアハオ教会(「ハワイアン初のクリスチャン」参照)を散歩していたら。上のような石碑を見つけました。とても古いもので、銅版の字もよく読めないくらいなんです。そこをなんとか読んでみると、なんでもハワイアン初の牧師、ジェームズ・ケケラという人の記念碑だったのですが……。そこには、

「マルケサス島で人喰いの犠牲になるところだったアメリカ人船員を救ったことに対し、リンカーン大統領から表彰される」

みたいなことが書かれていて、ちょっとビックリでした!

さっそくリサーチしてみると、ジェームズは1824年、オアフ島ノースショアに生まれた首長一族の息子だそうです。あまりに賢いので、あるアメリカ人商人が学費を負担することを申し出、その縁でクリスチャンに。後にハワイアンとして初めて牧師になった、という人でした。ジェームズがマルケサス諸島に赴いたのは、34歳の時。当時まだ未開地で、人喰いの習慣があったマルケサスにキリスト教を広めようと、妻を伴って赴任したのでした。

ちなみに、ジェームズが生まれた際、その誕生を祝うチャント(詠唱、詩)が作られたそうです。詩の中にはジェームズの未来を予言するような部分があり、「この男の子は慎しみ深い人生を送り、南の土地の海岸を静かに歩くことになるだろう」と言っているんですって。ズバリ! この予言が当たったことになるわけですね。

ジェームズがくだんのアメリカ人船員を助けたのは、1864年のこと。あるマルケサスの酋長が捕鯨船の乗組員であるアメリカ人を殺そうとしていたのを知ったジェームズ。なんとか酋長を説得し、なだめすかして船員を救ったというものです。

「人喰いの犠牲となるところだった」といっても、なにもこの船員が丸々太っていて美味しそうだったから襲われた、なんて単純な事件だったわけではないようですよ。以前酋長の息子が、スペイン人に殺されてしまったそう。その仇を討とうとアメリカ人船員を捕まえ、殺そうとしていたところをジェームズが止めた、というのが真相だったよう。

ジェームズはどうも、「あなたの敵はスペイン人でしょ。この人はアメリカ人。同じ白人とはいえ、関係ないアメリカ人を殺してどうするの?」みたいなことを言って、怒り狂う酋長を説得したみたいです。……自分だって、マルケサス人ではなく一介のハワイアン。人喰いの被害者になるかもしれなかったのに、機転がきくというか、ずいぶん冷静な人ですよね~。

こんなことがあって、マルケサスでの出来事がアメリカ本国に伝わり、時の大統領の耳にも入り。「勇気あるハワイアン牧師」として表彰され、立派な時計を贈られたのだそうです。

その後もジェームズ夫妻はマルケサスに残り、ホノルルに帰ったのは、なんと40年近く後のこと。1904年にホノルルで死去した時、ジェームズは80歳でした。今でもハワイとマルケサスに夫妻の子孫がいて、ジェームズは大変尊敬されているのだそうです。

それにしても、ほんの小さな記念碑からもこんな興味深い史話が垣間見えてくるなんて……ダウンタウンの史跡巡りもなかなか面白いですよね!(と思うのは私だけ?) この記念碑は、今も教会左側の裏手にひっそりと立っています。カワイアハオ教会を訪ねることがあれば、ぜひ探してみてくださいね。

2006年03月06日

お墓で結婚写真ですか?その2

前回は、私の愛するダウンタウンの教会、カワイアハオ教会にある、ルナリロ王の霊廟について書きました。今日はその続編。なぜ私が、この霊廟に関わる「あること」で最近怒っているか、いよいよ本題に入ることにしましょうネ。

カワイアハオ教会の門をくぐるとすぐ右手に、くだんの霊廟は建っています。黒の柵で周囲を囲まれ、門もあり、その上にはハワイ王朝の紋章も(下の写真)。その門は現在、いつも開かれていますが、実はほんの数年前まで、固く閉ざされていました。しっかり鍵がかかっていたので、私などもいつも柵越しに霊廟を眺めていただけ……。この門は年に一度、ルナリロ王の誕生日に、式典のため開かれるだけだったんですよね。



ところが数年前から門は開放され、霊廟は一般公開されるようになりました。あ、もちろん遺体の安置される建物の内部は非公開ですが、その美しく小さな庭には、人が入れるようになったわけです。なぜ門が開かれることになったのか。それについてはよくわからないのですが、教会としても、人民の王と呼ばれたルナリロ王の霊廟を、一般の人にもお参りしてもらいたかったのかもしれませんネ。

と、ここまではよいとして。カワイアハオ教会は、ロコはもとより、日本人カップルの挙式が大変多いことでも知られています。週日には、1日何組もの日本人カップルがここで式を挙げているのですが……。つい先日、あるウエディング関係者にこんなことを聞いたんです! なんと、この霊廟の中で記念撮影する日本人カップルがたくさんいると。タキシードを着た花婿と、豪華なウェディングドレスに身を包んだ花嫁がルナリロ王の霊廟に入ってポーズをとり、写真を撮るのですって(ため息)。……そ、それはちょっと問題ではないでしょうか~? 

前回くどくどとお話した通り、ここはルナリロ王と母が永眠するお墓なんですよね。ハワイアンにとっては、いわば聖地なのですもの。写真を見ればわかるように(前回の写真)、そこには小さな噴水があり緑が茂り……。確かに美しい常夏の箱庭という感じですネ。でも、(シツコク言いますが)ここは聖なるお墓です。

霊廟の建物には、確かに「Lunalilo Ka Moiルナリロ王」との文字が刻まれているだけ。ですが、一番上の写真のような記念碑が噴水の横に設置されていて、前回お話したようなルナリロ王の生涯や、霊廟が教会に設置された経緯などが、全てそこに記されているんですよ。ルナリロ王の写真とともに。この写真を撮った時には、ハワイでは特別の機会にだけ身に着ける、マイレの葉のレイも記念碑に捧げられていました。

もちろん記念碑の説明書きは全て英語ですから、日本人カップルはそこまでしっかり確認せず、結婚写真を撮るのでしょうネ。そんな日本人カップルを責めるのは、もしかしたら酷というものかもしれません。私だって日本にいた時分は、あんなギッシリの英語にササッと目を通すことはできませんでしたから。

では、日本人カップルの挙式をお世話するウエディング・コーディネーターの方々はどうなんでしょう? ハワイ在住のコーディネーターは、「英語の説明書きが読めなかった」わけナイですよね。何もご存知なかっただろう日本人カップルに代わって、そのあたり気を付けてあげるのがコーディネーターの仕事なのではないでしょうか? もちろん教会の人は、記念撮影の場まで見張ったりはしませんから……。

以上のようなことは、単に言葉の上での問題ではないと思うんです。王様のお墓で結婚写真を撮るのは、文化的に問題なわけで。当のカップルだって、もしお墓だと知っていたら、絶対結婚写真など撮りたくないだろうと思うのですが、どうでしょう? ……外国での挙式にあたり、そのあたりに繊細に注意を払うのが、プロの役目ではないのかな~。ハワイアンがそんな光景を見たら、いったいどう思うのか。そう考えるとすごく心配になります。

……2回にわたり、ずいぶん長く書いてしまいました。「ちょっとコレはまずい」と思ったものですから……。相変わらず人気のハワイ・ウエディングですが、こんなことで不快な思いをするのもイヤですものね。もし、今後皆さんがカワイアハオ教会で式を挙げることになっても。ルナリロ王とお母さんの霊廟は、そっと静かにお参りするぐらいにしておいてほしいナ~、と願う私です。

2006年03月03日

お墓で結婚写真ですか?その1

このブログにたびたび登場する、ダウンタウンのカワイアハオ教会なのですが……(「ハワイアン初のクリスチャン」参照)。皆さんは、その壮麗な大聖堂の手前、教会の門を入ってすぐの右手に、写真のような小さな霊廟があるのをご存知でしょうか? ハワイ王朝6代目の王、ルナリロが眠る美しい霊廟なんですが。……最近、この霊廟に関わることで、ちょっと怒っている私です! その理由を説明するのは後にして(え? もうブログの題名で理由はバレバレですって?)、まずはルナリロ王とその霊廟について、ザッとお話しすることにしましょう。

ルナリロ王がハワイ王国の王に就任したのは、1873年のこと。5代目君主のカメハメハ5世は独身で子供がなく、後継者を名指しせずに死去したので、ハワイ王朝始まって以来初めて、選挙によってルナリロ王が選ばれたのでした。ルナリロは当時、血統から言って最も王座に近い王族でしたが、自ら、公平な選挙によって君主を選ぶことを提案。同時に立候補したカラカウア(ルナリロの死後、7代目の君主に就任)を破って、6代目君主に就任しました。

ルナリロは庶民をはじめ誰に対しても公正・公平で、偉ぶることがなく、「人民の王」と呼ばれて親しまれたそうです。街をルナリロを乗せた馬車が行く時、道端の老人がチャント(詠唱)で迎えると、ルナリロは馬車を止めて耳を傾けたのだそう。きっと「ルナリロ、我らが王~」なんていう内容のチャントだったのでしょうね! ルナリロは人格者だったのだと思います。

ところが王座に就いてからわずか1年後。永年の不摂生がたたって、ルナリロは病死。享年、わずか39歳でした。多くのハワイアンが嘆き悲しんだのは言うまでもありません。そして死の直前、ルナリロが墓地として選んだのが、カワイアハオ教会でした。……ルナリロが王に就任した時、戴冠式をしたのも、この教会。何かと縁のある教会なのですが、「カワイアハオ教会に墓を作ってほしい」という遺言は、当時とても奇異なものだったんです。

というのは、それに先立つ1865年のこと。ハワイ王朝の霊廟として、ダウンタウンから車で10分ほどのヌウアヌの丘に、「ロイヤル・モザリアム」が完成していました。ですから、今だ遺体の行方が知れないカメハメハ大王を除き、全ての王族がロイヤル・モザリウムには眠っているわけです。それなのに王家の霊廟を拒否して、カワイアハオ教会を選んだルナリロ。

いったいどうしてなのでしょうか? ……一説によると、ルナリロはカメハメハ2世~5世というカメハメハ直系の王族とはソリが合わず、一緒に安置されたくなかったとか。実際、カメハメハ5世が後継者を指名しなかったのは、周囲から「当然、次の王になるだろう」とみなされていたルナリロを、無視した結果だという説があります。

もう一つ、こんな説もありますよ。実はルナリロの霊廟には、母親の遺体も一緒に安置されているのですが……。1865年、以前からあった古くて簡素な霊廟(今のイオラニ宮殿の庭にありました)から、全ての遺体が新たに完成したロイヤル・モザリアムに移された時。なぜか! ルナリロの母の遺体は、ロイヤル・モザリアム入りを拒否されたんですね。ちなみに、ロイヤル・モザリアム完成時の君主は、例のカメハメハ5世なのでした。う~ん。

……母は古来の王族とともに、王家の霊廟に埋葬されていたのに、完成したばかりの新霊廟の方には入れないという。なんという屈辱だったでしょう! そのためルナリロは、王となった後も断固としてロイヤル・モザリアム入りを拒否し、母と2人、ひっそりとカワイアハオ教会に埋葬されることを選らんだのではないでしょうか。う~ん、その気持ち、よくわかりますよネ!

(この話、次回に続く)

2006年02月21日

カメハメハ大王像だっておめかし

この間イオラニ宮殿に出かけた帰り、面白い光景に出くわしました。宮殿から通りをはさんだ反対側に、カメハメハ大王像が立っていますが……。その大王に足場がかけられ、ゴシゴシ、洗われていらっしゃったんです!(大王像ですから敬語ですヨ)。漆黒の肌の部分もゴシゴシ、きらめく金色のマントも白い台の部分も、3人がかりでゴシゴシ。

な~るほど、どおりでこの大王像、いつ見てもキンキラに輝いていたわけですネ! そういえば雨期でも何でも、薄汚れた大王像というのは見たことがありません。……ハワイにやってくる観光客が、ほぼ100%の確率で訪れる大王像。さすがに州政府も大切に扱っているわけで。下はつい2週間前に撮った大王像の写真ですが、洗われる前からして、ピカピカに綺麗だったと思います。


この日、足場を組まれた大王像の回りにも、たくさんの観光客が集まっていましたが……おめかし中の大王像を、恨めしそーに眺めていましたっけ。せっかく来たのに、記念撮影できなかったからですね。でも、こんな姿の大王像はきわめて珍しいんですから、「逆にシャッターチャンスですよ!」と言ってあげたくなりました~。ま、それは大王像のすぐ近くに住む私の、勝手な言い分でしょうが。

このカメハメハ大王像、「それでもキャプテン・クックは英雄?」の回でお話したとおり、1883年に建てられたものです。その頃もちろんカメハメハ大王の写真などなく、資料になりえたのは1枚の肖像画だけ。そのためハワイ王国は、銅像のように、羽毛のマントやヘルメットをロバート・ホアピリ・ベイカーというハワイアン男性に着せ、写真を撮って銅像のモデルにしたのだそうです。

先日、テレビでその写真を初めてみたのですが……。確かに大王像そっくりのいでたちの男性が、槍を持ち、大王像のようなポーズをとっていて、ちょっとおかしかったです! でも。一般に、「大王像のハンサムな顔つきもこの男性がモデル」と言われていたのですが、それは違ったみたい。

じゃ、あの超ハンサム、凛々しい大王像のお顔はどこから!? 本当にあのようなハンサムさんが存在したのか、それとも単に理想のハワイアン像というだけなのか。……ちょっと気になる私です。

2006年02月11日

それでもキャプテン・クックは英雄?

前回ふれた「恐怖の前」という本の題ですが……。これはつまり、キャプテン・クックのハワイ発見の前、という意味なのでした。つまり著者のデビッド・スタナード教授は、クックのハワイ発見から、ハワイで恐怖の時代が始まった、と言っているわけです。

ハワイ大学の教授、スタナード氏はアメリカ本土出身の白人教授。ですが「200年前に何人のハワイアンがいたのかを計算して、今なんの役に立つのか」というホノルルの地元新聞記者の質問に対し、次のように答えています。

「ホロコーストで100万人が死んだのか。それとも600人が死んだのか。または広島・長崎で何人死んだのか、ベトナムで何人殺されたかを考えることは、被害国にとっては重要なことだ」

う~ん。弱者に対する思いやりのある、ディープな意見ですネ。そういう観点に立って書かれたこの本、過激な内容ながらも、大変高く評価されており、私もいろいろ影響を受けてしまいました。

……一方、いったいハワイの人々は、クックに対しどんな感情を抱いているのでしょうか? やっぱりクックが大嫌い? いえいえ、そうでもないみたいです。どうも、クックはハワイアンにとっても英雄視されている気配で、ちょっと不思議に感じる私。

たとえば、ホノルルのダウンタウンのカメハメハ大王像。いわずと知れたハワイのシンボルであるこの銅像も、1883年、「キャプテン・クックのハワイ諸島発見100周年」を記念して建てられたものなんですって! 時はハワイ王国7代目の、カラカウア王の時代。除幕式を執り行ったのも、当のカラカウア王だそうですよ。やはりクックのハワイ発見は、ハワイアンにとっても歴史的によい出来事だと解釈されているのでしょうか?

さらに不思議なのは、クックのハワイ発見100周年の記念に、「カメハメハ大王像」が建てられたことです~。クックの銅像が建てられたのならまだしも、なぜカメハメハ像が?  クックがハワイ島でハワイアンの群集に殺された時、若きカメハメハもその群集の一人だったそうなんですけどネ! 

そしてもう一つ、クックに関してはこんな記念碑もありますヨ。場所はイオラニ宮殿の一角。宮殿のオフィスビルの前に、上の写真のようなクックの肖像画を埋め込んだ記念碑が建てられています。キャプテン・クックの名の下には、「南太平洋における現代文明の先駆者」なんて文字も。そしてカヌーに乗ったハワイアンが、クックの船を岸から見つめるような図まで描かれております……。

例の本によれば、クックのハワイ発見は、「恐怖の始まり」だったんですよね? ……ところがハワイでは、クックに対し文明をもたらしてくれた英雄、みたいな解釈が一般的みたいで……なんだか、私的には頭がこんがらがってきちゃいました。

皆さんは、キャプテン・クックのことをどう思いますか? やはり彼は、英雄なのでしょうか。

2006年02月07日

私はキャプテン・クックが嫌い

キャプテン・クックと言えば、ハワイ諸島を発見したイギリスの航海家ですね。キャプテン・クックの指揮する2船、レゾルーション号とディスカバリー号がハワイ島のケアラケクア湾に到着したのは、1778年のことでした。生まれて初めて西洋人と接したハワイアン。当初クックをハワイ神話上の神ロノの再来と思いこんでしまったので、島をあげて一行を大歓迎! 山のような御馳走でもてなし、首長一族だけが身に着けることができた羽毛のケープなんかも献呈して、大変な騒ぎになった……と歴史書は申しております。

なぜハワイアンは、クックを神と誤解したのでしょうか? というのも……平和の神ロノは妻とケンカしてハワイ諸島を出て行きましたが、いつかそのケアラケクア湾に戻ってくるという伝説があったこと。またクックが到着した時、奇しくもちょうどロノを祀る祭典、マカヒキの真っ最中だったこと。ロノは白い肌を持っている、と信じられていたこと。いろいろな偶然が重なって、ハワイアンはクックを神だと思いこんでしまったんですね。

なので、クックの船がハワイ島を出発した……と思ったら嵐に遭って破損し、即ハワイ島に戻ってきた時。「神の船が壊れるわきゃないヨ」というクックへの疑心がハワイアンに生じ。またクックへの連日のもてなしで食料不足?に陥っていたハワイアンは、クック一行に対し、モヤ~ンと複雑な心境にもなって……。結論から言うと、最初の時とはうって変わって、とても冷たく対応したそうです。

そんなこんなで対立が生まれ、クックは怒れるハワイアンに殺されてしまう……というところまでは、皆さんもよくご存知でしょうネ。

ではその先、この部分はどうでしょうか? ……クック一行の来島により、ハワイアン人口が激減したという部分なのですが。そうなんです。太平洋の真ん中で何百年もの間、世界から隔離されていた楽園ハワイ。当然、西洋の疫病に対する免疫が皆無だったので、クック一行がハワイを訪れた後は、梅毒や淋病、結核、風疹などなどの伝染病が蔓延! ハワイアンたちは凄まじい勢いで死んでいったのだそうです。

あ、もちろんクック自身は、立派な人だったと思うんですヨ(破廉恥な人ではなかったと信じたい)。でも、船のクルー多数が、大挙して無垢なハワイアンの島に上陸した結果、こういう事態になってしまったわけですね。ですからクックについての本にはよく、「クックはクルーに、ハワイに上陸するなと止めたが、クルーは聞かなかった」みたいな表現が出てきます。クック以降、大量のハワイアンが死んだことは周知の事実なんですね。では、その数はどうなんでしょう?

ハワイ大学の教授、デヴィッド・スタナードの書いた「Before the Horror 恐怖の前」という本によると、恐ろしいことにその後100年間で、95%以上のハワイアンが死んだのだそうです。100万人程度いたハワイアンが、クックの到来から100年後には5万人になっていた、というのがスタナード教授の推測。

そんな昔の人口について、具体的にわかるわけナイよ、と思う方も多いでしょうね? もっともです。でも、ここでは詳しく説明するスペースがありませんが、同著の中ではその辺も具体的な理由をあげて説明していて……私はすっかり「フ~ン」と感心して、異議を唱える気持ちもなくなっちゃいました!

そして本の中には、例として次のような他民族のデータも紹介されていて、もうビックリでした。

1.カリフォルニアのインディアンは、西洋人の到来以降100年間で98%が死んだ。
2.タヒチでは西洋人との接触後、25年間で75%の住民が死去。
3.南米のカヤポ族は、伝染病にかかっていた一人の伝道師の来訪以降、25年間で人口の99%が死滅。

これらの例を見ると、ハワイアン人口の激減説も、まんざら間違いではないかな~、という気になりますよネ。恐ろしい話ですが……。

(この話、次回に続く)

2006年01月10日

ハワイの紋章に秘められた過去

ホノルル・ダウンタウンに住んでいる私にとり、ハワイ王国宮殿のイオラニ宮殿や、その裏手に位置するハワイ州庁舎は日常のお散歩コース。イオラニ宮殿の門に飾られているハワイ王国の紋章や、州庁舎のあちこちにあるハワイ州の紋章なんて、それこそ毎日のように目にするわけですが……。今日はこの2つの紋章を比較研究してみました。


上の写真は、ハワイ王国の紋章です。

そして下がハワイ州の紋章。よく似ていますネ。それもそのはず。ハワイ州の紋章は王国の紋章を下地に作られているからです。

まず一つ目のハワイ王国の紋章ですが、これは1840年代、カメハメハ3世の治世に作られたものです。デザインしたのは王族の一人、ハアリリオさんだそうですよ。ハワイ州の紋章と比べるために、初めにこちらの細部を説明していきましょうね。

まず紋章中、左右に立っているハワイアンは、カメハメハ大王の叔父であり相談役だった双子の王族、カメエイアモク(左)とカマナワ。王族だけが着けられた羽毛のヘルメットとマントを着て、いかにも高貴なハワイアンらしい、勇ましいいでたちですネ。紋章全体の枠になっているのは、広げた状態の羽毛のマントなのだそう。

2人の間にある王冠は、まさにハワイアンなデザインの王冠です! 写真では見ずらいですが……真ん中あたりに、上向きのタロの葉が8枚描かれており、これはハワイ諸島の8島を表わしているんだそう。デザインを担当したハアリリオさん、芸が細かいですね~。

王冠の下に描かれているのは、ハワイ王国の旗にある8本のストライプ(これもハワイの8島の象徴)など。そしてテルテルボウズみたいな白いのは、昔王族の権威の象徴として王族の前や住居前に掲げられたプロウロウと呼ばれるスティックです。中央には、王族の乗るカヌーにいつも立てられた旗プエラと、カヌーのパドル2本が記されています。

一方、ハワイ州の紋章を見てみると……ひと目でわかるのが、左右の双子のハワイアン王族が消え、カメハメハ大王と自由の女神に取って代わられている点ですね。自由の女神が光ってしまってよく見えませんが(お粗末な写真で失礼)、女神は右手にアメリカの国旗ではなく、ハワイ州旗を持っております。

State of Hawaiiとの文字の下に、1959との数字が入っていますが、これはハワイ州がアメリカ合衆国の準州から州に昇格した年ですね。その下はハワイアンな王冠が消えて、太陽が描かれています(これも写真では見えません。ごめんなさい)。これはハワイが新たに合衆国の州として生まれ変わったことを、象徴しているんだそうですよ。

その下、8本のストライプとプロウロウ・スティックの中央には、カヌーのパドルなどが消え、いかにもアメリカらしい星のマークが。ハワイアンなデザインを無理やり軽薄にアメリカンにしたみたいで、ちょっとイヤに感じる私です。

さらにその下の鳥は、不死鳥フェニックスですって。これもハワイ王国から、民主主義の政府の下でハワイが生まれ変わったことを示すんだそうです。

こうして比較してみると、ハワイ王国の紋章とハワイ州の紋章って、似てあらざるものですネ。深い意味では全然違う! ハワイ王国最後の女王リリウオカラニが、白人勢力に武力の脅しでもって無理やり退位させられ、王国が崩壊した事実を考えると……。何だか2つの紋章の違いに、いろいろ考えさせられてしまいます。王国の紋章を塗り替えてハワイ州の紋章を作るのではなく、ハワイ州はハワイ州で、100%オリジナルな紋章を作ればよかったのに、なんて思うのは私だけでしょうか? 皆さんは、どう思いますか?

ちなみに、双方の紋章に書かれているハワイ語、Ua Mau Ke Ea O Ka Aina I Ka Ponoは、ハワイ王国のモットー。「土地の統治権は、正義によって守られる」と言う、カメハメハ3世のお言葉だそうです。このモットーについても面白い逸話があるので、近いうち詳しくお話しましょうね。お楽しみに~。

2005年12月11日

真珠湾攻撃とハワイアン


皆さんは[ニイハウ島事件]という歴史的事件を、耳にしたことがありますか? これは真珠湾攻撃に参加した日本人パイロットがニイハウ島に不時着し、島民を恐怖に陥れた事件なのですが……。すでに日米の様々な本の中でふれられているので、ご存知の方も多いかもしれませんネ。今回は先日の真珠湾の話題のエピローグとして、ニイハウ島事件について、少しご紹介しましょう。

カウアイ島近くに浮かぶニイハウ島は、ロビンソン一家所有の小島です。1872年、ハワイ王国5代目君主のカメハメハ5世から1万ドルで譲り受けて以来、ロビンソン一家のプライベートな島として機能しており、ロビンソン一家の許可なくしてはハワイ州知事ですら上陸できません。今はハワイアンばかりが200人ほど住んでいて、電気もガスもない、昔ながらのハワイアンな生活を続けています。もちろん言葉もハワイ語のみ。「禁断の島」「ミステリアス・アイランド」などと呼ばれる所以ですネ。

1941年12月7日、真珠湾を爆撃した零戦のうち1機が、エンジントラブルのため、このニイハウ島に不時着。パイロットの西開地大尉は軽いケガを負い、当初は住民の手厚い看護を受けていました。ところが、あるハワイアンが軍の機密書類とピストルを飛行機から盗み出したことがわかって、ひと悶着!

何せ文明の利器とは遮断されているニイハウ島のことです。零戦が不時着した時には、まだ真珠湾攻撃のニュースすら伝わっていなかったそう。ですが島一番のインテリのハワイアンが状況を察し、書類などを盗み出したのだとか。結局、西開地大尉は、当時島で働いていた日系2世の原田氏(カウアイ島生まれですが日本語ペラペラ)を味方につけ、武器を集めてハワイアン・ファミリーを人質に立てこもり。書類の返還を求めました。そして最後はそのハワイアンに殺されてしまう……というのが、事件のあらましです。

ちょうど真珠湾攻撃50周年が近づいていた1991年のある日。この事件について書かれた本を貸してくれたのは、前回にも登場した日系2世の男性ライターでした。彼は原田氏と同じカウアイ島出身の日系2世。そんなことから、アメリカ人でありながら大尉に味方した原田氏(最後に自殺してしまいます)には、いろいろ感じ入るものがあった様子。そこで私にぜひ読んでみるようにと、写真の本を貸してくれたのでした。彼の友だちの中には、「この本を僕は5回読んだヨ」なんて言う日系のお年寄りなどもいました。

どうやらニイハウ島事件は、二つの祖国?を持つハワイの日系人の複雑なメンタリティを、妙に刺激した事件だったようです。ハワイ生まれのアメリカ人でありながら、零戦パイロットと運命をともにした原田氏に、自らを重ねあう日系人も多かったのかもしれません。在ハワイの日本人として、とても興味深い歴史的事件なので、ちょっとだけ書いてみました。

ところで、事件の中で零戦パイロットを殺したのは、ベン・カナヘレというハワイアンです。彼の孫とは、数年前、ハワイアンの教会、カワイアハオ教会で知り合うことになりました。ニイハウ島で生まれ育った彼(でも英語もペラペラ)は、今は海軍のエンジニア。カワイアハオ教会の信者さんの紹介で知り合い、あれこれニイハウ事情など聞いたりしていた私です。当然、ニイハウ島事件の話題もたびたび出てきました。

ところが当初、くだんの男性は「零戦のパイロットを殺したハワイアンは、僕のおじいさんなんだヨ」なんてことは、一言も言わなかったんですよね(当たり前?)。ですから、ある日ほかの信者さんに、彼のおじいさんとニイハウ島事件の関わりを聞いた時は驚愕しました。……確かに彼の苗字はカナヘレです。でもニイハウにはたくさんカナヘレさんがいるのかと思って、気にもしなかった私。それが、「あの」ベン・カナヘレさんの直孫だというのですから……世間は狭いものですネ。いえ、ハワイが狭いということでしょうか。

ちなみにベン・カナヘレは、戦後、アメリカ政府から勲章も受けたほか、彼を讃える? 唄というのもあるのだそう(ハワイ語か英語かは聞き忘れました)。ぜひ一度、聞いてみたい。そう思いませんか?

2005年12月08日

真珠湾生存者との遭遇


今日は64回目の真珠湾攻撃記念日。日本ではきっと、新聞の片隅に小さな記事が出る程度でしょうネ。でもハワイでは大違い! 2400人のアメリカ人がアメリカ領土内で死んだこの日は、ハワイの、いえアメリカの人々にとって今だ重要な記念日。アリゾナ記念館での式典の様子が、新聞&TVで大きく報道されるのが常です。今日の夕刊紙の一面記事も、もちろんそのニュースでした。在ハワイの日本人にとっては、ちょっと肩身の狭い日でもあるんですよネ。

こうして毎年この日を、軽い困惑の気持ちで迎える私。特に、ちょうど真珠湾攻撃50周年を迎えた1991年。その時の気まずさは格別でした(ため息)。式典にはブッシュ大統領(父)まで来訪し、ホノルルにはナント世界中から、1500人以上の報道関係者が集まってきたのですから、その時のハワイの真珠湾狂想曲の様子を皆さんも想像できるのではないでしょうか? 中でも、真珠湾攻撃の生存者である老年男性、R氏と交わした会話を、今でも忘れることができません……。

アメリカには「真珠湾生存者協会」という、真珠湾攻撃の生き残り兵士の団体があります。R氏は、その生存者協会に所属する歴史家。自身も18歳の時に真珠湾攻撃に遭い、奇跡的に生き残ったサバイバーだそうです。ひょんなことで知り合った日系人のお年寄りが、R氏と会うというので、同席したのですが……。「日本から来たライターだよ」と紹介された私に対し、R氏は、初めから嫌悪感むき出し、という感じでした(フ~)。

そんなR氏に、「今、日本人のことをどう思っていますか?」なんて聞いてしまった私もバカですよね! ……それに対するR氏の返事がすごかった。ニコリともせず、正面から私を見据えてこうおっしゃいました。

「もし隣人がアンタの母親を暴行して殺したら? アンタはその隣人を、50年たったからと言って昼食に招き、仲良くする気になれるかね。俺の日本に対する気持ちもそれと同じだ」

そう言われた瞬間、全身から血の気がサッと引いた気がしました。R氏の憎悪を、ザブーンと頭からかぶったような……。

それを聞いた日系人のお年寄り(この人も実はライターです)は、私をかばうつもりだったのか? さらに火に油を注ぐようなことを言ってしまったからさあ大変!

「この間この子が言ってたけどね。どうしてアメリカは、大敗北である真珠湾攻撃の日にこんなにこだわり、式典とかするのかねえ。ふつうは戦勝記念日だとか、勝利の日を祝うんじゃないかね」

R氏はムッとした顔で言いました。「真珠湾攻撃が大敗北だったって!? とんでもない。あの日真珠湾から、たくさんの戦艦がマンマと逃げ出したのを知らないのか?」。そしてズラズラズラズラズラズラズラズラズラ……っと、多数の船の名前を挙げ始めたんですね(さすが真珠湾協会の歴史家です)。最後に、こんなことも言いました。

「いいかい、あの真珠湾攻撃の日は、アメリカの大敗北なんかじゃない。その後に続く大勝利の幕開けだったのサ!」

こうして気まずく終始したR氏との対話から、数日後のことです。真珠湾からの記念式典を生中継するテレビ番組を見ていてビックリ。ブッシュ大統領とバーバラ夫人の間に、なんとあのR氏が座っているじゃないですか。R氏から大統領に、どんな解説がなされたのかは、神のみぞ知るところです……。

さて、R氏とのそんな対話から早や14年。今年82歳となっているはずのR氏は、どうしているのでしょう。「もう亡くなってしまったかしら?」なんて、ちょうど昨日考えていたところ……今朝ラジオを聞いていて驚きました。R氏が真珠湾の特別番組に登場し、熱く自論を展開していたからです。何でもR氏はここ数年、「身元不明者」として葬られてしまった真珠湾攻撃犠牲者の水兵の身元解明を使命として、頑張っていらっしゃるとか。番組の中で、R氏は言っていました。

「64年前の12月7日以来、真珠湾攻撃のことを忘れた日は1日もない。あの日のことは、一生忘れない」

自分の墓石には、真珠湾生存者が授与されたメダルを埋め込んでほしい、と遺言しているというR氏。真珠湾に対するもろもろの怨念は、いまだ衰えていないようです……。

目の前で仲間を多数失ったR氏が、その日のことを忘れられないのは、仕方ないのかもしれません。ですが……。「リメンバー・パールハーバー!」という怨念とともに人生の大半を歩んできたR氏に対して、複雑な気持ちを抱かずにはいられません。もちろん「日本を許せ」なんてことをR氏に言うつもりは、毛頭ないのですが……。R氏が、真珠湾を取り巻く自分自身のネガティブな想いから、早く解放されてほしい、とは切に願う私です。憎悪からは、何の未来も生まれませんからね。人を赦すことは難しいですが、それはようするに自分のためというか……。

皆さんはどう思いますか?

2005年12月01日

カラカウア王の誕生日


11月中旬、ワイキキを歩いていたら何やら人だかりが。テレビカメラまで来ているので、「何かな~?」と近づいてみると……。輪の中心は、カラカウア王の銅像でした。その日、16日はカラカウア王の誕生日。ホノルル市長、ムフィ・ハネマンまでが駆けつけて、王の銅像前で、盛大に記念式典が開かれていたのでした。

 
式は法螺貝の合図で始まり、ロイヤル・ハワイアンバンドやフラダンサーまでが登場。スピーチをした人の中には、日本人連合協会なる団体の代表者もいたようです。なぜ、日系団体がカラカウア王の生誕祭で祝辞を述べるのでしょう? そのわけは……カラカウア王は、「日本人移民の父」だからです(だからどうして!?)。

ハワイ王国7代目君主のカラカウア王(在位1874年~1891年)は、1881年、9カ月をかけて世界を一周。日本を皮切りに中国やインド、エジプト、ヨーロッパなどを旅したのを、皆さんもご存知のことと思います。日本では明治天皇にも謁見し、その際に砂糖きび畑の労働力として移民を要請したことから、日本人のハワイ移住がスタート。1885年から1924年までに、実に22万人以上が、日本から楽園ハワイにやってきたのでした。

そういった経緯から、1985年、日系団体によって建てられたのがこの銅像です。1985年はハワイの日系社会にとり、日本人官約移民100周年という大きな節目の年でした。だからカラカウア王の銅像には日本語の説明プレートもついている上、左手に持っているのは、明治天皇と交わした移民に関する契約書なのだそうです。

私自身が日本人移民だから、というわけではないですが。私もカラカウア王が大好き。[南の島の王様]というフレーズを聞くと、まず思い出すのがカラカウア王です。ハワイ諸島を統一したカメハメハ大王はもちろん偉大ですが、強靭&天下無敵の戦士というイメージ。それに引きかえカラカウア王は、メリーモナーク(陽気な王様)の愛称で親しまれた好人物ですからね。宣教師の到来以来、「邪教の踊り」として禁じられていたフラを復興し、宮殿にお抱えフラダンサーやチャンター(詠唱者)を住まわせたり。音楽好きで、自らもウクレレを作ったり作曲したり。ハワイ島ヒロで毎年開かれるフラ競技会の最高峰、メリーモナークが、カラカウア王の名を冠していることは、よく知られた事実です。

そんな陽気な王様も、在位中には様々な批判を浴びたよう。「贅沢なイオラニ宮殿を建てたお陰でハワイ王国の財政が傾き、白人勢力にのっとられた」とか、「在位後8年も経ってから即位記念式典を開いて、金を湯水のように使った」などなど。

……確かに1882年に完成したイオラニ宮殿には、当時の金で36万ドルという、巨額がかけられていますから、一理あるのかもしれません。

それでも。現代ハワイにカラカウアが遺した功績は、とてつもなく大きいと私は思うのですが、どうでしょう。もしもカラカウア王がいなかったら。フラもハワイ語も、今頃この世から消えていたかもしれません。また、もしカラカウア王が、世界の国々から移民を募っていなかったら。人種のるつぼ、ハワイも、白人国家になっていたのかもしれませんからネ。オーストラリアのように……。

……南の島の陽気な王様も、その最期は淋しいものだったようです。1891年、体調を崩したカラカウア王は、治療を受けようとサンフランシスコに赴きましたが、彼の地で死亡してしまいます。命日は1月20日。シェラトン・パレス・ホテルの810号室で、静かに息を引き取った、ということです……。享年54歳でした。

2005年11月16日

ハワイアンの遺骨


ワイキキビーチを目前にしたカラカウア通りとカパフル通りの交差点に、柵に囲まれた石造りの渋い建造物があるのをご存知ですか? 見た目地味ですし、説明書きも小さいので、この三角ドームのような記念碑に注意を払う観光客は少ないのですが……実はこれ、ワイキキで発掘された多くのハワイアンの遺骨を祀る、記念碑なんです。

ワイキキにハワイアンが住み着いたのは、約1000年前。紀元1500年頃には、オアフの首長マイリクカヒが、ワイキキを首都に定めました。そして20世紀初頭に土地開発がスタートし、今や世界有数のリゾートとなったワイキキ。その歴史を考えれば当然と言うべきでしょうか。ワイキキでの建築工事の際たびたび、古代ハワイアンの遺骨が発掘されてきたのだそうです。

そういった古いお骨を祀り、過去ワイキキの地で暮らしたハワイアンを追悼するために建てられたのが、この[カヒ・ハリア・アロハ]と呼ばれる記念碑。2001年1月、当時のホノルル市長やカメハメハスクールの関係者、建設業界の要人、考古学者などが出席して、完成記念式典が行われたのは記憶に新しいところです。

ちなみに、ハワイ語で骨はIWI(イヴィ)。骨は古来ハワイアンにとって、大変、重要な霊的なものでした。ハワイアンにとり遺体は不浄とみなされていましたが、骨は別もので、逆に尊いものだったんですね。肉が朽ちても骨だけはしっかり残るため、魂の不滅を象徴するものだったようです。そのうえ骨には、死者のマナ、つまり霊気というか霊魂がこもるとも信じられていました。

そのため古代ハワイでは、愛する人の骨、特に足の骨と頭蓋骨をきれいに洗って清め、家に置いて崇めたり拝んだり……という習慣もあったそう。またクッション状のものに入れて保管し、毎晩一緒に寝たりも。……それはきっと妻が夫の、夫が妻の遺骨を抱いて寝る、といったシチュエーションだったのだと思います。骨に執着するというと聞こえが悪いですが、古代ハワイアンは、骨にはその人の魂が宿っている……とホントに信じていたのでしょうネ。

骨に対する敬意は[ハワイアンの骨]に限ったわけではなく、外国人の骨に対しても同じでした。1824年、カメハメハ2世がイギリスを訪れた時のこと。ウェストミンスター寺院に案内されたカメハメハ2世は、中に入るのを拒んだそう。そこにヘンリー7世の遺体が安置されていることを聞いて、敬意を示したからです。ハワイでは王族の遺体はしっかり外部の人間から守られているので、カメハメハ2世は「見も知らぬ自分が国王の遺体に近づいては失礼にあたる」と感じたのだそうです。

逆に死者の骨を粗末に扱うのは、古代ハワイでは大変な冒瀆。遺体、つまり骨を焼く行為は、死者への最大の冒瀆でした。というのも昔ハワイアンが遺体を焼くのは、生贄を捧げる時か、または戦いで敵側の一人目の死者を焼く時ぐらい。それもまた生贄のようなものだったので、一般の死者を荼毘にふす習慣は全くなかったようです。遺体が焼かれたら最後、魂はあの世の先祖のもとに旅立てない、と信じられていたのがその理由。だから今でも、火葬ではなく土葬を好むハワイアン家族が多いようです。

このように、お骨の扱いに大変神経質なハワイの人々。皆さんも今度ワイキキを訪れた時は、このハワイアン塚とも言える記念碑をぜひ訪れてみてください。いにしえのワイキキの住民たちも、きっと喜んでくれると思いますヨ。

2005年11月04日

ハワイアン初のクリスチャン

前回は、カソリック教会墓地にまつわるちょっと不思議な話をしました。連想ゲームではないですが、今回はハワイのプロテスタントにまつわるお話がテーマ。「ハワイアン初のクリスチャン」となった、ある薄幸の男の子についてのお話です。


ホノルル・ダウンタウンにあるカワイアハオ教会は、ハワイ初のキリスト教の教会です。建立されたのは1820年。歴史あるこの教会についてはまたの機会にゆっくり書きたいのですが、何を隠そう十三年前、私が挙式したのもココ。家からも近いので、散歩がてらブラブラ教会の敷地内を歩くのが私は大好きです。


その時真っ先に挨拶に出かけるのが、教会入り口近くにある、このハワイアン男性の肖像画です。彼の名はヘンリー・オプカハイア。とてもハンサムで凛々しいでしょ? 彼は1795年、ハワイ島のケアラケクア湾に生まれましたが、13歳の時、両親が部族間の争いで死亡。1人泣いていたところを、アメリカ人船員に拾われたそうです。

その後ヘンリーは広いアメリカを見たいと、捕鯨船のボーイとしてニューヨークに渡り、次いで捕鯨船の船長に連れられコネチカットへ。そこで出会ったのがキリスト教でした。ミッションスクールに入り、読み書きと聖書について学んだヘンリーは、やがて宣教師になることを決意します。ハワイに戻ってキリストの教えを、ハワイアンに広めようと希望に燃えていたヘンリー。ところがハワイに帰る直前チフスにかかり、わずか26歳の若さで亡くなってしまいました。ヘンリーが美しい故郷の海を再び見ることはなかったわけです(涙)。

こうして若くして亡くなったヘンリーですが、教会の肖像画の中で見る彼は希望に溢れていて、何やらオーラさえ漂っている感じ。そのキラキラの瞳を見てください。見ているだけで夢と希望が湧いてくる……ような気がしませんか? ハワイアンらしい褐色の肌を西洋のコートに包んで、邪気のない眼差しで前方を見据え、優しい笑みをたたえた彼を見るのが私は大好きなんです。

ヘンリーの夢は半ばで朽ちてしまったわけですが、結局彼の願いと働きがきっかけとなって、彼の死後から2年後の1820年、ボストンから初の宣教師(プロテスタント)がハワイ入りするわけです。いわばヘンリーは、「ハワイのキリスト教の父」。父と呼ぶには、あまりに若いですけれど。

ところが。

……今では皆さんもご存知ですよね。宣教師のハワイ入りをきっかけに、南の楽園で一攫千金を狙った実業家など、多くの白人がハワイにわんさか流入し、政治・経済の鍵を握っていきます。王族も次々にクリスチャンになって、宣教師の言いなりになり、ハワイ固有の宗教、文化は否定され、それに伴いフラもサーフィンも、初回でお話したようにハワイアンネームすら禁じられていくわけです。

ハワイ王国はかつて独自の憲法、通貨を持ち、100を越える国々と外交関係を持つ独立国でした。それがいわば白人勢力に乗っ取られて、1893年、ハワイ王国は崩壊します。そしてやがてはアメリカ合衆国に併合されるんですね。

こんなことを考えながらヘンリーの肖像画を見ると、悲しくなってしまうのも……事実。キラキラ瞳の若きヘンリーは、「未開の地で苦しむ自国人に神の光を与えたい」と思ったんですよね。でもその結果、国も言葉も失ってしまったハワイ。彼が今のハワイを見たら、どう思うのでしょう? ……その瞳が、一気に曇ってしまうのではないかと心配です。


ハワイ在住15年目。ネイティブ・ハワイアンの夫と小学生の息子&娘の4人家族。何よりもハワイアンカルチャー、ハワイの不思議世界が好き。

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